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ノル村編 35. 霧夜に沈む砦

 昼を過ぎ、道は山の尾根を回り込むように続いていた。

 草がまばらに生える斜面の向こう、開けた谷間の中央に、ぽつんと人影が見える。

 道の脇、風に揺れる背の高い草の間まで、かすかに人の呻き声が漏れ聞こえていた。


 ガルドが足を止める。視線は谷間の中央に向けられたまま、一歩も動かない。


 「……誰か、います」


 リリィもすぐに気づき、ガルドの隣に並んだ。


 彼女が掌をかざすと、淡く輝く探知の魔法陣が展開され、草むらの向こうの谷間――わずかに動く魔力の波が現れる。


 「傷ついてる……生きてはいますが、弱っています。……あえて見える場所に倒れている」


 「おびき寄せる餌だな。……周囲に気を配れ」


 ガルドは草をかき分けて前に出る。谷間まで進んだ先には、まだ若い村人風の男が倒れていた。服は破れ、肩口に矢が深々と刺さっている。血は乾き始めていたが、意識はあるようで、ガルドの姿におびえたような目を向けた。


 「た、たすけて……! 襲われて、まだ近くに野党が……!」


 「話は後だ。――リリィ」


 「はい」


 リリィが膝をついて、男の傷を確認する。矢は獣用のクロスボウによるものだ。毒こそ塗られていないが、狙いは急所。村人がかろうじて生きているのは、運が良かったからにすぎない。


 「≪癒せ≫」


 短く詠唱を唱えると、魔力が淡い光となって流れ出し、男の傷に触れた。矢を抜いた直後から、肉が繋がり、血の流れが静まっていく。


 「痛いのは……もう少しだけ、我慢してください」


 そう言う彼女の手つきは、丁寧で、静かだった。治癒に集中するその姿は、まるで祈るようにも見えた。


 「……ガルドさん」


 リリィが顔を上げ、かすかに首を振った。


 「まわりに、います。――隠れて、こちらを窺ってる」


 「数は?」


 「四……いえ、五。全部、クロスボウを持ってます」


 「隙を見て、撃つつもりだな」


 ガルドは静かに剣を抜いた。背中から引き抜かれるツバイヘンダーの金属音が、草の波に響く。


 「リリィ。火の玉を上に撃て。目くらましになる」


 「了解です。――≪照らせ≫」


 詠唱とともに、まばゆい閃光が空へと放たれた。その瞬間、草陰から弦の鳴る音――矢が数本、リリィのいた場所へと飛んできたが、すでに彼女の姿はそこにはない。


 「ったく、術者かよ!」


 「こっちに来るぞッ!」


 男たちが草むらから現れた瞬間、ガルドのツバイヘンダーが地を薙いだ。一本の刃が、最前列の野盗を真横から斬り裂く。


 「ぐッ……ぉ、おまえ、騎士か……」


 「いや、ただの旅人だ」


 すでに体勢を崩していた二人目の野盗の胸に、ガルドはショートソードを突き立てる。男の体が硬直し、がくりと地面に崩れ落ちた。


 後方のふたりがクロスボウを構え、引き金に指をかけた。


 その背後――


 《≪縛れ≫》


 リリィの詠唱とともに、地面から魔力の鎖が飛び出し、ふたりの腕を拘束した。クロスボウが落ち、草に埋もれる。


 「……動けません、ね」


 「魔法、反則じゃねぇか……っ!」


 「あなたたち、村人を囮に使ってましたね。……殺されても文句は言えないことをしてるんですよ」


 リリィの声は静かだったが、その目には怒りが宿っていた。


 ガルドはゆっくりと近づき、抵抗できなくなった最後の男の喉元に剣を突きつけた。


 「誰の指示だ」


 ガルドが淡々と問いかける。


 矢傷の残る野盗は、血まみれの地面に顔を押しつけながら、震える声で答えた。


 「た、頼まれたわけじゃねぇ……! 俺たちは“この前潰された盗賊団”の残りだ。幹部連中が潰されて、逃げた仲間と合流するまでの間、村人を捕まえて食いつないでただけなんだ……ッ!」


 「……あの盗賊団か。聞いたことがあるな」


 リリィが小さくつぶやいた。


 「前に通った村でも、噂になっていました。追われてる盗賊団の残党……」


 「ふん、なら――なおさら、生かしておく理由はない」


 ガルドのツバイヘンダーが、淡々と振り下ろされた。


 短い悲鳴とともに、場に静寂が戻る。


 野盗たちは全滅した。草のざわめきと、血の匂いだけがその場に残る。


 「……大丈夫ですか?」


 リリィが、血に濡れた手を軽く拭いながら、治療を終えた村人に優しく声をかけた。魔力の余波がまだ空気に残るなか、彼女の声だけが穏やかに響く。


 男は地面に横たわったまま、わずかに瞼を動かした。荒い呼吸と共に、震える手で自らの腹を押さえる。そこには応急処置の包帯が巻かれており、血は止まりつつあった。


 「助けて、くれて……ありがとう。あいつらに殺されるところだった……」


 彼の声はかすれていたが、確かな感謝がにじんでいた。焦点の合わない目で、リリィとガルドの姿を何度も確かめるように見上げる。


 「もう安心して。動けそうですか?」


 リリィの手は軽く、しかし確かな温もりを持って男の肩に触れる。彼女の瞳には、戦いの疲れとは別の、ひたむきな優しさが灯っていた。


 「た、多分……ゆっくりなら……」


 男は苦しげに身を起こす。骨ばった指先で地面を探り、体を支えようとしたが、ガルドが無言のまま片腕を差し出し、それを支えた。


 「この辺りには、村はありますか?」


 リリィの問いに、男は息を整えながら答える。


 「ある。すぐ南に“ノル村”ってとこが……でも、そこも怪しい噂ばっかりで……」


 言葉を続けようとしたところで、ガルドが短く言った。


 「話はそこで。詳しくは村に着いてからだ」


 余計な言葉を必要としないガルドの声音には、冷静な決意があった。


 ガルドが男の腕を取り、しっかりと支えながら立ち上がらせる。男の足取りはまだ頼りなかったが、背中を預けられるほどの信頼がそこに生まれていた。


 リリィは黙って背に回り、男の傷跡が露わにならぬよう、そっと布をかけた。その布は旅の途中で拾ったもので、少しほつれていたが、包まれた者に小さな安心を与えるだけの柔らかさがあった。


 空にはまだ、煙の名残が漂っていた。けれどその下で、小さな命が繋がれていた。


 「村の名前、覚えておきます。……行きましょう、ガルドさん」


 ふたりは歩き出した。


 次に向かう先には、新たな腐敗と、敵との戦いが待っている。

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