52. リリィの訓練1【 徒手】 距離を壊す
夕暮れの草地。踏み慣らされた土の輪が、二人のための即席の土俵になっていた。風は涼しく、遠くで鳥が一声。ガルドは黒鎧を外し、汗を吸う薄手の上衣だけ。リリィも外套を畳んで端に置き、前髪を耳にかけて立った。
「今日は徒手。武器なし、投げも関節も控えろ。打撃中心だ」
「はい。……“軽く当てる”まで、ですね」
「そうだ。倒すのが目的じゃない。届かせる感覚を掴め」
軽く礼。間合いを取る。砂の上、リリィが先に踏み込んだ。ジャブを二つ、角度を変えてストレート。素直で綺麗だが、伸びる腕の長さはどうしても短い。ガルドは上体を少し傾けるだけでいなして、逆に中段へ短い右。トン、と軽く触れただけなのに、重みだけが芯へ落ちた。
次の一拍、リリィの視界が白く揺れ、足が土を食む。
「——っ」
「止める」
ガルドはすぐ距離を外し、手の甲で空を切って合図する。
「悪いところを言う」
「お願いします」
「悪いのは技じゃない。距離だ。リーチ差と体格差。そのまま“人間の動き”で殴り合えば、届く前に相手が終点を作る」
「終点……相手の攻撃の射程のことですね」
「そうだ。お前が“正しい距離”で殴ろうとすると、俺にとっては“待っていれば当たる距離”になる」
リリィは頷き、拳を握り直した。指先が白くなりすぎないよう、すぐ緩める。呼吸を整えると、再開の合図。
二合目。今度はフェイントを混ぜる。踏み込みのリズムを半拍ずらし、膝の屈伸で速度を載せる。だがガルドの視線は常に胸骨に置かれ、先に動いた足と腰の向きで意図を読まれる。肩口に軽いショートフック——ガツンではなく、ポン、と置くような一撃。視界がまた弾け、背中から土に落ちた。
見上げる夕空に、筋雲がのびている。肩に落ちた影が動いて、ガルドが手を差し出した。
「……普通にやったら、勝てないです」
「普通をやめろ」
短く、はっきりと言う。
「お前は“普通の人間”じゃない。剣ではリーチを補える。だが徒手なら、“人外”の長所で距離そのものを壊せ」
「人外の、長所……」
「三つ教える。ひとつ。跳躍。人間の踏み込みの範囲を超えて、一足飛びに入れ。ふたつ。加速と減速。遠くまで下がって助走し、一瞬で戻る。みっつ。環境の撹乱。地面を叩く、砂を舞わせる、踏み割って石を跳ねさせる。視線と意識の“焦点”を奪え」
「……はい」
「もう一つ。人の打撃は横や斜めの弧を描く。お前は真上から落とせ。跳んだ位置から一直線に。重さと速度を“上から乗せる”感じだ」
リリィは立ち上がり、両手を開いて土に触れた。手のひらにざらっとした感触。呼吸を深くして、次の合図。
三合目。腰を抜くように下がり、輪の外まで下がる——と思わせて、地面を“パアン”と叩いた。乾いた音と同時に土が跳ね、粉塵が薄く舞う。その影から、低い姿勢のまま一気に前へ。膝と腰のバネだけで距離を食い、ほとんど滑るように間合いに入る。ガルドは眉をわずかに上げ、顎を引く。
「——いい」
ガルドの掌が前に出てジャブを潰しに来るより早く、リリィは脇の下へ潜る。届かないはずの至近距離。上体が当たるほどの密着をあえて作り、肩で押し上げるフェイント。ガルドの重心が半寸泳いだ——そこで止まった。右の前腕が、胸の中心に軽く当たる。触れただけなのに、内側まで止められた感覚。そこからは動かない。
「……今の入りは良かった。だが触れ合ったあとの密着は俺の間合いだ。お前が勝つには“相手は触れず、自分は届く距離”だ」
「触れずに、届く……」
「跳べ。真上だ」
四合目。リリィは一歩で入らない。半歩下がり、息を落として、膝を抜く。そして真上に、弾かれたように跳んだ。土場の外縁よりも高く。風が裾をめくり、髪がほどける。空で一拍。そこから、垂直に落ちながら拳を伸ばす。
ドン、と空気が鳴った。ガルドは前足を外に滑らせ、落下の線から胸骨を外す。拳はかすめ、土に軽い円が刻まれた。すかさずリリィは反動で離れ、距離をまた外へ引き延ばす。間合いの伸縮が、人間のそれではない。
