54.「はい! 今度はもっと上手にやってみせます」
街の広場は、昼下がりの陽だまりに包まれていた。
古い石畳は長年の往来で表面が滑らかに磨かれ、所々に苔が薄く張りついている。その上を行き交う商人たちの声が心地よく響き、麦のパンを焼く屋台から立ち上る香ばしい匂いが風に混じって鼻をくすぐる。
果物売りの老婆が声を張り上げ、鍛冶屋の槌音が遠くから規則正しく響いてくる。リリィは大きな樫の木の木陰のベンチに腰を下ろし、白い髪を風になびかせながらガルドの帰りを待っていた。
「情報収集に一時間ほどかかる。ここで待っていろ」
ガルドはそう言い残して、角の向こうにある石造りの酒場の奥へと消えていった。薄暗い店内で、この街の裏情報に詳しいという商人との接触が目的らしい。リリィは素直に頷いたが、一人で過ごす時間は意外に長く感じられた。
「……退屈ですね」
小さくつぶやきながら、通りの向こうを眺める。煉瓦造りの家々の間で、子供たちが石蹴りをして遊んでいる。二階の窓から母親が色とりどりの洗濯物を干している。
茶色い雑種犬が尻尾を振りながら石畳を駆け回り、商人の足元をすり抜けていく。どこまでも続く平和な日常の光景だった。
そのとき、背後で革靴が石畳を踏む音が近づいてきた。足取りは意図的に音を殺しており、普通の通行人のものではない。
「よお、お嬢ちゃん。一人かい?」
振り返ると、薄汚れた茶色い服を着た男が五人、半円状に彼女を囲むように立っていた。
先頭の男は四十代半ばで、顎に三日伸びた無精髭を蓄え、左の頬に古い刀傷の跡がある。日に焼けた肌は浅黒く、小さな目が狡猾に光っていた。腰の革ベルトには刃こぼれした短剣がぶら下がり、指には安物の銀の指輪が光っている。
その左隣に立つ痩せた男は、鼠色の髪を後ろで束ね、鷲鼻の下に薄い唇を歪めている。右手の人差し指と中指が第二関節から先を失っており、何かの事故か罰の跡らしい。服の袖は破れ、継ぎ当てがあちこちに見える。
右側の大柄な男は肩幅が広く、太い腕に入れ墨が彫り込まれている。禿げ上がった頭に汗が光り、鼻は一度折れて曲がったままだ。厚い唇の端から涎を垂らし、濁った目でリリィを見下ろしている。
後方の二人は若い。一人は赤毛で顔中にそばかすがあり、もう一人は黒髪で左目の下に大きな痣がある。どちらも二十代前半だが、その目つきには既に悪事に慣れた冷たさが宿っていた。
全員が同じような汚れた革の胴着を着込み、腰には刃物を下げている。体臭と安酒の匂いが風に混じって漂ってくる。顔つきは粗野で、目つきが値踏みするように彼女を見回していた。
「こんにちは」
リリィは人懐っこく微笑んで挨拶した。陽光が白銀の髪を透かし、清楚な顔立ちを際立たせている。だが、男たちの表情は険しいままだった。
「いい子だねぇ。ちょっと俺たちと一緒に来てもらおうか」
先頭の髭面の男がにやりと笑う。黄ばんだ歯が覗き、その口元は獲物を前にした獣のように欲望に歪んでいた。舌で唇を舐める仕草が下卑ていて、明らかに邪な意図を隠そうともしていない。
「お断りします」
リリィの声は澄んでいて、丁寧だった。まるで普通の世間話を断るような、自然な調子だった。
「断るって? はは、面白いこと言うじゃないか。お前に選択権なんかないんだよ」
痩せた鷲鼻の男がしゃがれ声で笑った。欠けた指を振りながら、威嚇するように前に出る。
大柄な禿頭の男が彼女の腕を掴もうと、太い手を伸ばした。その手は垢と血で汚れ、爪の間に黒い汚れが詰まっている。その瞬間——
「触らないでください」
リリィは木陰から陽だまりへと立ち上がりながら、男の手首を軽く掴んだ。その動きは流れるように優雅で、まるで舞踏の一部のようだった。
「いてっ!? な、何だこの握力……!」
