商会都市編 28.「……騎士は、休む暇もないですね」
陽が傾きかけ、広場の喧騒がほんのわずか落ち着き始めた頃だった。
ガルドがページをめくる手を止める。
「……山猫と王子が、ようやく一緒に歩き出したところだ」
「続きは、また夜に聞きます。……楽しみにしてますね」
リリィは目を細めて言い、手元のカップに口をつけた。冷めかけたハーブ茶がわずかに苦い。
そんな穏やかな空気を裂くように、通りを駆け抜ける足音が響いた。
「どいてくれ! 誰か、医者は……っ!」
血まみれの布を抱えた男が長椅子の前を通り過ぎていく。腕に抱かれているのは、小さな子どもの身体だった。
リリィの笑顔が消える。
「ガルドさん……」
「行くぞ」
ガルドは即座に立ち上がり、剣に手をかけて歩き出す。通りにはざわめきが広がり、人々が騒ぎの中心を追い始めていた。
男が向かったのは、通りの奥、街医者が診療所を構える細い路地の入口だった。
細い路地にある診療所は、年代物の木造家屋で、窓辺には干された薬草が風に揺れていた。だが今、その前には異様な緊迫感が漂っていた。
小さな木製の担架の上には、まだ五歳ほどに見える子どもが横たわっていた。身体は細く、顔色は青白く、口元には黒ずんだ泡がわずかに残っている。
診療所の医者――老年の男性が額に汗を浮かべながら、瓶に入った薬草の粉を潰している。
「手を出すな、どの薬草が呪いに反応するか分からん……!」
助手と思しき若者が戸口に控え、祈るように立ち尽くしていた。
子どもの父親らしき男は、担架の脇で膝をついている。彼の手は震え、かきむしった額には血が滲んでいた。
「頼む……頼むよ……この子は――仲良く兄弟と遊んでただけなんだ。あんなとこに行くなんて……!」
周囲には近所の者たちが集まり、恐る恐る様子を見守っていた。
「呪いって言ってたよな……誰かにかけられたのか?」
「違ぇよ、あそこだ。……の……まだ何か、あるんじゃねぇか」
「一日前に騎士と魔女が暴れたって話だろ? 終わったんじゃなかったのかよ……」
人々の声は囁きから不安へと変わっていく。
リリィは静かに子どもに近づき、じっとその顔を見つめた。瞳には恐怖ではなく、哀しみに似た感情が滲んでいた。
「……魔力の流れが乱れてる。自然な呪いの伝播じゃありません。誰かが“仕込んだ”ものです」
「仕込んだだと……? おい、あの倉庫には近づかねぇよう言ってたはずだ!」
「この子は、ただ遊んでただけなんだよ……!」
叫び声と嘆きが交差するなか、ガルドが無言で担架のそばに立った。黒鉄の鎧が沈黙を連れてくる。ガルドが傍の医者に聞く。
「あんた、この子は治りそうか?」
診療所の前で膝をついた医者が、首を振って呟いた。
「こいつの体の中で、魔素が暴れてる。普通の瘴気じゃねえ。……呪具の類いに触れたんじゃねえか?」
小さな担架の上で、子どもはか細い呼吸を繰り返していた。頬は青白く、唇は紫がかっている。脈は浅く、全身がわずかに痙攣していた。
「こりゃ……普通の薬じゃどうにもならん。魔素が臓腑に絡んでる。高価な秘薬か、あるいは……」
老医師が顔を歪め、苦々しく唾を吐き捨てた。
「放っておいたら……この子、夜まで持たねえかもしれねえ」
リリィが一歩前に出た。
「……見せてください。私、できるかもしれません」
医師は驚いた顔をしたが、その眼差しに迷いはなかった。彼はすっと退き、担架の脇を空けた。
「……やるなら急げ。魔素が心臓に入り始めてる」
リリィはうなずくと、膝をつき、子どもの額にそっと手を添えた。瞳を閉じ、呼吸を整える。
「≪流れを戻せ≫」
呟きと同時に、リリィの掌から淡い光が広がった。指先から、緑と青の揺らめく魔力の筋がほとばしり、子どもの胸元へと滲み込んでいく。
「あ……あれは……」
周囲の人々が息を飲んだ。魔力が子どもの身体の内部を巡り、赤黒い瘴気のかたまりが皮膚のすぐ下に浮かび上がる。毒のようなものが、光に追われて動く様子が、肉眼でもわかるほどだった。
リリィの額に汗が浮かぶ。呼吸は浅く、だが集中は切らさない。
「≪拒絶せよ≫」
次の詠唱とともに、子どもの口から黒い煙のようなものがぼんやりと漏れ出す。瘴気は風に流され、太陽の光を浴びてかき消えた。
やがて、子どもの呼吸が少しずつ深くなっていく。
「……落ち着いてきてる。心臓の鼓動も戻った」
医師が信じられないものを見るように呟いた。
リリィはそっと手を離し、掌を握ったまま立ち上がる。少しふらついたが、すぐに体勢を整えた。
「……一時的な処置です。魔素の根は断ちましたが、完全に回復するには、少し休ませる必要があります」
「十全だ。あんた……まるで……」
「“白髪の魔女”……だろ?」
ガルドが背後から言い添える。すでに人々は、彼らが何者かを悟り始めていた。
「ありがとうございます……!」
父親がリリィの手を取ろうとしたが、彼女は静かにそれを制した。
「……感謝は、不要です。……私が勝手に治したかっただけです」
子どものまぶたがかすかに動き、瞳がゆっくりと開いた。
「……おとう、さん……」
その一言に、父親が声を震わせる。
「おい……大丈夫か……! おまえ……っ、生きてる……!」
街の喧騒が遠のいたように、診療所前には小さな安堵が広がっていた。
だが、リリィの視線はその先――まだ残っている“根”のほうを向いていた。
リリィが一歩、前に出た。
「すみません。子どもはどこで倒れていたんですか?」
「倉庫街の奥の……廃倉庫の近くだって聞いた。あそこは、今は使われちゃいねえはずだが……」
「……場所が分かりました」
リリィの声は落ち着いていた。けれど、瞳の奥には冷たい光が灯っていた。
「ガルドさん。どうやら――また、“残りかす”がいますね」
「そうだな。一日前に斬り漏らした“誰か”が、まだ動いてる」
倉庫街の奥。人の目から遠く離れた廃倉庫。
まるで、あの倉庫戦の亡霊が、まだ街のどこかで息を潜めているように。
ガルドは静かに剣を確かめるように柄へ手をやる。
「行くぞ。今日はまだ、剣を使わずに済むと思っていたが――」
「……騎士は、休む暇もないですね」
「お前もだ、魔女」
そう呟き、ふたりは群衆を離れ、再び人目の少ない裏通りへと消えていった。
灰色の空の下、血の匂いが風に紛れはじめていた。