「そうだ。上と遠さで距離を壊せ」
「はい!」
「落ちるとき、カウンターを貰わないように素早くかつ拳の威力を上げるんだ」
動きはそこから、見違えるように変わった。
——遠くへ逃げ、助走から戻ってジャンプ。着地した瞬間にはもう攻撃の射程から抜けている。
——地面を叩いて砂を上げ、視界を白く濁してから、真上へ。体を捻り、斜めに流れ落ちることで上へのストレートを空振らせ、着地と同時に後ろへ弾む。
——土の薄いところを踵で割り、跳ねた小石を目線に散らしてから、半身で滑り込む。
ガルドは受け、いなし、時々カウンターの気配だけを見せる。重い当てはしない。ただ、もし今が実戦ならここで倒れていた、というパターンを示していく。リリィはそれを見て修正する。呼吸が乱れれば、いったん遠くへ逃げ、また戻る。届かせる瞬間以外は“安全な外側”にいる——その原則が、少しずつ身体の芯に降りていった。
「リリィ、“相手の正面”に立つ時間を短くしろ。斜め。もっと斜めだ」
「はい、斜め!」
彼女は次の入りで、助走の最後に半身を作った。肩の向きだけをひらいて、相手の視界の“中心線”から外れる。ガルドのカウンターがわずかに空を切る。空いた脇腹に、落ちる拳——“当てない”約束のぎりぎりで、拳を止めた。ガルドの上衣が、風でふわりと揺れる。遅れて、ズンっと木々が揺れるような着地した。
「……今の攻撃は、よかった」
短く、しかしはっきりとした褒め言葉。リリィの胸の奥に、小さな火が灯る。
仕上げのラウンド。ガルドが片手を背に回し、もう片手でだけ応じる。「一本、取りに来い」。リリィは遠くへ下がり、深く息を吸う。夕焼けの端が紫に変わり始めていた。
(真っ直ぐでも斜めでも、読まれる。なら——)
砂を静かに蹴る。助走の足音をわざと大きく、次の一歩で消す。音の消えた瞬間に地面を叩き、砂のベールを一枚。ガルドの視線がそこへ寄った刹那、リリィは右ではなく左へ跳んだ。
真上ではない。斜め上、外側から内側へ落ちる流れ。
落下の途中で上体だけをねじり、拳の向きを最後に変える。
ガルドの顎先で、一瞬、拳がぴたりと止まり――瞬きする間もなく遠ざかっていく。後から聞こえるドンと地面爆ぜる程の着地音。
静かになった風の中で、二人の呼吸だけが重なる。
「——取った」
リリィが呟くように言う、それにガルドが頷いた。
「取った。今のはお前だけの間合いだ」
膝から力が抜け、リリィはその場にへたりそうになって、笑った。息が苦しいのに、胸の中は軽い。
「……やりました」
「ああ。覚えておけ。人の動きを真似る必要はない。お前は跳び、遠ざかり、戻り、上から落とす。それが“リリィの徒手”だ」
「はい!」
◆
訓練の輪を整え直し、外套を羽織る。暮れ始めた草地に小さな焚き火。ガルドは水袋を渡し、リリィは小鍋に乾燥野菜と肉片を落とす。火が柔らかく弾ける音。煮立つ前の匂いが立ち上る。
「ガルドさん。さっきの“真上から”って、剣ではあまりやらないですよね」
「剣は届く。剣なら水平に伸ばせ。徒手は届かない。だから垂直で距離をごまかせ」
「ごまかす、騙す、好きです」
リリィはスプーンで鍋を混ぜ、少しだけ真顔になる。
「……最後、決められたの、嬉しかったです」
「胸を張っていい。今日の一本は偶然じゃない。作った一本だ」
「えへへ」
火の粉が夜気に消え、鍋がふつふつと歌う。ガルドは塩をひとつまみ、指先から滑らせた。味を見て、短く頷く。
「さて、食うか」
「はい。今日の私は、いつもよりお腹が空いてます」
「跳んだからな」
「たくさん跳びました!」
二人は湯気を分け合い、温かいスープで口を満たす。
訓練場の土に残る足跡が、夕闇にかすんでいく。
明日にはまた消える跡だが、身体の中の“新しい動き”は、もう消えない。




