『エリーゼのために』を弾きたくて【読了10分】
香奈は壁掛け時計に目を走らせ、夫に声をかける。
「ねぇ、ピアノの月謝袋知らない?」
「冷蔵庫に貼ってある、あれじゃないの?」
「あれは、凛の英語のやつ」
台所でチンッとトースターの音が鳴っている。
名前を呼ばれた小学三年の凛は、ませた顔で夫の隣に腰を下ろし、口をとがらせた。
「もー、ママまた? 『決まった場所にしまえば失くなりません』ってわたしに言うくせに……いっつも探し物してるんだから」
夫が慌てた様子で口の前に人さし指を立て、しーっのポーズを凛に向けたが、遅かった。
香奈の声がぴしゃりとリビングを跳ねる。
「もう、生意気言わないの!
恭一も焼けたんだから、パン取ってきてよ。私だって今から仕事なんだからね」
恭一は肩をすくめて台所へ向かう。
凛は悪びれることもなく、別の場所からピンクの封筒を見つけると香奈に差し出す。
「これじゃないの?」
「あ」
皿を両手に持った恭一は、ほっと息をついた。
「あって良かったじゃないか。もうすぐだもんな、香奈の発表会」
香奈はバツが悪そうに封筒を受け取ると、再び時計を見た。
「もう行かなくちゃ、あとよろしくね」
滑り込みセーフでデスクに座ると、早速声をかけられる。
「小川課長、部長が探してましたよ」
「ありがとう」
――小川香奈は、半年前に経理課長に昇格した。自分に務まるのかという不安と闘い日々試行錯誤しているが、それなりにやりがいを感じている。
(なんの用事だろう……)
嫌な予感を抱えながら部長を訪ねる。彼は丸い顔に汗をかき、盛んに手を揉んでいる。
「小川くん、実はだね……報告書の形式を変えたいとエリアマネージャーが言うんだよ」
香奈は眉をひそめた。
「今からですか?」
「……あぁ。今までのは見にくいということなんだ。戦略的な要素も欲しいと」
「定例会は来週ですよ?」
「ううむ……」
部長は唸るだけで、やらなくていいとは言ってくれない。
経理なんて地味で感謝されない割に、こういうことだけは押し付けられる。
形式を多少変えたところで、それがどれほどの役に立つのだろうか。
香奈は出かかったため息を喉元で飲み込んだ。
「わかりました。今日中に方向性だけまとめます」
席に戻るとカチャカチャというタイピングの音や、忙しなく伝票をめくる音が聞こえるだけで、雑談する者はいない。
香奈も例外なく作業にのめり込んでいく。
「香奈さん、お昼行きません?」
顔を上げると後輩が立っていた。
気づけば周囲の人影はまばらだ。
香奈は未処理のタスクを思い一瞬迷ったが、ディスプレイを閉じ席を立った。
二人は会社から程ないイタリア料理の店に入った。
香奈の目の前には、湯気が立ったカルボナーラとホット珈琲が置かれている。
ペペロンチーノも惹かれたが、にんにくのことを思うと注文しにくい。
「やっぱり締め日は忙しいですよねぇ」
「そうだね。けど、里花ちゃんはもう終わってるんでしょ?」
彼女は香奈が入社5年後に入ってきた後輩だ。
黒髪ボブできりっとした香奈とは違い、里花は茶色いふんわりした髪をいつも綺麗にアレンジしている。
「大体は。ところで香奈さん、この土曜日のシフト代わってもらえませんか?」
「ごめん。その日はピアノの発表会があるんだ」
「へぇ、娘さんのですか?」
「ううん、私の」
里花は元々丸い目をさらに丸くして言う。
「えー、香奈さんピアノやってたんですか?」
「うん、大人になってから始めたから上手くないけどね。今二年目」
「すごいですねぇ、なんで始めたんですか?」
香奈は一足先にフォークを置き、ごまかすようにカップに口をつけた。
「……子どもの頃、やりたかったから」
とうとう叶わなかった"ピアノを習いたい"という香奈の願い。
唯一買ってもらった、片手で持ち上げられる位のちゃちなおもちゃのピアノ。
あの安っぽい電子音が耳に響いた気がした。
顔を上げると、里花の興味はメニュー表のデザートに移っていた。
「香奈さんも食べます?」
首を横に振る。
ブラック珈琲の苦みが、口にいつまでも残っていた。
◇
家での夕食後、香奈は台所にいた。
皿の裏の油を拭き取りながら、凛の背中に声をかける。
