呪いは絆となる
ぬくもりを感じる。
ハデスの手のひらが、確かにパンドラの手のひらに触れているのだ。
だというのに、お互いに異変は起こらない。
「……成功、したのでしょうか?」
「…………」
ハデスは黙ってパンドラから手を離すと、執務用の机へと向かう。
彼の姿を目で追ったパンドラは、机に一輪の薔薇が飾られているのに気がついた。
ピンク色のそれは、もしかしてパンドラが切ったものだろうか?
返されたもので全てだと思っていたが、一輪だけ手元に残しておいたようだ。
真相はわからないが、ハデスは素手のまま薔薇を手に取った。
「…………」
「――あ……」
すると薔薇はみるみるうちに枯れ、茶色い花弁を床へと散らした。
「……呪いは、なくなっていない……。――っ!」
ハデスは傷ついたような顔をした後、ハッと顔を上げた。
パンドラの元まで急足でやってくると、その細い肩を勢いよく掴む。
「きゃっ――!?」
「体は大丈夫か!? 苦しかったり痛かったりし――…………」
その衝撃でパンドラのつけているヴェールが取れてしまった。
隔てるものがなくなったことにより、パンドラの素顔がハデスに晒されてしまう。
大きく見開かれたハデスの赤い瞳に己の顔が写ったことに気づき、パンドラは少し気恥ずかしさを覚え顔を赤らめた。
「あ、あの……! 体に変化はございません。それより旦那様は大丈夫でしょうか? なにか不安に思ったりなどは……?」
「…………特にない。私は大丈夫だ」
「――よかったです」
お互い体に変化はないようだ。
パンドラも己の体を改めて確認してみるが、特におかしなところはない。
大丈夫そうだと頷いていると、そんなパンドラの肩を掴んだまま、ハデスが深く眉間に皺を寄せた。
「……君には、私の呪いが通じないのか?」
「……そのようです。そしてもし間違いでなければ、私の呪いも、旦那様には効かないのかもしれません」
不幸だなんて抽象的なもの、時間が経たねばわからないこともあるだろう。
パンドラからの言葉に頷いたハデスは、片手を顎に持っていく。
「どうして……? 呪いを受けたもの同士だからか? いや、しかし……」
なにやら呟いているハデスを見つつも、パンドラはすと瞳を伏せた。
「…………旦那様。申し訳ございません」
「なにがだ?」
「旦那様の呪いを、この身に移すことができませんでした……」
予想どおりなら今ごろ、ハデスは呪いが解けていたはずなのに。
なにがパンドラだ。
この世の災いを閉じ込めると言うのなら、ハデスの呪いも受け入れてくれればいいのに。
「……これでは、私は災いを撒き散らすだけのできそこないですね」
なんて情けない。
どうせなら誰かの役に立てれば、まだ救いもあったというのに。
申し訳ないと頭を下げようとしたパンドラの手を、ハデスは力強く握りしめた。
「これでよかったんだ。君一人に苦しみを押し付けずに済んだのだから」
「ですが……」
それではハデスが救われないではないか。
そう言いたかった。
しかし言葉の続きを理解したかのように、先にハデスが口を開いた。
「救われたよ。……君がいるじゃないか」
「……私、ですか?」
どういう意味だろうか?
きょとんとするパンドラの手を、ハデスは指と指を絡めるように握りしめた。
「触れられる人がいる。私にはこれだけでじゅうぶんなんだ。……君だってそうだろう?」
「…………そう、ですね」
確かにハデスの言うとおりだ。
理由がなぜかはわからないけれど、パンドラにはハデスの。
ハデスにはパンドラの呪いは効かないようだ。
それは今まで一人で耐え忍んでいた二人にとっては、あまりにも大きな出来事だった。
「旦那様に触れられるのは私だけ。ーーそして、私に触れられるのも旦那様だけ」
「ああ。……人とは、こんなにもあたたかいものなのだな」
「はい。……旦那様の手は、とてもあたたかいです」
「そうか……。そうか。そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだ」
素肌で触れ合える相手。
ぬくもりを与えてくれる相手。
望んでも手に入らないと思っていた。
けれどまさかこんなところで、こんなふうに見つかるなんて誰が想像できただろうか?
身代わりで嫁いだ先で、運命の人に出会えるなんて……。
「――パンドラ。都合のいい話なのはわかっている。だがもし君が許してくれるのなら……はじめからやり直したい。君とちゃんと話をして、お互いをわかり合って……そんな夫婦になりたい」
「…………私も、同じことをお願いしようとしておりました」
ぬくもりを知ってしまった以上、ハデスと離れることはできないだろう。
それに叶うのなら、ここにいたいと思っている。
優しい人たちに囲まれていたい。
もう、一人は嫌だ。
そしてそれはハデスもなのだろう。
「……いいのか? 私は君にひどいことを言ったんだぞ?」
「それなら私は、妖精姫だと嘘をつきました。……お互い様です」
妻としてなに一つ望まないと言いつつも、ハデスはパンドラが過ごしやすいよう気を使ってくれていたのは知っている。
彼の優しさを知っているからこそ、なに一つわだかまりはない。
パンドラはつながったままの手に、少しだけ力を込めた。
「ここから始めるのはいかがでしょうか? ……はじめまして。私はパンドラと申します。ハデス様の妻になりにまいりました」
「…………」
ハデスは大きく目を見開いた後、ゆっくりと目尻を下げる。
ほのかに赤く染まった目元が、彼の気持ちを伝えてくれた。
「はじめまして、パンドラ。私の妻になってくれる人。……ハデスだ。よろしく頼む」




