第五話 死者蘇生を望む少年
「……出張修繕、ですか?」
新築の『九重堂』の帳場で、俺は神崎から渡された依頼書を見つめていた。
二億一千万円の借金返済に追われる日常だが、今回持ち込まれたのは化生の器の査定でも、通常の持ち込み修理でもない。
「そうなんだよ。お隣の那須常陸市にある古社からね、御神体として祀られている古い神具の修繕を頼まれてね。本当なら陰陽寮の本部から専門の技師を寄越すんだが……生憎と今は人手不足でねぇ」
神崎は煙草の煙を吐き出しながら、ニヤリと笑った。
「君の腕なら問題ない。報酬も上々、当然全額を借金の返済に充てさせてもらうよ」
「断る選択肢はないってことですね。……分かりました、行ってきます」
道具箱を背負い、俺と黒江は神崎に指定された場所へと向かった。
道中、静かな山あいの参道を歩いていると、すれ違う人影があった。
制服を着た高校生の少年だ。
だが、その雰囲気は明らかに異質だった。
彼の背後から、不気味な緑色の妖光がゆらりと立ち上っている。
「……蓮様」
黒江が素早く俺の前に立ち、甘えを捨てた警戒の眼光を少年に向けた。
「あの少年……ただ者ではありませんわ。強烈な【土】の霊気を纏っています」
少年が足を止めた。
振り返った彼の瞳は暗く沈み、深い絶望と執着が宿っている。
「……君たちが、陰陽寮の出入り業者……修繕屋か」
「君は……誰だ? その霊気、一体何をしている?」
俺が問いかけると、少年は自嘲気味に口元を歪めた。
「僕は葵。……探しているんだ。死んだあいつを……妹を蘇らせる方法をね」
「死者蘇生……!?」
「この戦の参加者だという男から聞いたよ。この戦いに勝ち残れば、世界の理をひっくり返し、失われた命すら取り戻せるってね!」
葵が胸元から取り出したのは、古びた細工の施された木だった。
彼がその木を強く抱きしめた瞬間、地面から緑色の妖気の嵐が吹き荒れた!
「出ておいで……『枕返し』!」
ズズズ……。
地響きが立て、葵の背後の影から、巨大な頭部を持つ頭巾姿の妖怪——【土】の付喪神『枕返し』が姿を現した!
「命を弄んじゃダメですわ! 死者の未練に囚われるなんて……『純愛塗潰』!」
黒江が咄嗟に墨の障壁を展開し、葵たちへ突撃しようとした。
だが、枕返しがその木彫りの枕をグルリとひっくり返した瞬間——。
ゴオンッ!!
「なっ……!? きゃああっ!?」
突然、天地が逆転した。
空が足元に広がり、地面が頭上に聳え立つ。強烈な重力の混乱に、俺と黒江はわけも分からず浮き上がり、空中へ放り出された。
「ぐっ……! なんだこれ!? 空間が……!?」
「蓮様っ! 空間の上下左右が狂わされていますわ!」
ドガァンッ!
本来なら横にあるはずの境内の石垣へ、上から落ちるように叩きつけられる。
枕返しの能力——それは夢と現実、そして空間の『天地』をひっくり返す【土】の術!
「ふふ……上下も左右も分からない空間で、どうやって戦うのさ?」
葵の冷たい声が、狂った空間のどこかから響いてくる。
天地が狂う狂乱の空間の中で、俺たちは上下左右の概念を失い、完全に翻弄されていた——。
「くっ……どこから落ちてんのかも、分からねぇ……!」
石垣の壁面へと叩きつけられ、俺は必死に呼吸を整えた。
視界の中では、境内の参道が垂直に切り立ち、空が足元で青く広がっている。
上下左右の感覚が麻痺し、立つことすら覚束ない。
「蓮様、お怪我はありませんか!? この……無礼者がっ!」
黒江が空中に墨の足場を生み出し、俺の体を抱き留めた。
だが、その墨の足場すらも『枕返し』の術によって天地を翻弄され、ぐにゃりと歪んで消えていく。
「無駄だよ」
歪んだ空間の天井——かつての地面に立つ葵が、見下ろすように冷たく言い放つ。
彼が胸元から取り出したのは、もう一つの古い道具。
古びた布に、一対の瞳が描かれた『手の目』の付喪神だった。
「僕の『手の目』からは、どんな隠れ処も逃げ道も見え透いている。影に隠れても、属性の裏をかこうとしても、すべて無駄だ」
「あいつふたりも付喪神と契約してんのかよ」
手の目の瞳が怪しく光ると、俺たちの周囲の空間に、不可視の霊力線が網の目のように張り巡らされた。
逃げ道も、死角すらも完全に遮断されている。
俺たちがどの方向に動こうと、狂った重力と【土】の霊気の刃が正確に襲いかかってくるのだ。
「葵……目を覚ませ!」
俺は襲い来る石礫の嵐を鑿の柄で弾き飛ばしながら、叫んだ。
「死者蘇生なんて……大妖怪の吐いた嘘だ! お前の想いを利用して戦わせようとしてるだけなんだよ!」
「黙れっ!!」
葵の顔が悲痛な怒りに歪んだ。
「お前たちに何が分かる!? ある日突然、事故で僕の前から消えた妹の絶望が……残された僕の苦しみが、お前なんかに分かってたまるか!」
「分からねぇよ! だけどな、器の理を修繕してきた俺には分かる! 壊れた命は……失われた魂は、骨董品みたいにパーツを取り替えて元通りに修繕できるもんじゃないんだ!」
「うるさい、うるさい、うるさい! この戦に勝ち残る力があれば、時間をも巻き戻せるって! 妹の笑っていたあの日に戻れるんだって!」
葵の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
だが、その涙とは裏腹に、枕返しと手の目の霊気は狂暴さを増す。
重力の歪みはさらに凄まじい渦となって俺たちを押し潰しにかかってきた。
「届かない……説得の言葉なんて、今のあいつには何も入っていかねぇ……!」
届かぬ言葉と、逃げ場のない死角なき追撃。
俺たちの身体は、すり鉢の底に落ちるように追い詰められていった。
「ハァ……ハァ……」
膝をついた俺の肩に、強烈な【土】の重力が圧しかかる。
上下左右が狂った空間で執拗な攻撃を受け続け、俺の体力は限界に達していた。
額から流れた血が、視界を赤く染める。
「これで終わりだ……お前には消えてもらう!」
葵の合図とともに、枕返しが引き起こした重力の奔流と、手の目が放つ必殺の霊弾が、動けない俺へ向かって一斉に放たれた。
(しまっ——逃げ切れねぇ……!)
