触れ合うことができるなら
「同じ……? 私と……?」
「母は私を産み、亡くなりました。乳母もまた娘が早死にし、その後も次々に不幸に見舞われ、最後には亡くなったと聞いています」
「………………」
ハデスの顔色が悪くなる。
口元に手を当て、こぼれそうになる言葉を必死に押さえているように見えた。
「ゆえに私は王宮の一室にて、隠されて育っていました。……そんな私がこちらにきたのは、妹である妖精姫の代わりにです」
「――なるほどな。妖精姫は逃げたか」
「…………私は旦那様がお望みの妖精姫ではありません。……旦那様のお話を聞いて、きちんと説明しなくてはと思いました」
ハデスは鼻を鳴らした。
「説明? 生贄にされたと素直に言いにきたと?」
小馬鹿にしたようなハデスの言い方だが、その中に少しだけ悲しそうな雰囲気を感じ取れた。
もしかしたら彼が一番望んでいたのかもしれない。
妖精姫なら、妖精の呪いをなくすことができるのではと。
誰にも触れることができないというのは、想像以上に心を冷たくしていく。
ぬくもりを知らないということに、人は耐えられないのだ。
だからこそ、パンドラは己の胸に手を当てた。
「私なら、旦那様の呪いを受け止められるかもしれません」
「――どういう意味だ?」
妖精姫としてここにきた。
妖精姫への対応を受けた。
それはしあわせで楽しいものだった。
生まれてはじめて感じることができた、【普通の日常】だったのだ。
だからそれを与えてくれたハデスに、謝罪と共に恩返しをしたかった。
「この身はありとあらゆる災いを受け入れます。なら、妖精の呪いも受け入れられると思うのです」
「…………は?」
「旦那様の呪いすら、私なら代わりにもらえるのではと考えたのです」
パンドラの箱はその中に世界中の災いを集め、閉じ込めるという。
ならハデスの呪いも、自分に移し替えることができるのではと考えたのだ。
「旦那様にかかった妖精の呪いを、もらい受けます」
それで少しでも恩返しになるのならと提案したが、それを聞いたハデスの顔がさっと赤く染まった。
「――ふざけるな! わかっているのか!? この呪いがどれほどのものか……!」
「存じております。……もとよりこの身は、人に触れられぬものです。なら、そんな思いをするのは、一人でじゅうぶんではないですか?」
パンドラがハデスの呪いをもらい受ければ、彼は自由になれる。
人に触れることも呪いに悩むこともなくなるのだ。
こんなにいいことはない。
だというのに、ハデスの顔は晴れなかった。
「…………君のそれは自己犠牲だ。褒められたものではない」
「褒められようとしてやっていません。……二人そろってつらい思いをする必要はないと考えているだけです」
「…………今までの君の人生が、少しわかったような気がする」
大きめなため息をついたハデスは、もう一度口元を押さえる。
今度はなにかを考えているようだ。
「…………君の提案は受け入れられない。もし君がこの呪いを受け止められなかったら、私に触れたら死んでしまうんだぞ?」
「この身はこの世全ての災いです。……そんな私が、妖精の呪いで死ぬとは思えません」
「しかし――!」
「旦那様ならわかってくださるのでは? ……誰にも触れられず、見られず、一人静かに生きていくことの苦痛を」
人は一人でいることに耐えられるようにはできていないのだ。
窓の外を眺めては、楽しげな笑みを浮かべる人を目で追ってしまう。
それだけでも、心は大きな傷を負うのだ。
「そんな思いをするのは私だけでいいと、そう思ってしまうくらいつらいことなのです」
「……なら尚更、君だけに背負わせることはできない」
「二人ともつらいのと一人だけつらいの。どちらがいいことかは明白です」
「だからって……!」
ハデスは優しい。
自分を苦しめる呪いを手放せるのなら、普通は手放しで喜ぶはずなのに。
顔を合わせて三回目のパンドラの心配をしてくれるなんて。
そんな彼のためになるのなら、この身がどうなろうといい気がしてきた。
「これは私のためでもあるのです」
パンドラはそっと、ハデスの手に触れる。
手袋越しにもわかるほど、彼の手が大きく震えた。
「……私も、誰かに触れたいのです。……ぬくもりを知りたい」
「…………それはっ……。そう、だな。……その気持ちはわかる」
パンドラは手袋を脱ぐと、ハデスへと真っ白な手のひらを向けた。
「試してみませんか……? たとえこれで死んでしまったとしても、私に後悔はありません」
「…………君は、どうしてそこまで……」
「旦那様に与えていただいた今の生活が、私にとってあまりにもしあわせだったのです。……だからそれをくださった旦那様に、恩返ししたいだけです」
手を伸ばす。
彼が触れやすいように伸ばした手を、ハデスは揺れる瞳で見つめる。
「…………いいのか? 本当に……?」
「覚悟はできています」
「………………わかった」
ハデスは己の手袋を乱雑に脱ぐと、床に落とした。
パンドラのとは違う、骨張った長い指がゆっくりと近づいてくる。
「――恐ろしくはないのか? ……死ぬかもしれないんだぞ?」
「……不思議と怖くないのです。大丈夫だと、体がわかっているのかもしれません」
強がりでもなんでもない。
本当に大丈夫な気がしているのだ。
ハデスの呪いを信じていないわけではない。
けれど漠然と、死ぬことがないとわかっているようだった。
だからなにも怖くはないと、手を伸ばしたままハデスを見つめる。
「…………」
伸ばしたハデスの手が震えている。
きっとその手で数多の命を奪ってしまったその時を、思いだしているのだろう。
触れるか触れないかのギリギリのところで止まったハデスは、最後にとパンドラを見てくる。
ヴェール越しに目が合った。
「…………触れるぞ?」
「はい」
人に触れた記憶はない。
幼いころからパンドラは手袋をつけ、部屋に閉じ込められていたからだ。
だからこの触れ合いは、記憶にある最初で最後になるだろう。
そう思うと、ふと笑ってしまった。
だって嬉しいのだ。
このぬくもりの記憶があれば、きっとこの先も生きていける。
どれほど悲しくてもつらくても、大丈夫なはずだ。
「ありがとうございます、旦那様」
「…………礼を言うのは私のほうだろう」
そう言ったハデスは、覚悟を決めたのだろう。
優しく、まるで壊れ物に触れるかのように、パンドラの手のひらに己の手のひらを合わせた――。
「――…………」
「………………」
しばしの沈黙。
十秒ほど経ったのちに、口を開いたのはハデスだった。
「なにも……起こらない……?」




