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50/55

50.「今日のは、少しだけ誇っていいです」

 街道は、朝の名残をわずかに抱いたまま、山裾へ斜めに延びていた。

 靴裏に乾いた砂が鳴り、風は塩と草の匂いを交互に運んでくる。昨夜の祭りの余韻も、煙の香りも、もう背中の向こうだ。前には薄青い空と、次の宿場町までの、丘と谷の繰り返し。


「昼までにあの丘を越えれば、川沿いの茶屋に出ます」

 リリィが前髪を払って言う。白い髪は光を含み、細い指先にさらりと流れた。


「あそこなら水も補給できる」

 ガルドは歩調を崩さず、遠目に連なる並木に視線を滑らせる。風下から、砂を揉むような低い震えが混じってきた。蹄だ。数は——五、いや六。


 次の瞬間、並木の切れ目から黒い影が滑り出た。

 革張りの胸当て、粗末な槍、顔は布で覆い、鞍は薄い。軍人ではない。街道筋で名の知れた「流れ騎兵」の匂い——実質は馬持ちの盗賊。前列が半月に広がり、後列が袋を抱えた旅人の列を追い立てる。


「走らないと殺されるぞ!」と誰かが叫び、悲鳴が風に切れた。


 リリィは一歩、ガルドより前に出た。

 靴先で砂を軽く蹴り、声はささやきに落ちる。


「《視界、曇れ》」


 並木と路面のあいだに、白い霧の膜がすっと張る。陽を弾く薄い絹のような層が低く走り、騎兵の眼前だけを曇らせた。前列の一頭が鼻を鳴らし、足を取られる。


「出たぞ、術だ!」

 布面の下から掠れ声。隣の騎兵が合図の短笛をくわえた瞬間——


 ガルドは土の肩を蹴って前に出た。

 足は止まらない。靴底が路面の砂を一度だけ噛み、次の拍で騎兵の膝の位置へ左手が伸びる。馬の胸に触れず、騎手の脛甲の外——そこへ“叩かず触れる”。力は加えない。角度だけをずらす。


 槍の間合いへ踏み込む刹那、ガルドの指先が手首の腱を正確にとらえた。力は殺し、角度だけを奪う。柄は揺れただけ——だが次の拍で制御は外れ、槍先が空を擦った。


 落馬の鈍い音。

 砂が弾け、蹄が空を掻く。ガルドは馬の頸へ掌を添え、鼻面を上げすぎない角度で回す。暴れ癖のある若い馬だが、手の平の熱が伝わる位置を外さない。片膝を鞍にかけ、油の抜けた帯を奪って身体を滑り込ませた。


 跨がった途端、馬体は一拍で落ち着く。背中の強張りが抜け、呼気が深くなる。

 古い騎士団式の乗り込み——馬が「任せていい手」と知るやり方だ。


「ガルドさん!」


 リリィが短く呼ぶ。彼女の霧はまだ薄く保たれている。旅人たちは霧の外へ身を寄せ、顔を伏せた商人が震える手で小さな子の頭を押さえた。


「任せろ」


 ガルドは腹帯を軽く締め直し、踵をわずかに送る。馬が地を蹴る。

 前へ。風が頬を撫で、並木が流れる。背後でリリィの次の詠唱が低く燃える。


「《足、もつれよ》」


 霧に仕込まれた目に見えない段差——魔力の薄い縄が騎兵の前脚を引く。転ばせはしない、ただ一歩だけ遅らせる。遅れは、死角になる。


 先頭の騎兵が槍を立て直し振り下ろす。

 ガルドは鞍上で身体を半寸沈め、ショートソードを鞘から半分だけ抜く。刃は使わない。木の鞘そのものを横へ。槍の石突を“受けない”。斜めに触れ、力の道を外し、持ち手の肩を“軽く押す”。


 槍が地面を打ち、男の肩が開いて空が見える——その隙間へ、踵。

 馬の脇腹へではない。自分の馬の後躯で、相手の馬の肩をやさしく押す。やさしく、だが十分に。二頭の呼吸のリズムがずれ、相手の馬が自ら道を開ける。


 喉元に刃を当てる必要はない。

 鞍角の上から手綱をひねり、相手の手首を外へ。男は鞍の上にいるのに、もう騎兵ではなかった。砂が大きく波打ち、彼は落ち、転げ、砂埃の向こうで呻いた。


 左から別の影。短剣を持つ騎手——腕が軽い。ガルドは馬体をわずかに倒し、男の肘を押す。短剣がくるりと一回転して遠くへ飛んだ。男は驚愕の声を上げたが、ガルドは首を振るだけだ。鞍から落とし、呼吸を奪わず、動きを止める。次——


 後列の二人が散開し、背の低いほうが旅人側に回り込もうとする。

 そこへ霧が“すっと流れ”て立ちふさがる。リリィだ。白い髪が陽を受け、目の色が冷たく光る。


「行かせません。《縛れ》」


 路面の小石が一瞬だけ踊り、目に見えない糸が馬の足元に絡まる。蹄鉄が鳴き、馬が驚いて立ち上がった。騎手は慌てて体を伏せるが、ちょうどその背へ、ガルドが奪った馬の影が覆いかぶさる。


