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ノル村編 38. そして、僕は。

  翌日。


 僕が井戸のそばで水を汲んでいると、村の広場に人が集まり始めた。


 女たちが子供を抱え、家々の中へと押し込むように姿を消していく。


 男たちは口を噤み、ただ奥の集会所へ向かっていく。


 「まただ」


 誰かが、小さくつぶやいた。


 「今月も、来たんだ」


 僕は、何も考えられないまま、バケツの水をこぼした。


 ──そして、あの夜。


 広場に灯る明かりが、月の光に霞んでゆらめいていた。


 僕は、ただ息を潜め、耳を澄ませていた。


 ――何かが、壊れていく音がした。


 妹が、いなくなるかもしれない。


 そう思ったのは、村の広場で妙な集まりが開かれた、あの晩だった。


 日が落ちると、村は闇に沈む。油の残り香を漂わせるランプと、星明かりだけが頼りだ。村の男たちが、集会所の奥でひそひそと話をしていた。


 僕はまだ十三。子ども扱いされる年頃だが、それでも聞き耳を立てるくらいの知恵はあった。


 「……また来たらしいぞ。今月も、“品物”を寄こせってよ」


 「前の月は作物を渡した。先月は牛と馬……。もう出せるものなんか残ってねえよ」


 「だから、今度は、“人”なんだとよ……。歳の若いやつを、って……」


 ミナ。


 僕の妹。まだ十一歳。明るくて、気の強い子だけど――あの連中の手に渡るなんて、想像するのも恐ろしい。


 声を殺して集会所を離れたあと、僕は膝を抱えて震えた。怒りなのか、不安なのか。どちらともつかない感情が、腹の奥で膨れ上がっていく。


 その夜は眠れなかった。


 家に戻ると、ミナは寝息を立てていた。白くて長い髪をなだらかに垂らして、安らかな顔で眠っていた。


 「大丈夫……何とかするよ」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


 誰に、何をすればいいのか分からないまま。


 翌朝、村の様子はどこか浮ついていた。


 朝から何人かの男が、納屋から武具を引っ張り出している。使い込んだ斧や、錆びついた剣。布の防具に、革の胸当て。狩りの時にしか使わない道具を手入れしていた。


 「無駄だよ……」


 そう口にしたのは、村で唯一“冒険者”と呼ばれていたラグという男だった。三十を越えているらしいが、いつも酔っていて、剣より口の方が軽い。


 「盗賊の砦だぞ? あそこには三十人以上いるって話だ。罠もあるし、待ち伏せもされる。村の素人が束になったところで、勝てる相手じゃねえよ」


 でも、誰もやめようとはしなかった。


 妻が、娘が、姉が、妹が、幼馴染が奪われる。


 そう思えば、男たちは剣を握るしかないのだ。


 ミナには黙っていた。


 「ねぇ、お兄ちゃん。明日、森で一緒に木の実採れる?」


 「……うん。いいよ」


 笑顔で答えたけれど、胸の奥が痛かった。明日も、あさっても、あの笑顔を見たい。でも、それは誰かが戦わなきゃ守れない。


 その夜、男たちは最後の打ち合わせのために再び集まった。


 討伐に行くのは二十一人。若者八人、中年が十二人、そして最後にはラグも加わった。酔いを覚ました顔は、普段より険しく、剣を研ぐ音が夜気に響いていた。


 「戻ってこられないかもしれない」


 「それでも……誰かが行かなきゃ」


 ミナを含む村の若い女の子たちは、集会所に避難させた。女たちは泣き、子どもたちは事態を理解しきれず怯えていた。


 僕は、ついていけなかった。


 「ダメだ、子どもは足手まといだ」


 「家にいろ。妹を守ってろ」


 そう言われて、追い返された。


 そして――


 その夜、誰一人、戻ってこなかった。


 ――誰も、戻ってこなかった。


 夜が明けても、村の広場は静まり返っていた。


 討伐に向かった男たち、二十一人。朝になっても、その姿はどこにもなかった。様子を見に行こうとする者もいたけど――


 「……戻ってこないなら、もう……」


 そう言って、顔を伏せるだけだった。


 悲鳴も届かなかった。矢も、剣の音も、僕らの耳には何一つ届かなかった。まるで、最初からいなかったみたいに、二十一人の気配だけが抜け落ちた。


 ミナは、何も知らずに朝の光を浴びていた。


 「お兄ちゃん、お花摘んできたよ。はいっ」


 無邪気に差し出された花を受け取りながら、僕は笑えなかった。


 この手は、あと何日、妹のぬくもりに触れられるんだろう。


 それから、村は“見て見ぬふり”を始めた。


 討伐隊が全滅したと悟ったあとは、もう誰も何も言わなかった。


 怖いんだ。


 自分が、次に狙われるかもしれないって。


 そうして、次の“月”が近づいてくる。


 ある晩、僕は納屋に忍び込んで、隅に閉まってあった古い小剣を引っ張り出した。


 錆びていたけど、それでも持たずにはいられなかった。


 誰も、行かないなら。


 誰も、妹を守れないなら――


 僕が、行く。


 砦までは、夜の山道を通って三時間ほどだった。


 道中は獣道のように荒れていて、足を取られる。靴が泥に沈み、木の枝が顔を叩いた。けれど、戻るわけにはいかなかった。


 月の光を頼りに、僕は歩いた。


 暗くて、寒くて、怖かった。けれど、それよりももっと、怖いものが村にいた。


 盗賊たちが、妹を奪いにくる。


 その未来が、何より恐ろしかった。


 砦が見えたのは、山道を抜けた先だった。


 崖の上に組まれた粗雑な石造りの構造物。とはいえ、見張りの松明は絶えず灯り、壁のあちこちに鉄柵や釘つきの板が打たれている。


 門は閉じられ、近づけばすぐに見張りに気づかれる。


 でも、夜は風が強く、物音をかき消してくれていた。


 僕は小さな抜け道――斜面の下の獣穴のような裂け目を見つけ、そこから体を滑り込ませた。


 砦の裏手に続く、捨てられたような荷倉の下。


 埃と藁の匂い。小動物の死骸もあったけど、我慢して潜った。


 心臓がうるさくて、見張りに聞こえてしまいそうだった。


 内部は、地獄だった。


 物陰に潜みながら、盗賊たちの会話が耳に入る。


 「村のやつら、ビビってんかなぁ」


 「そりゃそうだ。この前の二十一人、首だけにしてやったんだ。そいつを見せれば腰抜け共、黙って娘たちを差し出してくるって」


 「今度のはまだ小さいんだろ? 育てがいがあるな、へへへ」


 ――吐き気がした。


 「逃げ出さないように、早めに“印”つけとけよ。顔じゃ目立つから、太ももにでも入れときゃいい」


 「あと、他の見せしめも決めとかねえとな。あいつら、最初は騒ぐけど、何人か潰せば黙るからよ」


 笑っていた。


 人の命を、玩具みたいに。


 幼い村娘たちのことを――下種に笑いながら話していた。


 手が震えた。口の中が苦くなって、喉が詰まりそうだった。


 剣なんて握れない。力も、勇気も、何ひとつ足りない。


 僕はただ、物陰で膝を抱え、涙をこらえていた。


 どうして、こんなことに。


 ラグさんも、討伐に行った男たちも――皆。


 誰も戻ってこなかったのは、こういうことだったんだ。


 こいつらは、ただの盗賊じゃない。


 狂ってる。


 そして、僕は。


 あまりに、無力だった。


 僕は古い小剣を放り投げて、逃げ帰った。

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