ノル村編 39. 暗闇が、すべてを呑み込んだ。
──それは、次の日のことだった。
村に戻ってからも、僕は何もできなかった。砦で見た現実に、身体の芯まで冷えていた。
けれど、ミナの顔を見たとき、少しだけ救われた気がした。
彼女は、まだ無事だった。
まだ、間に合うかもしれない──そう思った矢先だった。
村の広場に、馬の蹄の音が響いた。
泥だらけの外套を羽織った、十人以上の男たちがやってきた。
一人は、黒い頭巾を被った痩せた男。薄笑いを浮かべ、村人たちを見下ろしている。
もう一人は、口の端に金のリングをつけた無精髭の男。腰にムチのようなものをぶら下げ、手には巻物を持っていた。
他には、身体の大きな禿頭の男。顔には無数の傷があり、口元は裂けたように歪んでいた。背中に大剣を背負い、踏みしめるたびに地面が沈んだ。
村人たちは凍りついたように黙っていた。
その中で、無精髭の男が声を張る。
「おい、ここの村長みたいなやつは、どこだ。今月分の“品物”を受け取りに来たぞ」
誰も動かない。
代わりに、老人が震える声で言った。
「……も、もう、出せるものなんて……ないんです……」
「……へぇ?」
男たちは互いに顔を見合わせ、にやりと笑った。
「じゃあ、こっちで選ばせてもらおうか」
その言葉に、僕は血の気が引いた。
人だ──。
“品物”って、つまり。
その瞬間、黒い頭巾の男が歩き出した。手に持った短剣を指で弄びながら、村人たちの間をゆっくりと歩いていく。
そして──
「おい、お嬢ちゃん。ちょっと来な」
ミナを見つけた。
彼女は、友だちと手を繋いで、遊んでいただけだった。
ミナは後ずさった。けれど、男は構わず手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「や、やめてっ!」
彼女の叫びが、広場に響いた。
僕は走った。
駆け寄ろうとして、誰かに腕を掴まれた。村の男だった。
「ダメだ……! 殺されるぞ……!」
「離してよ! ミナが……っ!」
叫んでも、足がもつれる。声が届かない。
ミナは抵抗し続けていた。足をバタつかせ、叫び続けていた。
「お兄ちゃんっ! たすけ──!」
その口元を、無精髭の男が殴った。
ミナの身体が、ぐにゃりと傾いた。
「やりすぎんなよ。傷がつくと値が下がる」
「わかってるよ。ちょっと静かにさせただけだ」
そのまま、ミナは馬に縛りつけられた。
腕も、足も、口も。
僕の妹が、荷物みたいに扱われている。
盗賊たちは、他にも次々と村娘を攫っていく。
「ま、今月はこれでチャラってことで」
盗賊たちは笑いながら馬に跨がり、そのまま去っていった。
誰も、動けなかった。
誰も、声を上げなかった。
僕だけが、膝をついて、震える拳を地面に叩きつけていた。
声にならない悲鳴が、喉に詰まって出てこなかった。
ミナは、僕の目の前で、連れ去られた。
妹の涙は、地面に落ちて、僕の胸の奥に焼きついている。
その日の夕暮れ、僕は決めていた。
このままじゃ、ミナが___
誰も、もう助けてくれない。
なら――僕が行くしかない。
父も、母も、亡くなった。
残されたのは、妹と僕のふたりだけ。
薪を割る父の姿を思い出す。
僕は家の裏に隠してあった斧を握っていた。
柄は短くて、刃こぼれもあるけれど、不思議と丈夫そうに見えた__触るとき父さんの大きな手が頭をよぎった________
これしかない。
ミナが編んでくれた手袋を懐にしまい、僕は村を出た。
「……戻ったら、必ず約束の実を採りに行こう。森でな」
小さく呟いて、道なき山中を登り始めた。
再び向かった、盗賊の砦。
子供の足では一日かかる道のり。水も食料もろくに持たず、ただ斧一本だけを頼りに進んだ。
途中で転び、膝を擦りむいた。
野犬の群れに遭遇しかけ、必死で木に登ってやり過ごした。
靴が泥に沈んで、足を取られた。
でも、それでも、引き返すことはなかった。
気がつけば、空が濃紺に染まり、星がひとつまたたいていた。
そのときだった。
遠く、崖の向こうに光が揺れていた。
松明だ。人の気配。あそこだ――盗賊たちの砦。
そして、その先にミナの未来を奪う存在がいる。
僕は息を殺し、地を這うようにして岩陰へと近づいていった。
砦は最初の記憶よりも整備されていた。
丸太の柵、吊り橋、そして洞窟を利用した見張り台。
奥には焚き火が焚かれ、何人もの男たちが酒を飲んでいた。
その周囲には、囚われた村娘たちが、壊れかけの小屋のようなものの中にいた。
壊れた隙間から見える位置に、女の子がひとり、膝を抱えて座っていた。
ミナじゃない。けれど、あの子も――。
目の前の現実に、言葉を失った。
僕の斧を持つ手が震えた。
こんな奴らと戦って、勝てるのか?
大人の男たちが束になって、誰ひとり帰ってこなかった場所だ。
自分が足を踏み入れた瞬間、終わるかもしれない。
胸が潰れそうだった。
腰を抜かしたまま、僕は涙をこらえきれなかった。
悔しさと恐怖と、自分の無力さに打ちのめされて、声も出なかった。
「なんで、僕なんかが……!」
でも、引き返すこともできなかった。
妹の笑顔が、胸に刺さるように浮かんでいた。
その瞬間だった。背後で、何かが風を裂く音がした。
「――ッ!」
振り返るより早く、何か硬いものが後頭部に叩きつけられた。
世界がぐにゃりと歪んだ。
視界の端で、誰かが笑った気がした。口元だけがにやりと歪んでいて、目は笑っていない。
「ガキがうろついてんじゃねぇよ」
掠れた声が、遠くで鳴っていた。
地面が近づく。土の匂いが鼻を刺した。
妹の名前を叫ぼうとしたが、声にならなかった。
暗闇が、すべてを呑み込んだ。