「ピアノ練習やったの!?」
「んもう、今やろうと思ってたのに」
凛はぷぅっと頬を膨らませ、大股でピアノに向かうと、さらっと1回だけ弾いた。
そして「はい、終わった」、と投げるように言う。
耳を傾けていた香奈は眉をひそめる。
「……もう一回くらい弾いたら?」
「えー、テレビ見たい」
凛にピアノを習わせたのは香奈だった。物心付く前の小さな手を引いて――
(私の夢を、凛に押し付けちゃ駄目よね)
香奈はそれ以上言うのはやめた。
小さくため息をつき、ピアノに手を置く。指が吸い寄せられるように、白と黒の鍵盤の上を走っていく――
発表会は、『エリーゼのために』を弾くことに決めていた。ベートーヴェンが愛する女性に贈ったと言われる曲。
あまりにも有名な物悲しいメロディーは、幼い香奈を虜にした。
ピアノを弾いている間は、日常の煩わしさから解放されて、一人の人間に戻るような感覚がある。
「ママ、まだやるの?」
不意に肩を叩かれた時、凛が見ていたテレビアニメは既に二つ終わっていた。
「ごめん、つい」
「別にいいけど本当に好きだね。
指練習ですら楽しいって言うんだから、ある意味才能じゃない?」
香奈は苦笑した。
「大人になってからでも遅くないって言ってくれた、パパに感謝よね……」
小さな声で香奈が言うと、ちょうど恭一がドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい。見てほしいものがあるの」
香奈は隣の部屋のクローゼットの奥から、ピンクのひらひらドレスを引っ張り出す。
ファスナーがお尻のあたりと胸のあたりで止まりかけた。
リビングに恐る恐る顔を出す。
「どう?」
「わっ、お姫様みたい! ママかわいい!」
女の子らしくはしゃぐ凛の隣で、恭一は困り顔だ。
(さすがにピンクは無理があったか……
ドレスはレンタルしよう)
「ご飯にしよっか」
香奈は、箸を動かす恭一をじっと見る。優しそうな目尻の皺も白髪も少し増えた。
そもそも、ずいぶん久しぶりに彼の顔を真正面から眺めた気がする。
(お互い年とったなぁ……)
香奈は食器を片付けながら、頭の中は仕事のことに置き換わっていた。
―――
会社では締め日が終わり、つかの間の閑散期が訪れていた。
画面から目を離し、手元の珈琲に視線を落とすと、里花がか細い声をかけてきた。
「香奈さん。今、南商事からお電話があって……支払いがされていないと言うんです」
南商事――
その会社名を聞いて、香奈はさっと血の気が引いた。
「原因は分かる?」
「はい、口座番号の最後を間違えていて……すみません。確認したはずだったのですが」
心臓がバクバクいっている。
香奈は動揺を隠し、里香と自分を落ち着かせるように言う。
「ごめんね、私も見落としてた。先方には私からお電話するから」
香奈は受話器を手に取る。
ダイヤルを押す指がなかなか動かない。
一度受話器を戻した。
(報告が先か……)
部長に先の件を伝えると彼は体を揺らし、口をへの字に曲げた。
「困るなぁ。金額もかなり大きいじゃないか」
形だけとは言え、最終承認は部長だった。
彼の頭からその記憶は抜け落ちているらしい。もちろん、今そんな事を言うつもりはないが。
香奈は潔く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。先方への謝罪は私からしようと思いますが、よろしいですか」
「僕はこれから会議だから、君からきちんと言ってくれよ?」
『自分に迷惑をかけるな』という言外の指示を受け取り、暗い気持ちが胸に垂れ込める。
香奈はそれを取り払うように、もう一度部長に頭を下げた。
席に戻り、再び受話器を取る。
番号を確かめるように、ひとつひとつしっかりボタンを押した。
プルルルルル――
平静になろうと息を吐くも、1度目のコールが鳴り終わる前に、ガチャッと相手が電話を取った。
香奈は口から出た息を慌てて吸い戻す。
「はい、南商事です」
(あぁ……)
そのキンキン耳に響く声を聞いて、香奈は受話器を握る手に力を込めた。
何故こういう時に限って彼女が出るんだろう。
