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ノル村編 37. 僕の心臓は、ずっとドクドクとうるさかった。

朝――


 空が白み始めたころ、僕はいつものように、鶏の声で目を覚ました。けれど今日は違った。倉庫に吊るした干し肉が荒らされ、__いつもお世話になっている__隣のおばさんが唇を噛んでいた。


 「また……持ってかれたね……」


 隣のおばさんの声は小さかったけど、悔しさがにじんでいた。誰がやったのかなんて、分かりきってる。ここ数ヶ月、村の食糧が“勝手に”減ることが当たり前になっていた。畑の作物、家畜、塩や干し肉――夜中に何者かがやってきて、勝手に持っていく。


 誰も、止められなかった。


 止めれば、殴られるからだ。


 「ああ? 食ってやってんだから、文句言うなよ」


 「口答えすんのか? 偉くなったなぁ、村の分際で」


 あの、歯が黄色く染まった口で笑いながら、村の男の腕をへし折ったのは、もう三度も前のことだった。背の高い、皮鎧を着た奴。その隣で、目つきの悪い別の男が、女の人の頬を叩いて、壺の中の穀物を全部蹴り飛ばした。


 「こんなもんで足りると思ってんのか?」


 「うちの“お頭”は、機嫌が悪ぃんだよ。分かるよなぁ?」


 わかるわけがない。


 だけど、誰も逆らえなかった。逆らえば、村が焼かれる。そう言われた。


 僕も、何もできなかった。


 遠くから、ただ見てるだけだった。じっと、握りこぶしを震わせながら。


 ミナも見ていた。隣のおばさんの背に隠れて、じっと、睨むように。


 「ねぇ、あいつら……いつまで来るの?」


 「……わからない」


 そう答えるしかなかった。


 「ねぇ、お兄ちゃん。あいつら、なんで偉そうにしてるの?」


 「……強いから」


 「強かったら、何してもいいの?」


 そのとき、僕は黙ってしまった。何かを言い返したかった。でも、言えなかった。


 次に盗賊たちが来たのは、月の真ん中の日だった。


 今度は三人だった。全員、弓を背負い、短剣を腰にさしていた。村に来るやいなや、わらぶき屋根の家に蹴り込んで、怒鳴った。


 「どこだ、今月の品は!」


 「出せって言ったろ。“出さねえ”ってことはねえよなァ?」


 泣き叫ぶ声が聞こえた。


 誰かの母さんが、物置の影で押し倒されてた。年老いた男が止めに入って、腹を蹴られて倒れていた。


 その場にいた大人たちは、みんな顔を伏せていた。


 誰も目を合わせなかった。


 僕も、また――何もできなかった。


 家の影で、膝を抱えながら、ひたすら歯を食いしばった。


 そしてその夜――村の広場で、集まりが開かれた。


その日、僕とミナは、森の手前の小道にいた。


 バケツをぶら下げて、木の実を採りに来たのだ。今の季節は、小粒の赤い実がたくさん実る。おばさんがよく、ジャムにしてくれる。


 ミナはぴょんぴょんと跳ねながら枝を揺らし、落ちてきた実を上手に拾っていく。


 「ねぇ、見て見て! こんなにとれたよ!」


 「すごいな。オレより早いじゃん」


 「ふふーん。だって、ミナは“ちいさな魔女”なんだから」


 笑いながら、誇らしげに胸を張る。魔女の帽子を真似た布を自分で縫って、いつもかぶってる。とても似合っていた。


 ――こんな時間が、ずっと続けばいいのに。


 僕はそう思いながら、足元の葉を払い、熟した実を手に取る。


 そのとき。


 ――ミシッ。


 遠くの茂みで、木の枝が折れる音がした。


 ふたりとも、ぴたりと動きを止めた。


 「……リスかな?」


 ミナが小さく呟く。


 でも、その音は――重かった。獣のような、軽い駆け足の音ではなかった。


 もっと……人の、重たい足音。何かを引きずるような。


 僕は手を振って、ミナを後ろに下がらせた。


 「いいか、ミナ。バケツは置いて、村に戻るんだ。ゆっくり、音を立てないように……」


 「……お兄ちゃんは?」


