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ベッドに身を起こし、ぼんやり壁を見つめながら村瀬浩幸はくわえた煙草に火を点した。
男と女が互いの肌の温もりを求め合うためだけに用意された部屋にふさわしく相手のシルエットが分かる程度に抑えられた橙色の柔らかい照明が事が済んだ後の気だるい身体には心地よかった。腹の底から煙を吐き出すと何ともいえない贅沢な時間を味わっているようで浩幸は満ち足りた気分だった。
「なあ」
呼びかけても隣でこちらに背を向けて横たわっている紺野瑠香はぴくりとも反応しない。それは見慣れた情景だった。瑠香はいつもこうなのだ。彼女は眠っているのではない。かと言って起きているのでもないらしい。意識はあるのだが何も考えられない状態。浩幸の声が聞こえていないわけではないが、自分が話しかけられているという感覚が欠如していると瑠香は言う。夢と現実の間に存在する不安定な緩衝地帯に漂っている浮遊感が言葉にならないほど心地が良いらしい。髪一本動かさずにまどろみのバランスを保ち続ける彼女はたとえこの部屋に強盗が押し入ってこようがこの部屋が火に包まれようが身動ぎひとつすることはないように見える。
薄暗がりの中でも毛布から出ている瑠香の華奢な裸の肩は鮮明に白く瑞々しく、その肌理の細やかさは浩幸に先ほど這わせた唇に伝わった柔らかい感触と仄かに匂いたった女の香りを思い出させる。
「瑠香。そろそろ起きろよ」
幾度呼べども相手は糸の切れた操り人形のように動かない。
浩幸にしても瑠香の至福のときを無下に邪魔しようとする気持ちはなかった。しかし二人が果ててから今まで優に一時間浩幸も話しかけるのを我慢していたのだ。そろそろ彼女も快楽の余韻から現実の世界に戻ってきてもいい頃ではないか。
もう一度浩幸が呼びかけながら肩を揺すると瑠香はこちらを振り向くこともなく「もう。何なの?」と不機嫌そうに返事をした。
「あのさ、その・・・」
予想以上に冷ややかな態度に浩幸は思わず口ごもった。
「だからなんなのよ」
声は聞こえてくるが瑠香は身体を動かそうとしない。
「例えばさ、お前、結婚ってどう思う?」
今夜、浩幸はそのことばかりを考えていたのだ。
浩幸は三十三歳。世間から見れば結婚するには少し遅い部類に入るのかもしれない。高校や大学の同級生の中でまだ結婚していないのはほんの一握りになってしまっていた。しかし、だからと言って浩幸が焦りのようなものを感じているわけではなかった。彼も二十歳の頃はそれなりに結婚願望というものがあって、愛する妻との幸せな家庭を理想の未来として思い浮かべていたこともあった。何十年かかってもいいからローンを組んでマイホームを買い目に入れても痛くない我が子の成長を眺め、老後には夫婦二人南国で余生を送る。しかし年齢を重ねていくうちにそういった甘美な人生設計はいつの間にか浩幸の心からはらりはらりと剥離していった。それは決して浩幸が世間に擦れたわけではなく、彼が真面目に生きているからこそそういう結論に至るのだった。
結婚するということは当然ながらこれから何十年と同じ女性と生活を共にするということだ。一人の女性を永遠に愛し続けることなど果たして可能なのだろうか。そんな約束は甚だ無責任だと浩幸は思う。「永遠」という誓いはこれ以上ない不実なものだ。「この先ずっと」などとは恐ろしくて口にすることはできない。守らなくてはいけないものができるという事実は浩幸にとっては消極的な響きにしか聞こえなくなった。責任という名目で自分の行動に制約が生まれるのはどう考えても不幸だし、自分以外の人間の幸せを慮る余裕など持ち合わせていないと浩幸は思っていた。月々の小遣いの額に汲々とし子育てのあり方に折り合いを欠く周囲の既婚者の生活を見聞きすればするほど自分の考えの正しさに確信が深まる。そんな浩幸が結婚について真剣に考えるにはそれなりに理由があった。