死を覚悟したその瞬間。
「……様」
蚊の鳴くような声が、俺のすぐ隣から聞こえた。
「私の……大好きな、蓮様を……」
黒江の全身から、これまでとは比べものにならない、どす黒くも鮮烈な極彩色の愛憎の霊気が溢れ出した。
「蓮様を苦しめるなあああああぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
ドドドドドカァァァァァンッ!!
叫び一発。
空間全体が惨叫を上げた。
葵の亡き妹への執着、その悲痛な叫びすらも完全に塗りつぶす。
黒江の重すぎる凄まじい嫉妬と怒りが爆発したのだ。
「な、なんだこの霊気は!? 一人の男への執着だけで、術式が……世界が書き換えられていく!?」
葵が恐怖に顔を跳ね上げる。
五行の【木】がどうとか、【土】がどうとか、そんな道理は一切関係ない。
ただ愛する蓮様を傷つけられたという一点のみで発動した破壊。
「蓮様の視線も! 蓮様の心も! 傷つけていいのは私だけですわぁぁぁっ! 『純愛激怒・嫉妬塗潰』!!」
ドバァァァッ!!
天地がひっくり返っていた空間そのものが、巨大な墨の波に呑み込まれて全壊した。
『手の目』の透視線は墨で塗り潰されて遮断され、『枕返し』の天地逆転の術式は、黒江の圧倒的な霊圧によって力ずくで破砕された。
「キャあああぁぁぁっ!?」
「グアァァァッ!?」
二匹の付喪神が悲鳴を上げて吹き飛び、その実体である『木彫りの枕』と『目隠しの布』が手元から弾き飛ばされる。
狂っていた天地がガラガラと音を立てて元に戻り、俺たちは無事に境内の地面へと着地した。
「ハァ……ハァ……蓮様……! ご無事ですか、蓮様ぁっ!」
術を粉砕した黒江が、涙目になりながら俺に飛びついてくる。
「お、おう……助かった、黒江。……だけど、最後のセリフ『傷つけていいのは私だけ』って聞こえたんだが?」
「気のせいですわ! 愛の表現の一環ですわ!」
俺は苦笑しつつ、転がった『木彫りの枕』と『目隠しの布』を手際よく布で包み、回収した。
術が解け、膝から崩れ落ちた葵のもとへ歩み寄る。
葵は地面に伏し、ぽろぽろと涙を流していた。
「……僕の負けだ。妹を……蘇らせることは、できなかった……」
俺は葵の前にしゃがみ込み、静かに語りかけた。
「葵。妹さんを想う気持ちは本物だったと思う。……けどな、死んだ者を無理に引き戻そうとしたら、今のお前みたいに生きているお前自身が壊れちまう。妹さんも、そんなこと望んじゃいないはずだ」
葵は溢れる涙を拭おうともせず、ただ静かに泣き続けた。
その時——。
「やあやあ、見事な決着だねぇ」
パチ、パチ、パチ、と呑気な拍手とともに、参道の奥から神崎が現れた。
「神崎さん……見てたなら助けてくださいよ」
「ハハハ、君たちなら大丈夫だと思ってね。それに、葵くんの身柄も保護しなきゃいけないしね」
神崎は葵の肩に優しく手を置き、俺たちに向き直った。
「営業先には連絡を入れてある。今日は泊めてもらいなさい。まったく、もろもろ忙しいってのに。特に君のことも目が離せないよ」
そんな神崎を押しのけて黒江が迫る。
「見ましたか蓮様! 私の愛の爆発!」
「お前の嫉妬爆発だけどな……」
呆れつつも胸を撫で下ろす俺の横で、神崎は保護した葵を連れて帰り際、ふと足を止めて振り返った。その表情からはいつもの軽薄さが消え、重々しい影が差し込んでいる。
「……九重くん。今回の件で、敵側も確実に君を『ただの修繕屋』とは見なくなったはずだ」
「え……?」
「属性の相性を無視して化生の器を次々と無力化し、着実に回収を進める君たちの存在……。連中にとって、君は計画を脅かす計算外のバグになりつつある。……次に来る刺客は、これまでのようなゲーム的な戦闘ではなく、今回のような明確な死闘を狙ってくるかもしれん。くれぐれも気をつけたまえよ」
神崎はそれだけ言い残すと、葵を連れて森の闇へと消えていった。
暮れ始めた夕暮れの参道に、少しずつ差し込む光。
黒幕の陰謀は依然として謎に包まれているが、俺と黒江、そして道具たちの絆がある限り、どんな試練も乗り越えていけるはずだ。
葵の哀しみを受け止めながら、俺たちは次なる戦いと日常へ向けて、歩みを進めるしかないのだった。




