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番外編・武闘祭ハラルヘリ 45. 第一話「優勝賞品は胃袋へ」

 その街――大都市ハラルヘリは、門をくぐった瞬間から油と香草の匂いがした。

 石畳は朝の光を鈍く返し、屋台の鍋底から立ちのぼる湯気が風にたなびいていく。煮詰まった骨の甘い香りに、柑橘を潰したような酸が重なる。


 揚げ物屋台の熱気、焼き串の煙、甘い果実酒の香り――鼻孔をくすぐる誘惑の行列に、黒鎧の男はふと足を止める。

 彼の顎がほんのわずかに上がり、目つきが戦場では見ない色にほどけた。


「いい匂いだな……」

 低く落ちた声に、横を歩く少女が肩をすくめる。白銀の髪が光を弾いた。


「いつもの“整備用油の匂い”じゃなくて良かったですね、ガルドさん」

 リリィのからかいは柔らかい。彼女は通りの先を見張りながらも、男の視線がどこへ吸い込まれていくか正確に察している。


「リリィ。今だけは鎧の話より、あの屋台の話をだな……ほら見ろ、羊の背脂にローズマリーを――」

 指先が無意識に空の皿を測るような動きをした。戦士の手が、料理を数える。


「はいはい。で、宿はどこに……」

 言いかけたリリィの耳が、噂のざわめきをすくい上げる。通り風に乗って、祭りの声が弾けた。


「四年ぶりの武闘祭だってよ!」「今年の優勝ご褒美は“総料理長・金狐のアルヴェ”の特別コース!」「招待は優勝者と同伴一名!」

 声のひとつひとつが鐘の音みたいに響き、周囲の視線が一斉に掲示板へ流れる。


 ピクッ、とガルドの首が鳴った。

 ピクピクッ、とさらに鳴った。

 戦場でのみ見せる集中とは別種の“食の集中”が、目の奥でかすかに灯る。


 そしてクルリ、とリリィの方へ向き直る。

 鎧の肩当てがわずかに鳴り、彼は真顔で宣言する前の呼吸を整えた。


「武闘祭ハラルヘリ……同伴一名」

 言葉の間合いが、メニューを読み上げる時と同じ丁寧さだ。


「いやな予感しかしません」

 リリィは頬を押さえ、露骨に眉を下げた。嬉しさ半分、面倒半分。


「リリィ」

 ガルドの声が一段落ちる。説得の前置きの色。


「ダメです」

 即答。だが口元は笑っている。


「まだ何も言ってない」

 男は視線だけで付け合せを選ぶ料理人のように、慎重に言葉を選ぶ。


「目が“言ってます”。フルコースって目が言ってます」

 リリィの指が、彼の視線の動きとぴたり重なる。長い付き合いの勘だ。


 ガルドはゴホンと咳払いし、なぜか背筋を正す。

 演説の前の所作。彼にしては珍しく、言い訳から入ろうとしている。


「学術的興味だ。名匠の料理は文化だ。文化は守るものだ」

 真面目な口調だが、語尾に胡椒が一粒落ちたみたいに照れが香る。


「文化を胃で守るのやめてもらっていいですか?」

 リリィが淡々と匙を置くように突っ込む。


「さらに言えば、あのアルヴェは香りで塩を測る。鼻孔でグラム単位の再現性を――」

 語りが加速する。味の話になると、彼はいつも少しだけ早口だ。


「行こうとしてますよね」

 視線が合う。沈黙が“はい”の形をしていた。


「参加しよう」

 短く、清潔な決断。


「はい出たー!」

 リリィの嘆息は、どこか嬉しげだった。


 結局、参加受付所の列に並ぶ二人。

 午前の陽が看板を照らし、紙の端を金色に縁取る。人いきれと油の香りに混じって、緊張の汗の塩気が少しだけ漂う。


 リリィはため息をつきつつも、列の先を観察する。受付の看板には、ざっくりとした規定が並んでいた。

 文字の黒はまだ濃い。今朝刷りなおしたのだろうと彼女は見抜く。


 ・殺傷行為の禁止(気絶・軽傷まで)

 ・武器は単品携行(遠距離兵器・毒・爆発物×)

 ・重装鎧は安全上×(軽装まで)

 ・魔法の使用は“観客を巻き込まない範囲で抑制的に”

 ・食べ歩き入場×(床が汚れます)