彼女――丸山百合は、
人の話を途中でがんがん遮り、よく言えば繊細、悪く言えば神経質な人だった。
挨拶もそこそこに本題に入る。
「申し訳ございません。こちらの誤りで支払いが遅れていると――
はい、はい――」
棘のある声が、受話器を通して耳を刺す。
「どうしてこういう事が起きるんですかね? 再発防止のためにはどうするんですか?」
香奈はデスクの前に誰かが立っているかのようにぺこぺこと頭を下げる。
「はい、今後は確実に振込みが出来るよう……」
言い終わる前に金切り声が響き、香奈は思わず受話器を耳から離す。
(仕方がない……)
こうなったら、丸山の気が済むまでお叱りをいただくしかなかった。
変わらず頭を下げ続けながら、香奈の心はどこか別のところにあった。
(ぺこぺこ謝る姿を"コメツキバッタみたい"って言うけど、本当だな……)
なぜかそんな事をぼんやり思っていた。
既に十五分が経過した。
香奈の心はだんだん麻痺し、壊れたラジオのように「はい」を繰り返す。
山本の声もややトーンダウンしてきた。
(そろそろ解放されるかな)
そんなことを考えながら時計の秒針を見ていると、丸山が鼻を鳴らす音がした――
「……前任の方のときは、こんなことありませんでしたけどね」
嘲るような言い方だった。
香奈の胸の奥は、ナイフで切りつけられたようにすっと冷えていく。
自分の今までを、全て否定されたようだった。
その後、なんと返事をしたのか覚えていない。気づけば受話器は電話に戻され、里香が心配そうにこちらを見ていた。
「香奈さん、本当に申し訳ありませんでした」
「ううん、大丈夫……」
顔の皮膚がぴんと引きつり、頬のあたりがぴくぴく動いているのを感じる。
"前任の方のときは、こんなこと――"
(笑え……)
小さなブライドが、後輩に情けないところを見せるのは許さなかった。
香奈は口の端をくっと上げ、笑顔をつくった。
―――
帰宅後のピアノ練習も身が入らず、香奈の指はピアノの上っ面をなぞるだけだった。
(もう発表会はすぐなのに……)
焦る香奈に、凛がちらっと目をくれる。
「ママ、部分練習しないと。通しで弾くだけじゃ上手くならないよ?」
いつもなら軽く流せたはずの言葉。
「うるさいな、わかってる!」
香奈は自分の強い声に驚いた。
何か言わなければと思ったのに、凛はぷいと横を向き、自分の部屋の扉をバタンと閉めてしまった。
今のは完全に八つ当たりだ。
あのおもちゃが奏でる惨めな"エリーゼのために"が耳の奥でぐるぐると鳴り止まない。
「何やってんだろ……」
小さく呟き、楽譜を伏せた。
◇
ついに発表会の日がやってきた。
香奈は、借り物のくるぶしまである黒いドレスに身を包み、上からコートを羽織る。
マフラーを手に持ち、家族に声をかけた。
「リハーサル行ってきます」
二人は玄関先まで見送りに来てくれた。
「あとで行くからな」
「ママ頑張ってね」
香奈は、すっとしゃがむと凛に声をかける。
「凛、この間はごめんね。強く言っちゃって」
「なんのこと? いつものことだし、忘れたんだけど」
嘘ではなさそうだ。
(いつものこと、か……)
香奈は自身の行いを反省しつつ、立ち上がる。
「……今日は頑張るね!」
拳を握り、凛とグーでタッチする。
ちらっと仰ぎ見ると、恭一も手をぐーにしている。
香奈は、そっと拳を突き合わせた。
外に出ると冷たい北風が吹いていた。
手に持っていたマフラーをぐるぐると巻き付け顔を埋める。
(ピアノ、二年も続くと思わなかったな)
今日の発表会は大人5人だけで行われるので、会場は小さなピアノサロンだった。
扉を開けた香奈の目に、美しい艶を纏った黒いグランドピアノが飛び込んでくる。
(わぁ、スタンウェイだ)
"ピアノの王様"と評されるそのピアノは、柔らかく澄んだ音色がする。
リハーサルで弾かせてもらうと、まるで自分のピアノの腕が、一段も二段も上がった気がした。
あっという間に本番が近づき、香奈は他の出演者と一緒に、壁際に沿って一列に座っていた。
(いよいよだ)
不思議と緊張はない。
恭一と凛が後方から手を振っているのが見える。香奈も膝上で小さく手をひらひらさせた。