浩幸は今日の部長室を思い出していた。
まもなく終業時刻になろうかという頃に突然浩幸は内線で部長の桜井に呼び出された。桜井が浩幸の直属の上司である営業課長の今枝を通さず直接、係長の浩幸に電話を掛けてくるのはこれまでになかったことで浩幸は得体の知れない不安感に顔を強張らせつつ部長室のドアをノックした。
部屋に入ると机に向かって書類に目を通していた桜井はゆっくりと顔を起こし、いつもの身のすくむような鋭い眼差しはどこやらに隠して見たことのない柔和な表情で浩幸を迎えた。相好を崩してソファに座れと手招きする桜井が浩幸は不気味でしかたなかった。
桜井は社内でも指折りのエリートでまだ四十代前半であるにもかかわらず会社の花形である営業部を任せられている。眉間には常に険しいしわが刻まれ仕事に対して妥協することを許さない、自分にも他人にも厳しい人間だった。そんな桜井が満面の笑みを見せることなど浩幸が知っている限りでは一度もなかったことだった。英会話の講師のようにどこかわざとらしくフランクな態度の部長を前にして愛想程度の笑顔を返す余裕さえも浩幸にはなかった。
「何かご用でしょうか?」
浩幸はどこまで沈むのか分からないほど弾力に富んだ革張りのソファに身を委ねつつ苦味の強い居心地の悪さを両の奥歯で噛締めていた。
「まあ、そう構えないでくれよ」
そう言って桜井は哄笑し執務机から離れると煙草に火を付けながら浩幸の向かいに腰を下ろした。浩幸はその部屋に響き渡る笑い声にさらに萎縮しながらも徐々に不快感を抱き始めていた。
「そうおっしゃられましても」浩幸は桜井の目を初めて直視した。「部長の直接のお呼び出しは初めてのことですから」
浩幸は一向に用向きを話さず弛緩した表情を浮かべている桜井に対して言葉の中に棘を含ませたつもりだった。一寸の虫にも、と思わないわけにはいかなかった。しかし桜井は「そうだったかなぁ」と曖昧にとぼけてゆっくりと煙を吐き出しただけだった。
桜井は時間を掛けて燻らし短くなった煙草を慈しむように丁寧にもみ消しようやく身を乗り出して口を開こうとした。笑顔は消えてはいないがいつもの鋭さが目に戻ってきている。いくつもの修羅場を潜り抜けてきたであろう男の顔にはこの若さで会社内の評価を揺るぎないものにした逞しさが漲っているようだった。浩幸は反射的に目と耳を桜井に向けて集中させた。
どことなくきな臭さを浩幸は感覚的に嗅ぎ取っていた。この呼び出しは何かの前触れであることは間違いない。しかし自分の身の回りのどこに火種が燻っているのか予想もつかなかった。
「村瀬君。君は今度のN地区の再開発プロジェクトを知っているかね」
そんな話は初耳だった。N地区は都心に位置し従前より開発に開発を重ねられてきた区域で今さらどこにも我が社が手を付けるようなところがあるようには思えなかった。
「存じ上げませんが」
「そうだろうな。先日の役員会で正式に決まったばかりだ」
そう言って桜井は背後の執務机の上に手を伸ばし封筒を掴んで浩幸の前に差し出した。
「あの地区の真ん中には中学校がある」
封筒の中身は数枚の写真だった。そう大きくない校舎を色々な角度から撮ったものだった。桜井が言う中学校のものと思われた。
「知っての通りあの地域は繁華な街だ。狭い区域にビルがひしめき合い娯楽施設もたくさんある。朝も昼も夜もない。そういうところは住むには適さないものだ」
桜井の言わんとすることは浩幸にも理解できた。