「最後の規定、たぶんガルドさんのためにある」

 細い肩がクスクスと揺れる。


「偏見だ。俺は汁物は歩きながら飲まない」

 彼は本気で弁解している。真顔で。


「固形は食べるんだ……」

 呆れの温度は低い。半ば諦め、半ば愛着。


 申込台の係員が顔を上げる。粗忽そうな顔だが、プロの手つきで用紙を押し出した。

 紙が木の机を擦る音が、列の喧噪の中でもはっきり届く。


「お名前と使用武器、所属があればご記入を。二つ名があれば響きの良い方で」

 慣れた口上。何百回と繰り返された流れだ。


「所属なし。名前は――」

 ガルドが筆を取る。指先の節が太い。剣と鍋を握る手だ。


「“黒鎧の騎士”はダメです。目立ちます」

 リリィの制止は素早い。彼の名は、時に余計な風を呼ぶ。


「……“素朴な旅人A”」

 真剣に候補を出してくるのがずるい。


「弱そう! もう少し“庶民的で強そう”なのにしましょう。“市場寄りの剣客”」

「長い」

「“路地裏の二枚刃ツインエッジ”」

「一本だが?」

「ツインの方が強そうじゃないですか」

 やり取りのテンポは、二人にしか作れない拍だ。


 最終的に、ガルドは渋々「旅剣たびけんのガルド」と記入した。

 墨の線が凛としている。筆圧の強さは、迷いのなさ。


 係員が顔を上げ、ガルドの全身を一瞥する。

 視線が胸甲で止まり、即座に規定を指で叩く。


「鎧、重すぎ。規定違反。脱いでね」

 言い切りの歯切れが良い。慣れている。


「装備を外すと……俺はただの人だぞ」

「もともと人です」

「心の支えだ」

「心は私が支えますから。はい、脱ぎ脱ぎ」

 リリィは肩に手を置き、冗談めかして押す。彼は観念したように頷いた。


 渋々、鍛えの入った黒の軽装に着替えるガルド。

 革の匂いが新しい空気に混じる。肩を回す動きは滑らかで、装甲がなくても重心は崩れない。


 大会側から借りた、刃引きされているショートソード一本、革の胸当てと前腕ガード、すっきりとした動きやすい姿――

 鎧の影に隠れていた線の細さと、機能のためだけに削ぎ落とされた質感が露わになる。


 受付の女子が、ペンを落とした。

 カチ、と乾いた音。


「え、ちょっと、普通に……カッコ……」

「聞こえてますよ」

「失礼しました!」

 頬を赤くして慌てふためく様子に、列の何人かがくすりと笑った。


 リリィは腕を組み、ジロリとガルドを眺める。

 視線は半分、警備。半分、純粋な鑑賞。


「……意外。ちゃんと人間だったんですね」

「どういう評価だ」

「むしろ普段からそれでいてください。町中で黒鎧は目立つから」

「では俺の象徴は」

「象徴は胃袋ってことで」

 即答。ガルドは諦めの笑みを口の端にだけ浮かべた。


 その直後、リリィは思い出したようにパチンと指を鳴らす。

 小さな火花のように、思いつきが弾けた。


「私、髪、目立つ。染め粉買います」

「俺の黒髪の話か?」

「私の白髪です。観戦席で“白髪の魔女”が座ってたら台無しです」

「……自分のことを台無しって言うと悲しいが、理屈は正しいな」

 二人は市場の陰へ折れ、小間物屋の軒先へ滑り込む。


 市場裏の小間物屋で、リリィは炭と藍の混ぜ粉を購入。

 店主が量りで粉を測るリズムが、太鼓のように一定だ。


 宿の桶に湯を張り、リリィは自分の長い白髪をまとめて肩まで落とす。

 湯気が頬を赤く染め、まつげに水滴がひとつ光る。


「じゃ、ガルドさん、お願いします」

 背中越しに差し出された信頼は、彼にしか受け止められない重みがある。


「なぜ俺が」

「信頼と実績の巨大な手で…」

「料理人の方が繊細だぞ」

「じゃあ“旅の総料理長の手”で」

「よし、任せろ」

 声が半分だけ誇らしげに色づく。


 器用な指が、髪を梳く。染め粉を少量ずつ湯で溶き、丁寧に馴染ませていく。

 指先の腹が、包帯の端を落とさない癖で、髪の一本も無駄にしない。


「……慣れてます?」

「戦場で包帯や薬草を巻く手は、どうしても繊細になる。髪も似たものだ」

「なんか、今の台詞だけ聞くと、すごく良い人」

「今“だけ”聞く前提はやめろ」

 二人の笑い声が、桶の水面に丸く波紋を作る。


 半刻後、白銀はつやのある煤黒に落ち着いた。

