51.「……私たちに出来ることは、ただ、目の前にいる敵を斬ることだけでしたね」
宿場町の詰所で馬の引き渡しと盗賊の通報を終え、粗末な礼状を受け取る。蹄の音が路地の向こうへ薄れていき、書記官のペン先だけが紙を引っかく。
「行こう」
「はい。……酒場で聞きました。主要街道から外れた脇道の先に、行商人も寄らない村があるって。地図にも薄い線だけ」
門を出ると、風は乾いていた。脇道は最初こそ緩やかな草地を切り、やがて背の高い木々が影を落とす。小鳥の声は少なく、足音は土に吸われる。
曲がり角に、板切れが一本。炭で下手な字が殴り書きされている。
――よいこず、おらぁるむや
リリィが首を傾げる。「“良い子は来るな”……みたいな?」
ガルドは指で板の削れを一度なぞり、表情を固くした。
「……“ようこそオラル村”だ。人間の子の字じゃない。真似をして書いてる。」
リリィの背筋に冷たいものが走る。ガルドは短く告げた。
「離れず、ついて来るんだ」
森が開け、村が見えた。柵は整い、畑の畝も崩れていない。桶は倒れておらず、扉も外れていない。だが――風は血と腐肉を運ぶ。表だけ整えた舞台の裏で、何かが腐っている匂い。
「……臭います。血、腐った肉、獣。動く気配、十……いえ、二十以上。散ってます」
「ああ」
通りの向こうから「村人」が歩いてきた。薄い麻の服、腰紐、籠。髪は長く、みな顔を伏せ、足並みだけが揃う。肩が上下しない――呼吸が浅すぎる。靴音はあるのに、土に伝わる重みが軽い。
五歩、四歩、三歩。
いっせいに顔が上がった。皮の下で歯列がむき出しになり、黒い瞳孔が焦点を結ばない。耳を覆う髪の奥に、獣の黒い皮膚。人の形を借りた猿型の魔物が、薄布をまとって這い出しただけだ。
「来る」
ガルドの右足が土を掴む。先頭が爆ぜるように跳ね、斜めから腕を伸ばす。前肢は人の腕、指は一本多く、爪は内側へ巻く。
ショートソードが半月に閃き、先頭の下顎を外へ“押し”流す。叩かない。角度だけ奪う。露わになった喉へ短く落とし、脈動を止める。左踵で背後の膝を刈り、倒れる前に柄頭でこめかみを“触れる”。筋が緩んで土に沈む。
左右の路地、屋根、畑の畝――散らばっていた影が一気に収束する。髪が揺れ、服の裾が絡まり、誰も声をあげない。人の歩幅で、獣の速度で迫る。
「右、受けます」
「左は俺が止める」
ガルドは通りの角に身を寄せ、正面の幅を自分の肩幅にまで削る。刃は喉、肘、膝――三つの高さだけを往復する。倒れた躯は障害物になり、後列の足を止め、その刹那に次が届く。
リリィは道の右辺を滑り、突破しかけの個体へ指先を向ける。
「《縛れ》」
影が糸になって足首を絡める。転倒の背へ、彼女のロングソードが静かに入る。詠唱は短い。光は薄い。筋と骨の隙間だけを選ぶ確かさだけが、刃の軌跡を示していた。
屋根上から二体が無音で落ちる。ガルドはツバイヘンダーを半抜きにし、柄で顎を弾いて反転。背を見せた瞬間にはもう背後に回っている。重心の線を断ち、土へ座らせ、喉を一寸。
畑の畝を越えて十体が駆ける。リリィが息の底で囁く。
「《沈め》」
土が一握り沈み、重心が崩れる。繋ぎの一歩が遅れた二体の背を、横一線で払う。飛沫は皮膚に乗るが、すぐ乾く。心臓の位置が違う個体へは高めで――ためらいはない。目だけが熱い。
柵の上を疾る影。横合いから抱きつくように腕が伸びる。ガルドは半歩下がって肘を掴み、関節の“目”を軽くずらす。爪は自分の胸に届かず、空を掻く。膝を払って落とす。踏まない。次へ。
数は減る。息の音は増えない。彼らは“呼吸していない”。髪は顔を隠し、爪は土を掻き、袖口には乾いた血が層になっている。誰も喉を鳴らさない。人真似の静けさが、不気味なままだ。
「リリィ、路の真ん中」
「はい。《払え》」
足元の砂が一拍だけ舞い、群れの足取りが同時に半歩ずれる。音の乱れは視線の乱れ。ガルドの切り返しがその隙を無駄なく拾い、喉の高さだけが次々と“消えた”。
十分もかからなかった。土の跳ねが止まり、刃を払う音が二度、三度。風が通り抜け、血と腐臭の帯がわずかに薄くなる。敵は全滅した。
村の中央――堂の前に、山があった。色も形も、山と呼びたくはない。腕、肋骨、布切れ。噛み散らされた皮と、背骨の弧。灰をかけた跡はあるが、燃やされてはいない。燃やす者が、もういなかった。
路地の陰には旅装の影。指輪の付いたままの手、裂かれた荷袋。顔は見えない。誰も首を上げない――腐っていた。
リリィは口を閉じ、鼻で深く吸い、静かに息を吐いた。
「……全部、食べ物にされた痕です。壊して、積んで、隠していない。“見せ物”みたいに…」
「ああ」
ガルドは刃を拭い、鞘に戻す。板切れの字が、背中でざらりと擦れたように思い出される。
「“ようこそオラル村”。あれは、ここへ誘うための札だ。『人間の村だよ』って、道行くやつに見せるために」
「……っ――く…」
リリィは俯いた。今更になって気が付くことで、遅れて湧いてきたおぞましさに喉の奥がわずかに鳴る。
焼くしかない。病と獣を呼ばないように。二人は手際だけで木を集め、残っていた灯油を見つけ、灰を厚くする。火は高くではなく、低く、長く。煙は真っ直ぐ立ち、風に裂かれて消えた。
炎に照らされる顔はもうない。重さと匂いだけが残る。ガルドは火口から半歩離れ、低く言った。
「こういう村の、生き残りがいる」
「……はい」
「そいつらは王都へ行く。領主の兵舎でもいい。門の前に何日も立ち続けて、立っていられたやつだけが入る。金も才もいらん。精神だけで踏みとどまる。訓練で何百人も脱落する列の端で、立ち続ける」
炎がぱちりと鳴る。
「そして騎士になる。剣の振りは遅くても、目は同じになる。遠征に出て、ここにあったものと同じものを見て――殺しに行く。魔物を。悪魔を。名が何であれ、過去に殺せなかったものを――」
風が変わり、煙が道のほうへ引かれた。リリィは顔を上げる。
「……生き残りの居ないこの村は、何も残せないんでしょうか……」
「俺たちにとってこの村は、生まれたところでも何でもない。ただ立ち寄って、そこにいた敵を切った場所ってだけだ。」
火は静かに縮み、灰は重く沈んだ。影は長く、細く伸びる。二人は堂の前で一礼し、村を背に向き直る。
背後で、灰が小さく崩れた。誰も首を上げない村に、風だけが通り道を作っていく。二人はその風下を、黙って歩いた。
「だが、人が襲われることも無くなった。俺たちが終わらせた」
「……私たちに出来ることは、ただ、目の前にいる敵を斬ることだけでしたね」
リリィは、煙の匂いが漂う村を一瞥し、「さようなら」とだけ呟いて前に向かって歩きだした。




