ただいまを君に
「ひとまず……ここまでくれば一旦……」
「は、はい……っ」
港町の入り口にある、馬を止めていた場所までやってきたパンドラとアルは、近くの草むらに身を隠した。
今のところ追っ手らしき人は見えないが、身を隠していたほうがいいだろうと考えたのだ。
アルは背負っていたハデスを降ろすと、ふう、と息をついた。
「ひとまず殿下を医者に見せないと……」
「先ほど薬とおっしゃっていましたが、それはどういった……?」
アルは眉間に深く皺を寄せながらも、ハデスの脈を測る。
「マーレは薬品に長けてましてね。毒薬爆薬なんでもござれなんですけど……特に人の精神に影響を与える薬の開発に躍起になってるんすよ」
「……精神」
ちらりとハデスを見れば、浅い呼吸を繰り返す唇は真っ青だ。
「殿下を手に入れたとて、そのままの殿下がマーレのために力を使うことはない。……それがわかってるから、意識を混濁させ、記憶を操作しようとしてるんすよ」
「そんなこと……!」
「今打たれてる薬がなにかはわかりませんが……状態がよくないことだけはわかってます」
パンドラは膝を折りそっとハデスの手から手袋をとると、力強く握った。
優しいぬくもりのあるはずのその手は、氷のように冷たい。
その手を少しでも温めたくて、己の熱を与えるように、パンドラはハデスの手をさする。
「なんでひどいことを……!」
「力さえ使えれば、殿下の人格なんてなくていいと思ってるクソ野郎どもなんすよ」
どんな薬を使われたのかはわからない。
とはいえハデスの様子を見るに、普通ではないことだけはわかる。
どうしてハデスがこんな思いをしなくてはならないのだろうか?
呪いの件だけでも傷ついているというのに、突然誘拐されて薬まで使われているのだ。
さらには人格なんて二の次と、自らの意思に関係なく人を殺させようとしているなんて……。
「――旦那様……」
青白い顔を見つめ、パンドラはハデスの手を握ったまま額に当てた。
悔しい。
悔しくて歯痒い。
どうして自分にはなにもできないのだろうか?
ハデスを救いたいとここまでやってきたというのに。
「――っ」
まただ。
また背中が熱い。
肩甲骨の間が燃えるように熱くなるが、それでもパンドラは手を離すことはしなかった。
「ひとまず、殿下を乗せる馬車を探してきます」
「…………お願いします」
アルが街へと消えていく。
その背中を見送ったあと、パンドラは静かにハデスのほおに触れる。
「……旦那様。どうか無事お目覚めください。…そうでなければ私は――」
どうにかなってしまう。
ハデスが無事でなければ、パンドラは生きていける自信がない。
きっと彼の後を追ってしまうはずだ。
だからどうか、どうか。
「旦那様をお救いください――!」
パンドラがそう願った時だ。
まるでその声に反応するかのように、ハデスの体が神々しい光に包まれた。
「――え?」
眩いほどの光なのに、優しさが伝わってくる。
そしてその光が強くなればなるほど、なぜか背中が熱くなるのだ。
一体なにごとだと背中に触れようとしたパンドラの視界の端に、一瞬なにかが写った気がした。
「…………今、パンドラの背中に羽が見えた気がした」
光が急速に萎んでいき、眩しさが消えた時だ。
「――旦那様!? お目覚めになられたのですね!?」
ハデスがゆっくりと目を開けたのだ。
彼は何度か瞬きを繰り返すと、パンドラに向かって微笑みかけた。
「君の夢を見ていた。まるで妖精のように飛んで、私の元にきてくれた……。夢ではなかったんだな」
「妖精のように飛んではいませんが……助けに参りました。お体の具合はでしょうか? 苦しくはないですか? 痛いところは……?」
ハデスが起きあがろうとするので、彼の背中を支えてあげる。
上半身を上げたハデスは、不思議そうに己の手を見つめた。
「…………薬を打たれたはずだ。なのに……」
「――お加減が悪いのですか!?」
「違う。……悪くないからおかしいんだ」
手を握ったり解いたりするハデスは、しばし考えるようにした後ハッと顔を上げた。
「……パンドラ。君がなにかしたのか?」
「えっと……? お祈りはいたしましたが……」
特になにかしたわけではない。
ただ。
「旦那様のお体が光に包まれたと思ったら……目覚められたのです」
不思議な光景だった。
あれがなんだったのかはわからないが、説明しておいた方がいいだろうと判断し、ハデスに伝えた。
すると彼は顎に手を当てて考え始める。
「……パンドラ。やはり君は――」
「――で、でんかぁぁぁぁっ!」
ハデスがなにかを言おうとした時だ。
馬車を探しに行っていたはずのアルが、ハデスの元まで駆け寄った。
アルはえぐえぐと涙を流す。
「よかった! 目を覚まされたんですね! めちゃくちゃ心配したんですからー!」
「すまない。心配をかけたな」
本当は抱きつきたいのだろう。
しかしアルはもちろん、ハデスも彼に触れることしない。
ギュッと握り締められた拳に、パンドラは静かに目を伏せた。
「とりあえず殿下は馬車にお乗りください。奥様もご一緒に。俺はもう少し調べてから帰ります。殿下を攫ったやつを見つけないと」
ハデスを攫った本人を捕まえられれば、マーレ国との繋がりを吐かせることができるかもしれない。
そうなれば政治的制裁を加えることもできるはずだ。
ゆえにアルは行動しようとしたのだが、それをハデスが止めた。
「無駄だ。……私を誘拐したものは、引き渡しの際に殺された」
「――……さすが、マーレはやることが違うな」
アルのやるせない顔に、ハデスもまた静かにため息をこぼす。
「見知った者だった。私が幼少の頃からいた者のはずだ。……そんな者まで、マーレは手中に納めているようだ」
「王宮も安全ではないってことっすね」
「……その者の大切な者が無事だといいが」
ハデスのその呟きで、パンドラは少しだけ理解できてしまった。
ハデスが幼少の頃より知っている者。
そんな人がマーレのためにハデスを誘拐しようとした理由。
その人が大切な者を、人質にされたのだ。
きっとハデスは薄れゆく意識の中、断片的にでもその話を聞いたのだろう。
彼のつらそうな顔が、全てを物語っていた。
「なら一旦殿下と奥様の護衛として、一緒に戻ります。王太子殿下が王宮に医師の手配をしてくださっています」
「そうしてくれ。……パンドラ」
「はい!」
ハデスが立ち上がるのを支えていると、名を呼ばれた。
なにごとだろうかと小首を傾げれば、ハデスは繋がったままの手を力強く握る。
「君のおかげで帰って来れた。……ありがとう。そして、ただいま」
ああ。
本当にハデスを救えたんだと、そこでやっとわかった。
パンドラは己の肩から不要な力が抜けるのを感じつつ、涙に濡れる目尻を下げつつ微笑んだ。
「おかえりなさいませ、旦那様」