 鏡の中で、少女は少しだけ大人びて見える。藍が光を拾って、瞳の色を深く見せた。


「どうですか?」

「悪くない。……いや、かなり良い」

 褒め言葉は短いが、音に嘘がない。


「へぇ、珍しい。ガルドさんが“かなり良い”とは」

「食前酒級だ」

「例えが腹ペコ」

 軽口が、出発前の緊張をほどく。


 そこへ、宿の廊下から耳慣れた騒ぎが飛び込む。

 木製の掲示板に釘を打つ音、紙がめくれる音。街がいっせいに動く。


「予選トーナメント表、張り出されたってよ!」「“火吹き拳のオズマ”出るらしいぞ!」「“回し蹴りの獅子・ローナ”も!」

 名前が矢のように飛び交う。常連の強者だ。


 ガルドの眉が上がる。

 興味の角度はわずか。だが確かに上がった。


「獅子ローナ……足技主体、軸がぶれないタイプか」

「え、知ってます?」

「評判は聞く。料理取材で」

「なんで格闘家の評判を料理から取ってるんですか」

「彼女が通う食堂の揚げ油が優れていると」

「やっぱり腹ペコぉ」

 リリィは半笑いで肩を落とした。


 翌朝。会場は大通りを封鎖した仮設闘技場。

 砂が薄く撒かれ、観覧席に吊るされた布が朝風で揺れる。祭りの旗はまだ新しく、縁の金糸が日を弾いた。


 大会は一本先取。倒れたら一本、場外も一本、決まり手で一本。

 魔法は牽制程度まで。派手な爆裂は即失格。

 怪我人が出ても医療班が即座に走る――“お祭り”として完璧な安全運営だ。リリィは運営の配置に短く感心した。


 第一試合。

 対戦相手は“槌のポロ”。大槌を持ち、筋肉で押すタイプ。

 肩に走る古傷が、彼の戦いの年輪を物語る。


 審判の手が振り下ろされる。

 空気が一拍止まり、太鼓の皮がまだ鳴らない。


「はじめ!」

 声と同時、ポロが走る。地面がズンと鳴る。


 ガルドは半歩で角度を外し、ショートソードの柄で相手の手首を軽く叩いた。

 狙いは“骨”ではなく“通り道”。力の通る導線を、指先一つで外す。


 カン、と小気味いい音。――その一打だけで、握りが崩れる。

 大槌の重みが一瞬だけ宙に迷い、彼はすかさず顎先へ“コツン”。


 ポロの膝がカクンと折れ、ふらりと倒れ込む。

 砂が薄く舞い、観客が一斉に息を吸った。


「一本!」

「え、今ので!?」観客席から歓声とも悲鳴ともつかぬ声。


 決着が付き、舞台の真ん中から勝者の男が去っていく。


 リリィは頬杖をつきながら呟く。

「……いつもああやって、私の背中側から来る相手の顎も“コツン”ってやってますねぇ」


 舞台から戻ってきたガルドが返事をする。汗はほぼない。呼吸は乱れていない。


「お前を狙うやつらの話は食欲が落ちる」

「食欲、落ちないでしょ」

「落ちない」

 秒で自己否定。二人の間だけで通じる笑いだ。


 第二試合。“紙片レター投げのユナ”。

 薄刃のカードを投げつけ、牽制で間合いを作る技巧派。

 小柄な体に無駄がない。指の節が硬い。


 彼女が手首をひゅっと返すたび、空気が鋭く切れる。

 紙片が光を拾い、刃の面が白く瞬く。


 ガルドは前腕ガードで受け流し、足で紙片を踏んで止め、距離を詰める。

 音を立てない足運び。砂の沈みが均一だ。


 間合いが詰まる直前――ユナの指が袖口に潜った瞬間、ガルドの声が落ちる。

 言葉は合図、音で集中を切る。


「そこだ」

 ヒュ、と紙片が出るより早く、彼の手がそっと“手首を包む”。

 力ではない、角度だ。指の向きが“投げる”から“持つ”に変えられる。


「…………ぇ?」

 世界が一瞬だけ止まる。

 途端、彼女は倒れ伏せた。

「一本」

 審判の旗が上がり、会場がざわめいた。


 観客「なんで!?」「今の何した!?」「優しい――いや怖い!」


 リリィは、こっそりと隣の席のピーナッツをつまんで口に投げつつ、実況みたいに囁く。


「“握らない制圧”。力で押すよりも、スマートに――そのため相手に失礼がない――って、昔言ってました」

 戻ってきたガルドがリリィに聞く。


「そんなこと言ったか?」

「言ってません。今つくりました」

「やめろ」

 リリィは舌を出し、目だけで謝る。


 第三試合。“回し蹴りの獅子・ローナ”。

 金のポニーテールを揺らす長身の女闘士。

