ノル村編 40.「……その位置、見えてますよ」
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少年は盗賊の一人に腕を掴まれ、ずるずると引きずられていく。
手から滑り落ちた、刃こぼれだらけの斧が地面に落ちて、カランっと乾いた音だけ立てた……。
少しの間だけ、周囲が静まり返った――冷たく深く。
そして、光る粒が撒き散らされている夜空に、爛々と光る星が一つ、二つと流れた。
――そののち、盗賊たちの下品な笑い声が再びこだまする。
そんな時だった。
――遠く、森の木々が、風もないのに揺れた。
ざわ……と草木が鳴り、地面が低く唸ったような感覚。
何かが、こちらに向かってきていた。
人間とは思えない、冷たい殺気。
山の斜面から、黒い影が降りてくる。
それが、“地獄”の始まりだとは、まだ知らなかった。
盗賊たちの焚き火の前、笑い声が響いていた。
「はっは! あのガキども、すぐに泣き出してよ。なんて顔してたか……」
「村からの物資も届いたし、次はどうする? 女はまとめて隣村にでも売るか?」
「次の見せしめには……白い髪の嬢ちゃんだな。ああいう顔の女は、使い道が色々とあるぜ」
下卑た笑いとともに、どす黒い欲望が言葉として吐き出される。
それが、最後の“日常”だった。
――風が、止んだ。
ひゅう、と。何かが風を切る音が一つ。
次の瞬間、見張り台の上にいた斥候の首が、胴から滑り落ちた。
血飛沫も、悲鳴もない。ただ“死”だけが、静かに落ちていた。
「な、なんだ……?」
「見張りの奴が……え、え? 上……?」
慌てて空を見上げた盗賊のひとりが、絶句した。
――黒い影が、降ってきたのだ。
岩肌を蹴り、真上から斬りつけるように。
「……」
黒い鎧の男は、重装の鎧に血を飛ばしながら地面に着地した。
その姿はまるで、夜の帳から生まれた殺戮者のようだった。
「なんだ!? 何者だあいつは――!」
「黒…鎧……!? あいつ、まさか、あの……!?」
動揺が広がった。だが、もう遅かった。
「≪断ち切れ≫」
今度は別の方向――霧の奥から、透明な魔力の波が放たれた。
白い髪を揺らした少女が、手をかざし、詠唱と同時に“杭”を地へと放つ。
突如現れた霧が視界を奪い、足元の罠が軋みを上げて起動する前に、魔法の杭が地面ごと封じていた。
「な、何も見えねぇ――うあっ!?」
霧の中から、一人、また一人と倒れていく。
悲鳴すら許されないほどに速く、確実な一撃。
「う、撃てぇ! クロスボウを使えぇ!」
盗賊の隊長格が叫ぶも、それは虚しい反応だった。
矢が霧の中をすり抜け、どこにも当たらずに消えていく。
「……その位置、見えてますよ」
白髪の少女が小声で囁き、次の瞬間には相手の背後を取っていた。
剣が閃き、音もなく二人が崩れる。
一方、黒鎧の男は正面から突撃していた。
真正面から。包囲の中心を貫くように。
「うおおおっ……!」
叫びながら突っ込んできた斧兵の攻撃を、黒鎧の男は軽く弾いた。
「浅い」
その一言と同時に、ショートソードが喉元を裂いた。
続けざま、二人目が槍を構えて突き出す。
黒鎧の男は体を捻り、槍を避けながら、ツバイヘンダーで肩から胴へと斬り伏せる。
返す刃で三人目の足を断ち、膝をつかせたところへ頭部を一撃。
「な、なにが起きてやがる……あ、あんな奴、聞いてねぇ!」
恐慌状態に陥った盗賊たちは、もはや指揮も統率も失っていた。
「化け物だ……あの二人……!」
「なんで、こんな奴らが……!」
砦は、もはや戦場ではなく、処刑場だった。
◆
僕は、壊れかけた棚の陰で、膝を抱えていた。
暗い。冷たい。臭い。
腐った肉と、獣の毛皮と、人間の汗と、何かが焼け焦げたような匂いが鼻にこびりついて離れない。
さっきから、声がする。
誰かが、叫んでる。女の子の声だ。
ミナの声じゃない。違う誰か。でも、それでも胸が苦しい。
僕は……捕まったんだ。
盗賊のひとりが、僕のすぐ近くで笑っていた。
鼻が潰れたような顔をして、歯が何本か欠けていた。
「こんなガキ捕まえたのか? こんなもん連れてきてどうするんだよ。金になんのかよ」
「いいから黙ってろ。男のガキだろうが、顔がよけりゃ高く売れる」
吐き気がした。心が何度も崩れていった。
情けなくて、悔しくて、怖くて――でも、立てなかった。
そのときだった。
「何だ……?」
誰かが言った。
ドン、と地面が揺れるような音がした。
続けて、壁の向こうから、鈍い衝撃音が何度も響いた。
「なんだあれ……誰か来てんのか?」
ざわつく声。足音。武器を構える音。
「見てこい!」
怒鳴り声。
その直後――
バァンッ!
扉が吹き飛んだ。
何が起きたのか、僕にはわからなかった。
ただ、目の前にいた盗賊が、何かにぶつかって吹き飛んだのは見えた。
鉄の塊のような何かが、暗がりの中から歩いてきた。
最初は人間だとすら思えなかった。
だって、真っ黒な鎧を着て、頭から爪先まで鉄に包まれていたから。
「魔物だ……! 化け物が来たぞ!」
盗賊の誰かが叫んだ。
でも、違った。
その鎧の後ろから、白い髪の、小さな女の人が現れたんだ。
月明かりのような髪。透き通ったような顔。
けれど、その目は冷たく光っていた。
彼女が、何かを呟いた。
「《縛れ》」
その瞬間、盗賊の一人の足元から鎖のような魔法が噴き出し、足を絡めとった。
動けなくなった男に、黒い騎士が近づいた。
ゆっくりと、大きな剣を振り上げて――
ドシャッ。
音だけで、全てが理解できた。
「あいつら、何者だ……!」
盗賊たちが怯えた声を上げた。
黒い騎士――男は無言だった。ただ、確実に、一人ひとりを斬っていった。
太刀筋は重く、速く、止まらない。
やがて、白い髪の少女が霧を呼んだ。
砦の中が、白く霞んでいく。
「《視界を奪って》」
霧の中で、悲鳴がいくつもあがった。
姿が見えない。なのに、声だけが近づいてくる。
まるで、幻のようだった。
霧の向こうで、影が動いた。
剣を振るう音。誰かが倒れる音。重い鎧の足音。
そして……
「……大丈夫か?」
その声は、僕に向けられていた。
気づけば、目の前にいた。
黒鎧の騎士が、僕の目の前にいた。
僕は、声が出せなかった。
ただ、こくりと頷くと、騎士は頷き返し、再び霧の中へと戻っていった。
――何者なんだ、あの人たちは。
――どうして、こんな場所に。
わからない。でも、確かに思った。
「神様、って……いるのかもしれない」
心の底から、そう思った。