 「いいから。すぐ追いかける」


 ミナは躊躇したけど、僕の顔を見て、うなずいた。そして、草を踏まないように静かに歩き始めた。


 茂みの奥から、姿が現れたのは――


 盗賊の連中の一人だった。


 前に、牛を連れて行った盗賊の一人。灰色のボロマントに、だらしなく垂れた目つき。顎に生えかけの髭。腰には鉤爪のような短剣。


 男はこちらに気づくと、にやりと笑った。


 「おうおう。なんだ? ガキがこんなとこで遊んでんのか」


 「……何の用ですか。ここは、村の森です」


 僕の声は、思ったより震えていた。でも、逃げなかった。


 「へぇ……勇ましいなあ」


 男は、ゆっくりと近づいてくる。手を伸ばせば届く距離。目が笑っていなかった。


 「さっきな、見かけたんだよ。小さい白い髪の子。あれ、お前の妹か?」


 その瞬間、喉の奥がカッと熱くなった。


 「……関係ないだろ」


 「ふーん……まあな。でも、ああいうの、うちのお頭が好きでさぁ。牙のないうちに仕込むのが“コツ”らしいぜ」


 笑った。まるで、気に入った冗談を思い出したかのように。


 僕の手が勝手に動いた。拾った石を、力いっぱい、投げつけていた。


 石は男の肩に当たり、軽く跳ねて地面に落ちた。


 男の顔から、笑みが消えた。


 「……あァ?」


 乾いた声。


 次の瞬間、襟を掴まれて、地面に叩きつけられた。


 視界がぐるりと回り、脳が揺れる。頬に何かが張りついた。血の味がした。


 「このガキ……! “ご挨拶”が足りねぇみてぇだな」


 足蹴りが飛んでくる。


 腹に、肩に、背中に。


 声を出す暇もなかった。ただ、土を噛みながら、必死でミナが逃げてることを祈った。


 ――どれくらい経っただろう。


 男はようやく蹴るのをやめ、唾を吐いて、吐き捨てるように言った。


 「今度の“品物”、たのしみにしてるぜ。じゃあな、“兄ちゃん”」


 そして、笑いながら森に戻っていった。


 僕は、泥の上にうずくまったまま、動けなかった。


 「お兄ちゃんっ!」


 遠くから、ミナの声が聞こえた。


 草をかき分けて走ってくる音。僕は起き上がろうとしたけど、体がうまく動かなかった。脇腹に鈍い痛みが走り、腕には土と血がこびりついている。


 「だ、大丈夫……ミナ、戻ったんじゃ……」


 「こっそり戻ったの。だって、お兄ちゃん全然来ないんだもん!」


 ミナは泣きそうな顔で僕のそばにしゃがみ込み、泥だらけの袖で僕の顔を拭いた。乱暴な手つきだけど、あたたかかった。


 「痛いの……どこ……?」


 「平気、平気。ちょっと転んだだけ……だから」


 そう言いながら、必死に笑った。だけど、ミナの手は震えていて、僕の嘘なんて、とっくに見抜いていた。


 家に戻ると、おばさんが血相を変えて僕を抱きしめた。


 「なにがあったの!?」


 「……転んだだけだよ」


 「そんなわけあるもんか! この痣……この足……!」


 怒鳴りたい気持ちを、おばさんはぐっと飲み込んだ。そして静かに、ただ僕の髪を撫で続けた。


 「もう……行っちゃだめよ。森にも、村の外にも……。今は、誰が、何に狙われるか……わからないんだから」


 その言葉は、まるで呪いのように重かった。


 それから数日、村にはいつもと違う空気が流れていた。


 誰も、盗賊の話を口にしない。


 けれど、誰もが気づいている。


 もう、物だけじゃすまない。


 あの男の言葉が、脳裏にこびりついて離れなかった。


 ――“あれ、お前の妹か?”


 夜、僕は眠れなかった。


 ミナは隣で眠っている。胸に母が作った木の人形を抱いて。


 すやすやとした寝息を聞きながら、僕は、ひとり天井を見つめていた。


 盗賊の連中が、この妹を奪おうとしている。


 今すぐにでも、扉を蹴破ってくるんじゃないか。


 僕の心臓は、ずっとドクドクとうるさかった。

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