「田中さん」
「はっ……はい!」
はじめに名を呼ばれた男性は声を裏返らせ、わずかな距離を手と足を一緒に出して進んでいった。
ピアノの前に立つと、油の切れたロボットのようにぎこちなく椅子に腰を下ろしていく。
鍵盤に置かれた手が、遠くからでも分かるほどぶるぶると震えていた。
得も言われぬ緊張感の中、皆が一心に彼を見守る。
(大丈夫かしら……)
男性はつっかえながら弾き出した。
手の震えはさらに大きくなり、思わず目を覆いたくなる。
香奈はごくりと唾を飲む。
香奈の祈りも虚しく、彼の指は曲の途中だというのに突然ぴたりと止まり、とうとうそのまま動かなくなってしまった。
会場はしん……と静まり返る。
先生が素早く歩み寄り「ここからなら弾けますか?」と小声で楽譜を指さしている。
男性は耳まで真っ赤にして、再び曲を弾き始めた。
(がんばれ、がんばれ……)
気づけば香奈の手はドレスを強く握り締め、汗でじっとり湿っていた。
最後の1音が、空気を震わせ宙に吸い込まれる。
会場は温かい拍手に包まれる。
香奈はようやく息が吸えた。
お世辞にも上手いとは言えなかった。それなのに、香奈の目には涙が滲んでいた――
――
「おつかれー」
帰宅後、香奈はスーパーで買ったお寿司とビールで乾杯した。
凛が批評家のような口調で言う。
「なかなか良かったよ。ちょっとミスってたけどね」
「そうね、あそこは苦手だって自覚してたのに……練習不足ね」
恭一が首を横に振り、珍しく興奮気味に言う。
「そんなことないよ。本当に良かった。仕事も家庭もあるなかで、なかなかできることじゃない」
そんな風にまっすぐ言われると少し照れる。
恭一はぐっとビールを飲み干すと、元気に言う。
「俺も何か挑戦してみようかな」
すかさず凛が尋ねる。
「へぇ、パパ何やるの?」
「うーん。バイオリンとか? 興味なかったけど、弾けたらかっこいいかなぁって……」
よくわからない理由に、香奈は吹き出した。釣られて2人の笑い声も響く。
おかしすぎて出てきた涙を指で拭いながら、香奈は言う。
「ダイビングは? 前にやりたいって言ってたよね。泳ぐの得意だし」
「うん……でもお金も時間もかかるしなぁ」
「パパそんなこと言ってたら、なんにもやらないで おじいちゃんになっちゃうよ?」
凛の鋭いツッコミに恭一はうーんと唸り、スマホを手にした。
「隣駅に教室があるみたいだ。体験、今すぐ予約してみるよ」
そう言う恭一は生き生きしている。
(なんか、かっこよく見えるな)
香奈の視線を感じた恭一は、顔を上げる。
「あれ、駄目だった? ダイビング……」
「ううん、素敵だと思うよ」
横で、凛が神妙に言う。
「私もパパとママに負けてられないな。ピアノ練習しようっと」
香奈はにっこり微笑む。
久々に穏やかな気持ちだった。
―――
週明け、里花とお昼に行こうとしていると、エレベーター前でエリアマネージャーから声をかけられた。
「小川さん、この間はありがとうね。報告書見やすくなってたよ」
「あ……ありがとうございます」
部長に言われて変更した、あの報告書だった。
皆の前で褒められたわけじゃない。短い、形式的な言葉ではあった。
それでも、香奈は指の先まで温かくなった気持ちがした。
ビルを出ると里花が口を開く。
「私、ヨガ始めたんですよ」
「へぇ? なんでまた?」
里香は嬉しそうな顔になった。
「香奈さんが、大人になってからピアノを始めたって聞いて、私も何かチャレンジしたくなったんです」
思いがけない言葉に、香奈は喉の奥から何か熱いものがこみ上げて来そうだった。
昨日の恭一と凛といい、自分が周りにいい影響を与えていることがくすぐったくもあり、素直に嬉しかった。
ビル風の冷たさも、今日は全く気にならない。
香奈は、巻いていたマフラーをするりと解く。首元に風が当たって気持ちがいい。
肺の中にあるものを全て出し切り、味わうように空気を吸い込んだ。
「しっかり食べて、午後も頑張ろうね」
香奈の耳に再び"エリーゼのために"のメロディーが響く。
おもちゃの電子音ではない、スタンウェイの柔らかな音色で――
――終――