 立っただけで場が締まる。足の甲に走る古い擦り傷が、彼女の武器がどこかを教えている。


 礼を交わすとすぐ、踏み込み――風が鳴る。

 腰から鞭のように伸びた回し蹴りが横薙ぎに走る。

 観客席の前列が思わず身を引いた。


 ガルドは低く潜る。刹那、ローナの膝が跳ね上がる――二段。

 そこにショートソードの鞘で“トン”。

 金具の硬い音が膝の反射をずらし、軸が一瞬だけ緩む。


 彼はすかさず肩に軽く体重を乗せ、体勢を崩すだけで“コロン”。

 わずかな接触。大きな結果。


「場外!」

「一本!」

 ローナは砂を払って立ち上がり、悔しそうに歯を見せて笑った。

 戦う者だけが持つ清潔な笑顔だ。


「……強いね。顔もなかなか――カッコいいじゃないか」

 茶化しに見えて、敬意が混じる。


 ガルドは無言で対戦相手に礼をする。

 礼の角度が深い。彼が相手の実力を認めた証だ。


「その無口さ、嫌いじゃない」


 観客席のリリィが小声でブスっとする。彼女の頬がむくれた林檎の色になる。

「…ガルドさん、モテると黙る」


 戻ったガルドが普通の声色で返す。

「…別にモテてはいない」

「……」

 リリィは、「本当か?」という顔をしてガルドをじっと見つめた。

 答えは、いつもの沈黙だった。


 そんなこんなで、ガルドは予選を軽やかに突破。

 手数は少ない、被弾はほぼゼロ、表情はいつになくゆるんでいる――そう、“楽しい”のだ。


 昼休憩。

 出店の裏手、日陰の石段に二人並んで座る。

 人波が少し遠のき、油の匂いが落ち着く。影の涼しさが皮膚に心地よい。


 リリィが屋台から抱えてきた皿を、ドサッと並べる。

 木皿の縁が石段に当たって、コトリと鳴った。


「はい、“出場選手特別メニュー”。炭焼き仔牛、香草の根っこマリネ、巨大串、謎スープ」

「謎スープの“謎”が気になるな」

「店主曰く“企業秘密”。たぶん家系です」

「企業……? 家系……?」

 意味のズレを楽しむ。声が緩む。


 ガルドはスプーンを手に取る前に、まず鼻を寄せる。

 湯気の端を嗅ぎ、器の縁をわずかに回す。香りは上からだけでは測れない。


 ふわりと立つ香り、油の温度、塩の角の取れ具合――ほんの数秒、真剣な目で嗅ぎ、見て、舌に乗せる。

 戦場の読みと同じ集中だ。


「……悪くない。いや、かなり良い。スープは骨が主、香味はネギ属二種と焦がし。塩は岩塩。余熱の管理が巧い」

「審査員!?」

「職業病だ」

「いつからグルメ評論家が職業になったんですか……」

 リリィは肩で笑いながら、串を一口かじる。香ばしさが歯に心地よい。


 彼女は横目でガルドの横顔を見上げる。

 普段の“殺気も圧も装甲も”外した、ただの剣客の顔。

 笑うと、目尻に小さな皺が寄る――それが、妙に安心する。


「ね、ガルドさん」

「なんだ」

「優勝したら……その、豪華フルコース、私にも――」

 言い切る前に、彼の返答は落ち着いていた。


「当然だ。同伴一名と書いてあった」

「やった!」

「ただし条件がある」

「出た」

「魚料理の皮は俺に寄越せ」

「子供の交渉!」

「皮は文化の焦げだ」

「腹ペコちゃん!」

 二人の笑いが、油の匂いを少しだけ甘くする。


 午後の本戦に向けて、会場がまた熱を帯びていく。

 観客のざわめきが遠雷のように続き、太鼓の皮が乾いて張りが増す。


 トーナメント表の中央に、さりげなく“旅剣のガルド”の名前。

 そのすぐ下には“火吹き拳のオズマ”。拳に松脂を擦り込み、摩擦熱で煙を上げる派手好き――しかし規定上、燃やしはしない。煙いだけだ。


 控え区画に向かう途中、リリィが歩きながらふわっと笑う。

 藍黒の髪が日差しで青く揺れた。


「ねえガルドさん。今日、楽しい?」

「……ああ。楽しい」

「良かった。私も、ちょっと楽しいです」

「なら、よし」

 言葉数は少ないのに、満たされる。そんな午後。


 彼らの足音に、祭り太鼓のリズムが重なる。

 血ではなく笑いが、歓声が、彼らの背中を押す。


 ――優勝賞品は胃袋へ。

 いつもは命を賭ける二人が、今日はただ、よく食べ、よく笑い、よく遊ぶ日だ。


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