旅の始まり編 8.「悪人なら、殺します?」
湿原に差しかかったのは、陽が落ちてしばらく経った頃だった。
水辺に浮かぶ白い霧が、足元の石を飲み込んでいる。
歩を進めるほどに、霧は濃く、重くなる。まるで空気そのものが粘性を帯びているかのようだった。
呼吸すら湿って苦しく、霧に含まれる“何か”が、皮膚の内側へと染み込んでくるような錯覚を覚える。
リリィはそっと鼻を押さえた。
「……この霧……濃い。ここまで湿った地形に霧が出るのは、自然のものじゃないですね。瘴気に近い感触があります。どこかで汚染する原因があるかもしれません」
「となると、“原因”が意図して撒いている可能性もあるな……魔物が近い証拠だ。視界が遮られるのをわかってやってる」
リリィは腰を低くし、ロングソードを手にした。
その刃には、かすかに魔力が灯っている。
「それに……この橋、人間が複数人…通ってる」
リリィが指差した先には、木の橋板に泥の足跡。
新しい――ほんの数分前のものだ。
「霧の汚染する原因を追いますか?」
「追わない。向こうから来る」
ガルドの言葉が終わるとほぼ同時に、霧の中に動く影があった。
音もなく橋の先に立つのは、焔を纏う獣――否、“獣の皮をかぶった何か”。
ぬらりと濡れた体毛に、火花が散っていた。
目だけがぎらりと赤く、口元からは蒸気と腐臭を漏らしている。
「魔物…今回は……」
「霧と炎。属性を重ねる厄介なやつだな」
魔物が動いた。
踏み込んだ足から霧が飛び、風が唸った。
次の瞬間――その体が燃え上がり、爆ぜるようにガルドへと突進する。
ガルドはとっさに地を蹴り、橋の欄干へ逃れる。
「リリィ!」
「はい!」
リリィが両手を掲げ、詠唱する。
「《風を裂いて、燃えを断て》!」
術が展開し、魔物の周囲に無風の結界が生まれた。
炎を拡散させる“風”を封じたことで、突進が鈍る。
その一瞬――ガルドが背後から斬りかかる。
「喉元は硬いな。じゃあ……脇だ」
ツバイヘンダーが、炎に焦がされながらも獣の脇腹を抉る。
甲高い悲鳴が、霧の中に響いた。
「わたしも行きます!」
リリィが一気に距離を詰める。
「《動きを止めなさい》!」
地面から生えた魔力の杭が、魔物の前足を打ち抜いた。
その隙に、ガルドのショートソードが目を狙って突き刺さる。
「――終いだ」
崩れ落ちた魔物が、橋の端から泥の沼へと落ちていく。
炎は霧の中で静かに鎮まり、再び沈黙が戻った。
「……連携、うまくいきましたね」
「お前が動きを止めてくれるから、狙える」
リリィはわずかに微笑み、剣を収めた。
「でも、霧にまぎれているのが魔物だけとは限りませんよ」
「わかってる。まだ、あっちの“足音”が残ってる」
橋の先。霧の向こうに、確かに誰かがいる。
だが、それは魔物ではない。人間――しかも、何者かを連れているような足取り。
「悪人なら、殺します?」
リリィが穏やかに尋ねた。
「……必要ならな」
ガルドは剣を抜いたまま、霧の中へと歩を進めた。