大男の顔が一瞬で苦痛に歪む。血の気が引き、額に脂汗が浮かんだ。リリィの細く白い指が、見た目に反して鉄の万力のように手首を締め上げていた。男の太い手首が、少女の小さな手の中で軋んでいる。
「暴力はよくありません。でも、そちらから仕掛けてきたなら、正当防衛になりますね」
彼女は穏やかな口調のまま、男の手首をさらに強く握った。骨と骨が擦れ合う、嫌な音が響く。大男の顔が青白くなり、膝が震え始めた。
「うわああああっ! 離せ、離せよ!」
男の絶叫が広場に響いた。通りを歩いていた商人たちが振り返り、何事かと足を止める。
「他の皆さんも、帰った方がいいですよ。これ以上続けると、痛い思いをすることになります」
リリィの声は相変わらず優しく、まるで子供に諭すような調子だった。陽光が彼女の後ろから差し込み、白い髪が天使の輪のように光っている。
だが、残りの男たちは仲間を助けようと一斉に襲いかかってきた。革靴が石畳を蹴る音が乱暴に響く。
「ガキが調子に乗るな!」
髭面のリーダーが怒鳴りながら短剣に手をかけた。鷲鼻の痩せた男も同時に動き、赤毛と黒髪の若い二人が左右から挟み撃ちにしようと走る。
リリィは小さくため息をつき、掴んでいた大男を軽く押し出して距離を取った。男は三メートルほど吹き飛び、石畳に背中から叩きつけられた。
「……わかりました。ちょっとだけ、本気になります」
地面を蹴って、真上に跳躍した。まるで見えない糸で引っ張られたように、人の背丈の三倍ほどの高さまで軽やかに舞い上がる。服の裾が風に翻り、髪が放射状に広がった。
男たちが呆然と見上げた瞬間、彼女は重力に身を任せて垂直に落下しながら、右拳を振り下ろした。
「うぐっ!」
一番近くにいた鷲鼻の男の肩口に拳が落ち、鎖骨が砕ける音がした。男は呻き声とともに石畳に膝をつき、肩を押さえて悶絶している。着地と同時に、リリィは素早く次の標的——赤毛の若い男に接近する。
「——ここで距離を詰める……」
呟きながら、地面を蹴って低い姿勢で滑り込んだ。石畳の上を滑るように移動し、男の懐に潜り込む。そして右の掌底で、正確に鳩尾を突き上げた。
「がはっ……!」
赤毛の男は口から唾液を吹き出し、息を詰まらせて前のめりに倒れた。顔は青紫色になり、喉を掻きむしりながらもがいている。
「おい、こいつ人間じゃねえぞ!」
黒髪の若い男が震え声で叫んだ。左目の下の痣が恐怖で紫色に変わっている。
残る三人——髭面のリーダー、最初に吹き飛ばされた大男、そして黒髪の若者が、慌てて間合いを取ろうと後退する。
だが、リリィの動きはそれより早かった。大きく後ろに跳んで十メートルほど距離を取ると、今度は助走をつけて突進する。
「逃げられると思いますか?」
地面を足で叩きながら接近し、石畳の欠けた破片と砂埃を巻き上げる。視界を奪われた大男に向かって、斜め上から飛び込んで右肘を振り下ろした。
「ぐぼっ!」
大男の後頭部に肘が命中し、彼は意識を失って石畳に顔面から倒れ込んだ。鼻血が石の隙間に染み込んでいく。
四人目が倒れた。
残るは二人——髭面のリーダーと黒髪の若者。彼らは完全に戦意を失い、腰を抜かして石畳にへたり込んでいた。リーダーの手は短剣の柄を握ったまま震えており、もはや抜く力も残っていない。
「ば、化け物だ……!」
黒髪の若者が顔を青ざめさせながら呟いた。
「人間じゃない、あれは魔物だ!」
髭面のリーダーも同じように震え声で叫んだ。顔から血の気が引き、汗が滝のように流れている。
リリィは首を軽く傾げて微笑んだ。午後の陽光が彼女の後ろから射し込み、まるで聖女の絵画のような美しいシルエットを作っている。
「魔物ではありません。ちゃんと人です。ただ、少し変わってるだけです」
そう言いながら、石畳に倒れた男たちを避けて、残る二人に歩み寄る。白い靴が石を踏む音だけが、静寂の中に響いた。男たちは必死に後ずさりしたが、既に広場の端まで追い詰められていた。
