ep1 俺は僕ではないから、
直樹の指が、湊の肌をすべる。
熱と呼吸が絡んで、視界がにじむ。
それにみっともなく喜んで、快楽を貪る自分が滑稽だ。
いつまでもこんな関係でいられるとは思えないのに、ずるずると続けたのは、自分の弱さだ。
――きっかけは四年前。双子の兄、晴が亡くなってから。
晴と湊は、仲のいい双子だった。
ただ、生まれつき晴の身体は弱く、日常生活も満足に過ごせなかった。
それでも前向きに笑う晴を、周囲は一丸となって支えた。
幼い頃は自分に関心が向かないことに反発した。それがいつの間にか変わって、同情に近いものになった。今となっては、それも失礼だったかもしれないと思う。
晴は底抜けに明るくて、優しくて――だから、残酷だった。
生きる意志が強いほど、残された者の心に傷を刻むものなのかもしれない。
『ねぇ、湊……僕のことを忘れないで。
僕のかけら、湊に置いていくから……大好きだよ。僕の半身――』
最後に言われた言葉の重みを、いまだに忘れられない。
数年経った今でも、その言葉に縛られている。
「晴……」
自分を抱きながら晴の名を呼ぶ、この男もそうだ。
皆縛られているのだ。
“遠野湊”ではなく、自分越しに“遠野晴”を見ている。
死んだ人間の影は、越えられない。
きっと、直樹だけじゃない。家族も、みんな。
それでも、それは受け入れるべき痛みとして幼少期より刷り込まれていた。
晴が生きている間、直樹は献身的に晴を支えた。
同性という壁さえ越えて寄り添う二人に、反対していた両親も、結局は受け入れた。
長男の航太と湊の説得も多少関係しているが――全ては、二人の強い結びつきからだろう。
だが、それがまさか、自分が直樹に恋をするきっかけになるなんて――気づいたときは、動揺して、落ち込むしかなかった。
直樹は三歳年上の、優しくて思いやりのある良い青年だ。
当時の自分には、笑い合う二人の姿が何よりもきらめいて見えた。
二人は双子の湊よりも、よほど唯一無二といった様子で、その関係に憧れた。
想いを伝えるつもりはなかった。
直樹とは、一生“恋人の弟”で居るつもりだった。
――けれど。
その気持ちは、不意に交わした口付け一つで簡単に蓋から溢れ出た。
やめろ、よせ、直樹は晴を失って混乱しているだけだ、頭ではそう理解している筈なのに、拒否することができなかった。
堪えられずに、直樹の弱さに手を伸ばしてしまった。
裏切り者で、卑怯で――どこまでも卑しくて愚かしい。
自分の中のどんな感情も、直樹となし崩し的に関係を持った理由にはならない。
じわりと滲んだ涙を、舌がすくう。
行為のせいで滲んだのだと思われたのだろうか。
優しい瞳には他意がないように見える。
「湊、就職先は決まった?」
行為が終わったあとの腕も声も優しい。
この時間だけは、“湊”として肌を寄せられる。
でも、髪や唇に落ちる甘い口付けは――“どちらへ”なんだろう。
いつも気になりはしても、勇気がなくて聞いてみたことはない。
「面接続きで、うんざりだよ。」
動揺が顔に出なければいいと思いながら答えた。
本当は都内に就職が決まっているが、それを教えるつもりはない。
最近度重なるこの手の問いは、薄々湊がどこかへ行くのを察しているからかもしれないと、頭の端でちらりと思った。
「分かるなあ……。記事で読んだ。“お祈りメール”ばかりでうんざりするって。」
「そう、それ。」
笑って、この男の胸に顔を埋めるのも、今日で終わりと決めていた。
本当に好きだった。
「ね、今日は一緒に寝ようよ。」
「いやに今日は甘えるな――もう一回、する?」
耳元で囁かれてぞくりと背中が震える。
口付ければ、言葉は必要なかった。
何度も口付けして、身体を重ねて――でも、今日で、最後。
直樹は、晴も湊も居ない生活に戻るだけだ。
そのために、全てを置いていく。
晴と直樹の思い出も、
好きだった気持ちも、全部ここに残して。
***
翌朝、すっかり寝入っている直樹の髪をすいて、口付けた。
「好きだったよ。」
枕元に用意していたメモを残して部屋を後にした。
振り返りは、しなかった。
まだ薄暗い夜明けの空気を思い切り吸い込む。
「っ……、……」
堪えられなかった涙が頬を伝った。
『最中に、絶対、俺の名前を呼ばないで。』
それは関係を持った湊が、唯一、直樹にお願いした事だった。
それが、一週間前、「湊、」と彼が言った。
快楽に染まった顔で自分の名前を呼ばれて、見つめられて。
初めての事に、どうしようもなく心が歓喜に騒いだと同時に、湧き上がった罪悪感がすべてを黒く塗りつぶした。
自分の名前を呼ぶ声だけは。
一番聞きたくて、でも一番聞きたくないものだった。
“湊”として抱かれてしまえば、そのままでいられないのは、きっと直樹も分かっていた筈だった。
どこまでもちぐはぐな関係だから、あっけなく終わるのがいい。
それでも最後にメモを残したのは、兄を支えてくれた彼に対する感謝があったからだ。
“あなたは十分に兄を愛してくれました。
本当にありがとう。
二人の関係性が、本当に好きでした。
これからは、あなたの未来を生きてください”
大学は、卒業課題を出すだけ。
バイト代で新居も用意して、携帯も番号を変えた。
誰もいない、誰も望んでいない湊の新しい生活は、少しばかりの期待とやるせなさで始まった。