オフィス街や娯楽街は進化すればするほど人間の生活を退けていく。都会に働く人間の居住区域はやがてその周辺部に広がっていき都心と呼ばれる空間に人間が起居する領域は見当たらなくなっていく。いわば都会の過疎化だ。見かけ上、人はひしめき合うように密集しているが実際そこに居住している者などごくわずかしかいない。
「この学校を潰すということですか?」
「察しがいいな」桜井は軽く頷いた。「その学校の敷地を利用してショッピングモールを建設する」
大きなプロジェクトだと浩幸は思った。水平にも垂直方向にも限界にまで伸びきったこの街で一つの学校がぽっかりと空き地に変わる。空間に飢えた資本家たちが戦場で清浄な水を奪い合うようにその土地に群がるだろう。巨額の資金が動くのは必至だった。
「そのプロジェクトを君に担当してもらう。村瀬君。君がリーダーだ」
浩幸は思わず身震いした。部長直々に呼び出された理由はこれだったのだ。一瞬全身を寒い緊張感が走りぬけたがそれはすぐに治まって今は身体の奥に熱い何かが蠢いていた。
「このプロジェクトが成功すれば俺が君を課長級に引っ張ろう。君は三十代半ばにして課長職だよ」
それは異例の出世だった。
すでに桜井は笑っていなかった。射るような視線で真っ直ぐに浩幸を見つめている。浩幸は桜井に試されていると思った。今、浩幸は桜井の傘下に入るかどうかの別れ道に立たされたのだ。
桜井は将来社を担う人物だと言われている。しかしそう言われているのは桜井だけというわけでもない。桜井はこれから社内の権力争いに身を投じ急峻な山の頂きを目指していくのだ。来春専務が体調不良で退職することは社内周知の事実だった。つまり役員のポストが一つ空くわけである。今日浩幸を呼んだのは、桜井がもう一つ階段を上るための準備に入ったということだろう。ここで企業という土壌に勢いよく芽を出しつつある若手を取り込み少しずつ自分の派閥を形成していく算段なのかもしれない。そうだとすれば浩幸は大きな転機を迎えていることになる。今ここで桜井の勢力下に入りサポートすることで桜井が成功して重役にのし上がって行けば将来の浩幸の出世も約束されたようなものだ。しかし逆に桜井が抗争に破れるようなときは一蓮托生で浩幸の将来の芽も摘まれてしまう可能性がある。
「もちろん美しい花には棘があるのと同じようにうまい話には裏があるものだ。君が有能だということはわかっているが、能力さえあれば大きな仕事を成し遂げられるというものでもない」
やはり来たかと浩幸は身構えた。敏腕で鳴らした桜井の戦略だ。一筋縄でいかないことは目に見えている。浩幸は腹の底に力を入れて桜井の言葉を待った。
「条件はただ一つだ」桜井の目にさらに険しさが宿る。「君には私の娘と結婚してもらう。それが嫌ならこの仕事は他の男に任せよう。私は器の小さい男だ」
浩幸は一向に何の返事もしない瑠香の髪を撫でながらまだ迷っていた。細く滑らかな瑠香の髪は絹のように心地よい肌触りだった。言葉にはしないが浩幸のなすがままにしているということは瑠香も浩幸の掌の感触を嫌がってはいない。瑠香は不快と感じることを黙って受け入れる女ではない。
「少し時間をください」
あのとき、瘧のように身体が震えるのをこらえながら部長室で言えたのはそれだけだった。当然だろう。結婚などという人生の一大事をあの瞬間で決めるわけにはいかない。しかし桜井の言葉には否とは言わせない響きがあった。そして浩幸自身も断ることはできないだろうと思っている。今後のことを考えるとあの場で即答しなかったことさえ悔やまれるようだ。桜井はあからさまに自分の傘下に入れと言ってきたのだ。しかも娘の夫にということは今後右腕として働けということであり、これ以上ない待遇で迎えるとほのめかしている。ここまで買われては後に引き下がることは難しい。仮に断った場合は桜井によって今の会社で少なからず働きにくくされることは目に見えていた。桜井の冷酷な眼差しが雄弁にそう物語っている。