「やめろ、近づくな!」
「もう何もしません、許してくれぇ!」
二人の声は涙声になっていた。特に若い方は、既に涙を流している。
「じゃあ、お約束してください。もう人さらいはしない、って」
リリィの声は相変わらず優しく、まるで幼い子に約束を求める姉のようだった。
「約束する、約束するから!」
「二度と、絶対に!」
「本当ですか? 嘘だったら、今度はもっと痛い目に遭いますよ」
彼女の微笑みに、なぜか背筋が凍るような恐ろしさが混じっていた。
二人は何度も何度も頷いた。首が折れそうなほど激しく頷き続ける。リリィは満足そうに笑うと、両手を叩いて白い手についた埃を払った。
「では、皆さんお疲れ様でした。倒れてる人たちも、しばらくすれば起き上がれますから」
その時、広場の向こうから急ぎ足でやってくる人だかりの中から、見慣れた黒い影が現れた。重いのブーツが石畳を踏む音が規則正しく響く。
「……リリィ」
ガルドだった。内側にある黒鎧を隠している暗い色の外套を翻しながら、周囲の状況を一瞥する。倒れている男たちの様子、散乱した石の欠片、そして血の匂い。
それらすべてと、平然と立つリリィを見比べる。
その目は冷静だが、わずかに驚きの色が混じっていた。
「おかえりなさい、ガルドさん。お疲れ様でした」
リリィは屈託のない笑顔で彼を迎えた。髪についた砂埃を手で払いながら、小走りで近づいてくる。
「何があった」
ガルドの声は低く、事務的だった。しかし彼女を心配する気持ちが僅かに滲んでいる。
「人さらいです。でも、もう解決しました」
ガルドは倒れた男たちの様子を確認した。全員息はあるが、しばらく動けそうにない。武器は抜かれた形跡がなく、全て素手による制圧だった。骨折や打撲の音から、手加減はされているが確実に戦闘不能にされている。
「徒手で、五人を」
ガルドの声に、わずかな感心の色が混じった。
「はい。教えていただいた通りにやったら、うまくいきました」
遠くから守衛の呼び声が聞こえてきた。金属の鎧がぶつかり合う音と共に、複数の足音が石畳を踏んで近づいてくる。騒ぎを聞きつけて駆けつけてくるのだろう。
「行くぞ」
「はい」
二人は野次馬の人だかりをすり抜け、狭い路地の奥へと消えていった。古い煉瓦の壁が作る影の中に、黒い外套と白い髪がゆっくりと溶け込んでいく。後に残されたのは、呻き声を上げる男たちと、事の次第を理解できずに首をひねる町の人々だけだった。
「……あの子、一体何者だったんだ?」
果物売りの老婆がつぶやいた声だけが、昼下がりの広場に響いていた。石畳には男たちの血痕と、激しい戦闘の跡が生々しく残されている。
◆
街外れの石造りの橋の上で、ガルドが振り返った。眼下を流れる川の水音が静かに響き、夕陽が水面を黄金色に染めている。
「怪我は?」
「ありません。相手が私に触れる前に倒したので」
リリィは両手を広げて見せた。白い手には汚れひとつついていない。
「そうか」
短い沈黙の後、風が二人の髪を揺らした。ガルドが口を開く。
「遠めで見たが……動きは良かった。跳躍のタイミング、距離の使い方、どちらも教えた通りにできていた」
リリィの瞳がきらりと光り、顔がぱっと明るくなった。夕陽が彼女の頬を薄紅色に染めている。
「本当ですか? 実戦では初めてだったので、少し不安でした」
「武器なしでも戦える。覚えておけ」
「はい! 今度はもっと上手にやってみせます」
二人の足音が、夕暮れの石畳の道に静かに響いていった。橋の向こうに広がる麦畑では、穂が夕風に揺れている。
街では、人さらいたちがようやく意識を取り戻し始めていたが、その顔には深い恐怖の色が刻まれていた。
特に髭面のリーダーは、白髪の少女の笑顔が脳裏に焼きついて離れない。二度と、あの悪魔のような天使の相手に手を出そうとは思わないだろう。




