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何もかもが自棄だった。もう、なるようにしかならない。必死に隠そうと最後の力を振り絞って一世一代の芝居を演じていたのに皮肉にも瑠香は全てを知っているようだった。真由美が秘事の隠蔽にどれだけ奔走したとしても両手に掬った水のように隠し事はどこからか漏れてしまう。事実は少しずつ世間に知れ渡るのだろう。そして両親が知るのは時間の問題だ。真由美は全身が地面に引きずり込まれるような錯覚を覚えた。深い深い疲労感だった。全てを終わらせてしまいたい。終わらせるしかない。真由美は死ぬこと以外考えられなくなっていた。
死ぬときぐらい着飾りたい。
思えばこの半年間というものただ生きることにだけ固執していた真由美は生きる以外に何も求めていなかった。ゆっくりと湯に浸かって身体を磨き、きれいな洋服で着飾り、丁寧な化粧で艶を醸し、久しぶりに真由美は女に戻った気がした。それは死に化粧のつもりだった。女として命の終わりを華々しく輝かせたい。それだけだった。
「遅くなってごめんなさい」
女は男を待たせるものだ。遅れても上目遣いに今にも泣き出しそうな顔で謝れば許される。それが美しい女性にのみ与えられる特権なのだ。若い頃はときどきこの力を使うことがあった。しかし真由美はもう若くはない。今もその権利を有しているか真由美は村瀬で試してみた。コンサートはすでに始まっている時間だった。
「すっぽかされたかと思いましたよ」村瀬はほっとした顔で真由美を迎えた。「来ていただけたらそれでいいんです」
村瀬の顔には待たされた怒りなど微塵も感じられない。それどころか真由美に対して感謝の気持ちを表情に表している。
真由美は満足だった。自分が保っている美にまだ輝きがあることが証明できたのだ。瑠香を虜にしているという村瀬が無邪気に喜ぶ顔を見ていると頬に血が上ってくるのが分かる。全身に熱い何かが行き渡っていく。真由美は己がどんどん内側から美しくなっていくのが実感できた。死神に魅入られたからこその輝きだった。真由美は目の前の男を道連れにすることに決めていた。
「あら。私はコンサートを楽しみにしていたのよ。ほら、行きましょ」
真由美は村瀬を置いてさっさと会場目指して歩き出した。「待ってくださいよ」とすがるような声で村瀬が小走りに追ってくるのが気配で分かる。追いついてきた村瀬が右側に並んだとき、すかさず村瀬の腕に腕をからませて身体を寄せてやる。それで村瀬はどこか誇らしげに胸を張り顎を引いて真由美の歩幅に合わせてゆっくり歩くようになる。ホールに入ればさりげなく村瀬の斜め後ろに下がって彼に席までエスコートさせる。最小限の照明で足元も覚束ないほの暗さの中では手を繋ぐのも自然だった。席にたどり着いて腰を下ろしても真由美は手を放さなかった。節くれだった厚い手の力強さが心地よかった。真由美は腿の上で村瀬の手を強く握り締めた。村瀬はこちらを見ることなく心持表情を精悍に引き締めてすぐに真由美の白く細い手をしっかりと握り返してきた。少し痛みが走るほどの加減のなさが真由美をうっとりとさせる。
こんなものだ。
ここまでの一連の村瀬の動きは思惑通りだった。
真由美は二十年近く前に数ヶ月間中学校で教鞭をとっていたときのことを思い出していた。赴任した早々妊娠に気付き、父親のいない子を産み未婚の母になることを決心して教壇を降りたので音楽教師だったのはほんの数ヶ月だったがあのときの生徒たちの従順さは死んでも忘れられない。彼らは教えたことを日照りの地面にまかれた水のように即座に吸収していった。誰もが真由美の期待通りの反応を返してくれた。他の教師たちは生徒が言うことを聞かないとこぼしていたが真由美はその言葉が信じられなかった。生徒たちは皆素直に真由美の言葉や態度に従っていた。今思えばそれは真由美の美しさに生徒たちが惹かれていたからなのだと分かる。それはちょうど今隣に座っている村瀬と同じだった。