表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/55

商会都市編 28.「……騎士は、休む暇もないですね」

 陽が傾きかけ、広場の喧騒がほんのわずか落ち着き始めた頃だった。


 ガルドがページをめくる手を止める。


 「……山猫と王子が、ようやく一緒に歩き出したところだ」


 「続きは、また夜に聞きます。……楽しみにしてますね」


 リリィは目を細めて言い、手元のカップに口をつけた。冷めかけたハーブ茶がわずかに苦い。


 そんな穏やかな空気を裂くように、通りを駆け抜ける足音が響いた。


 「どいてくれ! 誰か、医者は……っ!」


 血まみれの布を抱えた男が長椅子の前を通り過ぎていく。腕に抱かれているのは、小さな子どもの身体だった。


 リリィの笑顔が消える。


 「ガルドさん……」


 「行くぞ」


 ガルドは即座に立ち上がり、剣に手をかけて歩き出す。通りにはざわめきが広がり、人々が騒ぎの中心を追い始めていた。


 男が向かったのは、通りの奥、街医者が診療所を構える細い路地の入口だった。


 細い路地にある診療所は、年代物の木造家屋で、窓辺には干された薬草が風に揺れていた。だが今、その前には異様な緊迫感が漂っていた。


 小さな木製の担架の上には、まだ五歳ほどに見える子どもが横たわっていた。身体は細く、顔色は青白く、口元には黒ずんだ泡がわずかに残っている。


 診療所の医者――老年の男性が額に汗を浮かべながら、瓶に入った薬草の粉を潰している。


 「手を出すな、どの薬草が呪いに反応するか分からん……!」


 助手と思しき若者が戸口に控え、祈るように立ち尽くしていた。


 子どもの父親らしき男は、担架の脇で膝をついている。彼の手は震え、かきむしった額には血が滲んでいた。


 「頼む……頼むよ……この子は――仲良く兄弟と遊んでただけなんだ。あんなとこに行くなんて……!」


 周囲には近所の者たちが集まり、恐る恐る様子を見守っていた。


 「呪いって言ってたよな……誰かにかけられたのか?」


 「違ぇよ、あそこだ。……の……まだ何か、あるんじゃねぇか」


 「一日前に騎士と魔女が暴れたって話だろ? 終わったんじゃなかったのかよ……」


 人々の声は囁きから不安へと変わっていく。


 リリィは静かに子どもに近づき、じっとその顔を見つめた。瞳には恐怖ではなく、哀しみに似た感情が滲んでいた。


 「……魔力の流れが乱れてる。自然な呪いの伝播じゃありません。誰かが“仕込んだ”ものです」


 「仕込んだだと……? おい、あの倉庫には近づかねぇよう言ってたはずだ!」


 「この子は、ただ遊んでただけなんだよ……!」


 叫び声と嘆きが交差するなか、ガルドが無言で担架のそばに立った。黒鉄の鎧が沈黙を連れてくる。ガルドが傍の医者に聞く。


 「あんた、この子は治りそうか?」


 診療所の前で膝をついた医者が、首を振って呟いた。


 「こいつの体の中で、魔素が暴れてる。普通の瘴気じゃねえ。……呪具の類いに触れたんじゃねえか?」


 小さな担架の上で、子どもはか細い呼吸を繰り返していた。頬は青白く、唇は紫がかっている。脈は浅く、全身がわずかに痙攣していた。


 「こりゃ……普通の薬じゃどうにもならん。魔素が臓腑に絡んでる。高価な秘薬か、あるいは……」


 老医師が顔を歪め、苦々しく唾を吐き捨てた。


 「放っておいたら……この子、夜まで持たねえかもしれねえ」


 リリィが一歩前に出た。


 「……見せてください。私、できるかもしれません」


 医師は驚いた顔をしたが、その眼差しに迷いはなかった。彼はすっと退き、担架の脇を空けた。


 「……やるなら急げ。魔素が心臓に入り始めてる」


 リリィはうなずくと、膝をつき、子どもの額にそっと手を添えた。瞳を閉じ、呼吸を整える。


 「≪流れを戻せ≫」


 呟きと同時に、リリィの掌から淡い光が広がった。指先から、緑と青の揺らめく魔力の筋がほとばしり、子どもの胸元へと滲み込んでいく。


 「あ……あれは……」


 周囲の人々が息を飲んだ。魔力が子どもの身体の内部を巡り、赤黒い瘴気のかたまりが皮膚のすぐ下に浮かび上がる。毒のようなものが、光に追われて動く様子が、肉眼でもわかるほどだった。


 リリィの額に汗が浮かぶ。呼吸は浅く、だが集中は切らさない。


 「≪拒絶せよ≫」


 次の詠唱とともに、子どもの口から黒い煙のようなものがぼんやりと漏れ出す。瘴気は風に流され、太陽の光を浴びてかき消えた。


 やがて、子どもの呼吸が少しずつ深くなっていく。


 「……落ち着いてきてる。心臓の鼓動も戻った」


 医師が信じられないものを見るように呟いた。


 リリィはそっと手を離し、掌を握ったまま立ち上がる。少しふらついたが、すぐに体勢を整えた。


 「……一時的な処置です。魔素の根は断ちましたが、完全に回復するには、少し休ませる必要があります」


 「十全だ。あんた……まるで……」


 「“白髪の魔女”……だろ?」


 ガルドが背後から言い添える。すでに人々は、彼らが何者かを悟り始めていた。


 「ありがとうございます……!」


 父親がリリィの手を取ろうとしたが、彼女は静かにそれを制した。


 「……感謝は、不要です。……私が勝手に治したかっただけです」


 子どものまぶたがかすかに動き、瞳がゆっくりと開いた。


 「……おとう、さん……」


 その一言に、父親が声を震わせる。


 「おい……大丈夫か……! おまえ……っ、生きてる……!」


 街の喧騒が遠のいたように、診療所前には小さな安堵が広がっていた。


 だが、リリィの視線はその先――まだ残っている“根”のほうを向いていた。


 リリィが一歩、前に出た。


 「すみません。子どもはどこで倒れていたんですか?」


 「倉庫街の奥の……廃倉庫の近くだって聞いた。あそこは、今は使われちゃいねえはずだが……」


 「……場所が分かりました」


 リリィの声は落ち着いていた。けれど、瞳の奥には冷たい光が灯っていた。


 「ガルドさん。どうやら――また、“残りかす”がいますね」


 「そうだな。一日前に斬り漏らした“誰か”が、まだ動いてる」


 倉庫街の奥。人の目から遠く離れた廃倉庫。

 まるで、あの倉庫戦の亡霊が、まだ街のどこかで息を潜めているように。


 ガルドは静かに剣を確かめるように柄へ手をやる。


 「行くぞ。今日はまだ、剣を使わずに済むと思っていたが――」


 「……騎士は、休む暇もないですね」


 「お前もだ、魔女」


 そう呟き、ふたりは群衆を離れ、再び人目の少ない裏通りへと消えていった。


 灰色の空の下、血の匂いが風に紛れはじめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