しかし、瑠香は何と言うだろうか。
瑠香と初めて夜を共にしたのは瑠香が入社してすぐの歓迎会の日だった。どちらから誘うわけでもなく半ば通勤電車に乗るようなよどみのない流れでホテルに入り、気がつけば乗り遅れたバスを追いかけるようにお互いの身体を貪りあった。そして一年半が過ぎている。
しかし瑠香とは恋人同士というわけではない。二週間に一度ぐらいのペースでベッドを共にするだけの淡白な関係だ。今後付き合うだの別れるだのそんな面倒な決めごとは抜きにしよう。二人で迎えた最初の朝にそう約束して別れたのだ。
浩幸は瑠香のほかに今は誰とも付き合ってはいないが、瑠香の周りには男の匂いが常に漂っている。瑠香についての社内の赤い噂を全て鵜呑みにするわけではないが火のないところには煙も立たないというものだろう。浩幸自身も瑠香にとって自分が大勢のとは言わないまでも数人の中の一人だという感覚を持たざるを得なかった。そしてこの関係を浩幸は気に入っていた。この年齢になってくると一度関係を持った女は結婚を意識してギラギラした目で男を追いかけてくる。そんなゴールありきといった付き合いに浩幸は閉口していた。絶対に結婚しないと頑ななわけではなく行き着くところまで来た感があればそのときに初めてそういうことを意識すればいいと浩幸は思っているのだが、付き合う女性達は「いつ結婚するの?」という口調で、「捨てないで」という目つきで、浩幸をがんじがらめにしようとする。そうなると浩幸は息苦しくなって逃げ出したくなるのだ。瑠香はそういう目をしない。どこを見ているのか分からなくてあやふやだが、浩幸を追い詰めるような眼差しでないことだけは確かだった。
「誰かと結婚するのぉ?」
ようやく寝返りを打ってこちらに顔を見せ気だるそうに瑠香はそう言った。毛布の裾から現れた乳房が小さく揺れた。まだ目は閉じたままだった。
「まだ決めたわけじゃないんだ」
一時間前には執拗に愛撫を繰り返した裸体に言い訳をするように浩幸は言った。
確かに決めたわけではない。だが少なくとも上司の命令としてその一人娘とやらに会わないわけにはいかなかった。そして一旦会ってしまえば桜井部長にも当人に対しても断りづらくなることは分かっていた。明確に断らなければ浩幸にお構いなしに話は着々と進んでいくだろう。浩幸には結婚への真っ直ぐな一本道が目の前にくっきりと見えるような気がした。
浩幸だって木や石ではない。人間である以上肌を触れ合わせれば情も愛着も生まれる。いくら淡白な関係だからと言っても男と女である以上そう易々と割り切れるものではない。今ここで瑠香に「結婚なんかしないで」と泣き叫ばれたら「面倒なことは言わない約束じゃないか」と冷たく突き放すことが果たしてできるだろうか。浩幸にその自信はなかった。そうなれば根気よく説得するしかないのだろう。金でけりをつけることになるかもしれない。浩幸は息を詰めて瑠香の次の態度を待った。
「どっちでもいいわ」瑠香はまるで興味なさそうに眠そうな目をこすり大きくあくびをした。「どっちでもいいけど面倒なことだけはやめてよね。この関係をやめたいならそう言って。やめたくないなら何も言わなくてもいいわ。私、あなたとのは気に入ってるからこのままずるずると不倫になっても全然構わない。おまかせしまぁす」
最後は半ば楽しそうにそう言うと瑠香はするするとベッドから降りてバスローブを身に纏い暗がりの向こうにあるバスルームに消えていった。
毛筋ほども嫉妬心を見せない瑠香に浩幸はほっとしたような気がしたが細い棘が刺さったような寂しさがもたらす心の痛みもチクリと感じていた。