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商会都市編 27.「……この平穏も、きっと借り物なんでしょうね」

 あの夜の倉庫の戦から、一日が過ぎた。


 街には、何事もなかったかのように朝が訪れ、人々はいつものように商売をし、笑い、時折怒鳴り合っていた。交易都市ならではの雑多な騒がしさが、通りに漂っている。


 市場の通りでは、干し肉や乾燥香草、染め布、加工された鉱石や奇妙な道具が店頭に並び、旅人や商人たちが品定めに歩き回っていた。東方風の商人が声を張り上げる。


 「見ていけ見ていけ! 正真正銘、ノルズ山脈の銀狼の毛皮だぞ!」


 路地の角では、笛吹きの老人と子どもたちが輪になって、音楽に合わせて手遊びをしていた。傍らには、売れ残りの菓子を手にした少女がにこやかに笑っている。


 そんな中、騎士ガルドは露店の影に立ち、行き交う人々を静かに見ていた。黒鉄の鎧が目を引き、通り過ぎる者たちがちらと視線を向けるが、声をかける者はいない。すでに“あの一件”の噂は広まっていたからだ。


 一方、リリィは道端の小さな雑貨屋に立ち寄っていた。


 「……紙の本、売ってるんですね。高そうですけど」


 老主人が笑う。


  「年寄りしか読まんがね。いずれ"紙の本"はまた評価されるさ。言葉だけじゃ、時代とともに変化しちまうよ」


 「……いいですね、その考え方」


 リリィは棚に並ぶ薄い本を一冊手に取った。ページをめくる音が、昨夜の金属音とは対照的に、やわらかく響く。タイトルは『山猫と王子の長い散歩』――子ども向けの寓話らしい。


 「買います。お釣りは要りません」


 そう言って渡したのは、血に染まった裏金とは違う、正規通貨の銀貨だった。


 ガルドと合流したリリィは、さっそく本の表紙を抱きしめるように持ちつつ、笑顔で言った。


 「ガルドさん。あの本、読んでくれます?」


 「……いいのか? お前のことだから、すぐに眠くなるぞ」


 「それが狙いです。ほら、今日くらいは、穏やかに過ごしましょうよ」


 風は優しく、どこか遠くで鐘の音が鳴った。

 雲がゆっくりと流れ、日陰と日向が街を静かに移ろっていく。


 街の広場では、子どもたちが綿菓子のような菓子を頬張り、若い職人たちが喧嘩腰に値段を競い合っていた。

 その脇を通った行商の男が、ガルドを見上げて「お客さん、盾は買わんかね? おまけで焼き栗付けるよ!」と声をかけ、一瞬だけ立ち止まったガルドに、リリィが吹き出しそうになる。

 だがそのどこかに、この都市の隠された毒があることを、ふたりだけが知っている。


 ガルドとリリィは広場近くの石造りの小さな長椅子に腰を下ろし、リリィは椅子に膝を抱えて座った。ガルドは珍しく兜を外し、陽の光に目を細める。


 「……この平穏も、きっと借り物なんでしょうね」


 「だからこそ、少しは噛みしめておくべきだ」


 そう言って、ガルドは本を開いた。


 ――『ある日、山猫は王子にこう言った。「お前の剣は、まだ心を守っていない」』


 その声音に、リリィは目を細める。

 ガルドの声は戦場では命令を下す厳しいものだったが、今は優しく物語を紡いでいる。

 ほんのわずかでも、人としての時間を取り戻すような、そんな午後だった。

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