 ガルドは馬を走らせながら、腰を浮かせ、体重を前後へ滑らせる。

 馬の背は波。波の頂で刹那だけ軽く、谷で足を解き、次の一歩に力を渡す。馬の耳が後ろに一度だけ向き、「わかった」と言うように戻った。


 残り三。

 一人は槍の柄を短く持ち替え、馬を叩こうと構える。良くない癖だ。

 ガルドは鞍上で身体を返し、木鞘の背で槍柄の“目”(節)を叩く。一本の棒が、二つに分かれたように力が逃げ、相手の手首から感覚が落ちる。指が開く。柄が落ちる。男はまだ戦意を保つが、もう「騎兵の速度」には戻れない。


 右の男は逃げに転じた。

 並木の陰へ馬体ごと潜ろうとする。ガルドは深く息を吸い、手綱を片手だけに預ける。左手で鞘を握り、右足を鞍に固め、上体を捻る。

 遠い。風の向き。馬の呼吸。落ち葉の触れる音の間隔——


 木鞘が、飛ぶ。

 真っ直ぐではない。弧。男の背後に先回りする軌道で、肩甲骨の間に“触れる”。叩かず、押さず、触れるだけ。人は触れられた方向へ意識が向く。男の上体がわずかに反り、重心が後ろへ。鞍の背で腰が浮き、馬が首を振る。

 落ちる。砂を噛む音。馬だけが走り去った。


 最後の一人が短笛を噛みしめ、合図を鳴らそうと顔を上げる。

 霧の中からリリィの指先が現れ、小さな風が笛孔を塞いだ。無音。男が目を剥いた瞬間、ガルドの馬が真横から入り、胸当ての縁に鞭のない“軽い打ち”。肺が空になり、男は鞍の上で前屈みのまま固まる。


「——終いだ」


 ガルドは馬を立ち止まらせ、肩で息を整える男の腕を取り、そっと地面へ降ろす。拾い上げた自分の木鞘を帯に戻し、馬の首筋を撫でた。汗が温い。呼気はまだ脈打つが、パニックの波は収まっている。


 風が、霧を撫でて薄く千切った。

 道の中央には倒れた盗賊たち、左右には退避した旅人の一群。泣いていた子どもが顔を上げ、商人風の男が帽子を胸に抱いて震える声で礼を言った。


「助かった……本当に」

「怪我人は?」

「擦り傷だけで……その、馬が逃げてしまって……」


 並木の陰に、盗賊の馬が五頭。耳を立てたり、砂を掘ったり、まだ落ち着かない。

 ガルドは馬上から軽く舌を鳴らし、膝で合図する。奪った一頭が先に歩き、他の五頭が距離を詰める。馬は、馬の後ろを信じる。


 リリィは倒れた盗賊の武器をひとまとめにし、縄の代わりに《結べ》の魔法で手首を軽く拘束した。呼吸と脈を確かめ、片膝をついて旅人へ向き直る。


「この四頭は、あなた方に。荷車があるなら牽いていけます。あとの二頭はわたしたちで宿場町まで連れて行って、詰所に引き渡します――盗賊たちのことも行政に通報しておきましょう」


 商人が何度も頭を下げ、若い夫婦が震える手で手綱を受け取った。馬の鼻面が不安げに鳴き、夫婦の手の緊張が少しずつ解ける。


 ガルドは下馬し、奪った馬の腹帯をもう一度締め直す。指の節が革に沈み、微かな呼気の揺れを待ってから穴を一つ詰める。その所作は、刃物を研ぐ時と同じ静けさだった。


「……ガルドさん」

 リリィが横顔を覗き込む。「乗り込み、綺麗でした」


「昔、少しだけ訓練を受けた」

「“少し”って、どのくらい」

「騎士団で、そこそこ」

「そこそこ、で今の?」

 リリィは目を細め、口元にだけ笑みを浮かべる。「謙虚の皮を被った自慢は、嫌いじゃないです」

「ふっ――謙虚さは大事だ」


 盗賊たちを並木の陰へ移し、荷を奪われた形跡がないかを確かめる。最後に、砂に落ちていた短笛を拾い、指で穴を塞いで一息だけ吹いた。乾いた、頼りない音。これでは軍隊の号令は務まらない。


 旅人たちが、分け与えられた手綱を握って歩き出す。

 ガルドとリリィは残りの二頭の鼻先を軽く叩き、歩調を合わせて街道の先へ向かった。並木の影が短くなり、昼の気配が丘の向こうから押し寄せる。


「川の手前で一旦止まる。水を飲ませる」

「はい。……ガルドさん」

「なんだ」

「今日のは、少しだけ誇っていいです」


 リリィは言葉を選ぶように息を吸った。


 「逃げる背中を切らないで、馬も人も、次に生きる方向へ押し直した。そういうの、わたしは好きです」


 ガルドが「ふっ」と息を吐き、答える。

 「奴らの中の一人でも殺人者の目をしていたら斬っていた…今日は偶然だ」


 リリィはガルドの返答に返す。

 「それでも、ガルドさんに殺す以外の選択肢があって嬉しかったです」


 ガルドは答えず、手綱を持つ指にほんの僅か力を込めた。

 馬の耳が向きを変え、コツ、コツ、と蹄の音がそろう。風は草の匂いに変わり、丘の向こうの水面が、銀紙のように揺れて見えた。


 宿場町までは、あと半日の道程。

 砂の上に重なる蹄と足の列は、やがて一筋に伸びて、陽の中へ溶けていった。

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