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ノル村編 36.――だからこそ、守らなきゃいけない――

 僕は、見てしまった。


 麦畑の向こうにある坂道。朝露の残る石畳を、馬に乗った男たちが進んでくるのを。濁った鎧に、血のような赤い布。背中には剣や斧。顔は笑っていなかったけど、その下の目が――いやらしく光っていた。


 「……また来た」


 僕は身を低くして、畑の縁に身を隠した。馬の蹄が地面を叩く音が、地鳴りみたいに響く。背中が冷たくなる。汗じゃない。これは、恐怖ってやつだ。


 こいつらは、“山の上の盗賊団”だ。名前なんてない。あっても、口に出すのも憚られる。あいつらは月に一度、村に来る。そして何かを奪っていく。作物。家畜。道具。金。女。誰にも逆らわせない。逆らえば、殺される。


 前に一度、誰かが逆らった。腕のいい大工のイノさんだ。


 「あんたらにやるもんは何もねぇ!」


 そう怒鳴った翌日、イノさんは井戸に沈められた。口に詰められたのは、自分が作った木槌だった。死体は翌朝、村の子どもたちが見つけた。誰もが黙った。あれから、誰も逆らわない。


 ――でも、皆んなの憤りが消えたわけじゃない。


 僕は、目つきの悪い盗賊を思い出す。


 あいつが、あいつらが汚い目でミナをじろりと見ていたことを……。


 村に着いた盗賊たちは、勝手に馬を広場の水場につなぎ、井戸を占拠する。荷馬車を引いていたのは、村の外から連れてきた商人のふりをした連中。品物と称して、盗んだ物を売っている。取り締まる者はいない。誰も、ここにはいない。


 「オイ、爺ぃ! 水が汚いぞ。どういう管理してんだ」


 盗賊のひとりが、村の長老に水桶を投げつける。木の桶が音を立てて弾け飛び、老人は膝をついた。それでも、誰も助けに行けない。女たちは顔を伏せ、男たちは目を逸らす。


 「それで、今月の“取引”はどうなってんだ?」


 盗賊の頭らしい大男が、嘲るように言った。腹が突き出た中年で、左目が潰れている。村で唯一、盗賊と交渉できる人間――村長の代わりに立った老人が震えながら帳面を持ってくる。


 「き、今月は、こ、こちらで……用意した品が……」


 「足りねぇって言ってんだよ。豚二頭と干し草? こちとら山の上に何十人もいんだ。これじゃ足りねぇなァ……」


 その瞬間、片目の大男は後ろに立っていた若者の襟首を掴み、地面に叩きつけた。男は血を吐き、歯を折った。


 「見せしめってやつだ。分かるか?」


 何も言えなかった。見ていた僕の足は、釘で打たれたように動かない。


 「次は、“品物”に女を混ぜろ。年若いのが好みだ。ほら、あの家にいた白い髪のガキ……なんて名前だったか?」


 心臓が凍った。


 ――ミナだ。


 それからの数分は、何をしていたか覚えていない。ただ、必死に走った気がする。走って、森の中の古びた小屋に逃げて、膝を抱えて震えていた。


 あの目だ。


 イメージの中の片目の大男の目が、ミナを舐めるように見た、あの目が、頭から離れない。


 叫び出しそうになって、口を押さえた。泣きたかった。怒鳴りたかった。でも、俺にはなにもできない。子どもだから? 腕力がないから? 違う。怖いからだ。


 僕は、怖かった。


 大人たちが、盗賊に頭を下げ、震えて、差し出すのを見た。逆らえば、井戸に沈む。それが、この村の“決まり”だった。


 僕も、そうなるのか?


 いやだ。


 ミナが、奪われるくらいなら――


 けれど、何もできなかった。


 ただ、泣いた。


 声を殺して、朝が来るまで。


どれだけの時間、そうしていたんだろう。


 森の小屋の床は冷たくて、木の隙間から入る風が頬をなでた。服の裾が濡れていた。膝を抱えて、顔をうずめて、声を殺して泣いて――それでも、何も変わらなかった。


 風の音。夜鳥の鳴き声。ときおり、どこかで何かが踏みしめる音。全部が恐ろしく聞こえた。


 でも、ミナは……。


 ミナは家にひとりでいる。母さんは数年前に病で亡くなって、父さんもその後、獣に殺された。僕が、僕だけが、あの子を守らなきゃいけないのに。


 守れてない。


 あいつらの、あの片目の大男の、舐めるような目つきが頭から離れなかった。指を噛んで、無理に忘れようとした。でも、忘れられるはずもなかった。


 ……帰らなきゃ。


 ミナの顔を見なきゃ。今この瞬間、無事かどうか……それだけを確かめなきゃ、眠れそうになかった。


 僕は、小屋を出た。夜の森は寒くて、恐ろしかった。けれど、それでも家までの道は覚えている。小枝が服に引っかかるたびにびくびくしながら、それでも足は止まらなかった。


 やがて村が見えてくる。静まり返っていて、人の気配はない。


 盗賊たちはもう引き上げたんだろうか。


 ……そんなこと、どうでもよかった。今はただ、ミナが、家にいてくれればそれでいい。


 扉を開けると、懐かしい木の匂いがした。僕たち兄妹だけの、小さな家。


 ランプの火はすでに消えていたけれど、窓から差し込む月明かりで、室内の様子がぼんやりと見える。


 寝台の上、毛布にくるまって、小さな背中が揺れていた。


 ミナだった。


 木彫りの人形を胸に抱いたまま、すやすやと寝息を立てていた。母さんが最後に作ってくれた、あの人形だ。髪の色も、表情も、ミナに似せて作られている。


 その横顔を見て、僕は息を詰めた。


 あの目に、この子が見られるなんて、絶対に耐えられない。


 なのに、僕は。


 「……ごめん、ミナ……」


 情けない声が漏れた。


 小さく膝をつき、ミナの頭のそばに手を置く。汗で濡れた髪が、柔らかく指に絡んだ。


 「大丈夫……。何とかするよ」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


 でも、本当は、どうすればいいかなんて分からなかった。


 盗賊たちを倒せる力も、金もない。武器の使い方すら、ろくに知らない。ただ、怒りと恐怖で、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるばかりだった。


 僕が強ければ。


 僕が大人だったら。


 ……でも、今はまだ、十三の“子ども”だ。


 僕は手を握りしめた。


 朝が来たら、何かが変わるかもしれない。いや、変わらなければ、変えなきゃいけない。こんなのおかしい。こんな世界は、まちがってる。


 ミナの寝顔は、どこまでも安らかだった。


 ――だからこそ、守らなきゃいけない――

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