商会都市編 26.「……でしょうね。あんな怪物、個人の力だけじゃ無理です」
倉庫街の奥、人気のない荷置き場に逃げ込んだ二人の男は、雑然とした木箱の影に身を潜めながらも、焦燥に染まっていた。
「く、くそ……本当に、追ってきてるのか?」
「黙れ、まだ終わっちゃいない……」
術者が、血まみれの手で壁際の巨大な木箱に近づいた。
幅は二メートル、高さは人の背丈を超え、表面には封印術式がいくつも刻まれている。
その封印術式は、木の合わせ目からは異様な黒煙が滲み出ていた。
「目を覚ませ、“九号”……今こそお前の力を見せる時だ。
俺の傑作だ……お前だけは、俺を裏切らないだろう?」
手の甲を血でなぞり、封印符を引きちぎると――
箱の内部で、異様な音がした。骨がきしむような軋みと、鉄を削るような咆哮。
バキィンッ!
次の瞬間、木箱の前面が内側から破壊された。
飛び散る破片とともに、闇から現れたのは、四肢の関節が逆に折れ曲がった異形の肉塊だった。
かつて人間だった痕跡をかすかに残すその姿は、筋肉の上に金属板を直接縫い付けられたような構造をしている。
「ククッ……完成形にはまだまだだが、試し斬りには丁度いいだろう? さあ、“九号”――俺の敵を殺せッ!」
怪物は、咆哮を上げ、背から生えた刃のような骨を鳴らして踏み出した。
その視線の先には、黒鎧の騎士と白髪の魔女――。
血の嵐が、再び始まろうとしていた。
リリィが足音を捉えた時、怪物はすでに咆哮を上げていた。
「ガルドさん! 前方、何か……っ!」
「感じる、魔力の密度が違う。……出たな、術者の切り札ってやつか」
怪物はその巨躯を揺らして走り出した。
四足獣のように地を這い、唸り声をあげながら瓦礫を踏み潰して突進してくる。
「≪止まれ≫!」
リリィの詠唱とともに足元が爆ぜるが、怪物の装甲のような外皮はそれを弾き、強引に踏み越えてくる。
「硬いだけじゃない、筋力も桁違い……!」
「下がれリリィ! ツバイヘンダーでいく」
ガルドが両手で大剣を振ると、怪物の腕と剣がぶつかり火花を散らす。
凄まじい衝撃で地面が割れ、ガルドの脚が一歩めり込んだ。
「チッ……受け止めただけでこの重さ……」
「≪裂けろ≫!」
リリィの追撃が怪物の脇腹を裂き、紫色の血液が噴き出す。しかし怪物は怯まず、怒り狂って再び突進した。
「まだまだ!」
ガルドは身を翻し、刃を横にして叩きつける。
音が鈍く響き、怪物の片腕が根元から吹き飛んだ。
「≪貫け≫!」
リリィの詠唱に反応し、魔力の槍が天から突き刺さる。
怪物の背中が貫かれ、動きが鈍る。
「今です、ガルドさん!」
「――終わらせる!」
低く踏み込み、重力を殺さぬまま、ツバイヘンダーを頭上から振り下ろした。
鉄を割る一撃が、怪物の首を肩ごと叩き落とす。
「……ぁ……あ……」
かすれた呻きが、血の泡と共に漏れる。
人間の声に似たその音が、耳に焼きついた。
もがく巨体が地に崩れ落ち、ついに沈黙が訪れた。
「……人の……声、してました」
リリィの目がわずかに伏せられる。
「生きた人間を……壊して作ったのか。ふざけた真似を」
怪物の断末魔の余韻の中で、気配を断って逃げようとした術者と商人の姿が遠くに見えた。
「リリィ、行けるか?」
「はい。ガルドさん、次は逃しません」
ふたりは無言で頷き合い、再び走り出した。
外道の産物の――その根を断つために。
細い裏路地の奥、崩れかけた石壁に身を寄せ、商人の男が喘ぐように吐き出した。
「はあ、はあ……馬鹿な……俺たちが、こんな目に……!」
その横で、術者が顔を蒼白にしながら血まみれの手を握りしめる。
「“九号”を倒すなど……想定外だ……っ。もう一手、もう一手あれば……!」
震える手で懐を探るも、逃げ道に仕掛けた術の罠で、すでに魔石も呪符も尽きていた。
そして、路地の向こうから、ゆっくりと“それ”が現れた。
「……見つけた」
低く、地を這うようなガルドの声に、ふたりの顔が引き攣る。
背後にはリリィ。白髪を揺らし、静かな怒気を放ちながら、剣を手にしていた。
「これ以上、逃げるのはやめませんか?」
商人は悲鳴混じりに喚いた。
「ま、待て! 俺はなにもしてない! 運んでただけだ! 取引先が欲しがるから……!」
「その“欲しがる”ために、子どもを檻に入れてたのか?」
ガルドが一歩近づいた。その足音だけで、商人は尻餅をつく。
「た、頼む……っ、金ならある! 金ならやるから命だけは――」
だが、言葉の最後は届かなかった。
ザクリ、と重く鋭い音がして、ガルドのショートソードが商人の首筋を斜めに裂いた。
血が石畳に叩きつけられ、もがく暇もなく、男は崩れ落ちた。
「ひっ、ひいぃっ……っ!!」
残る術者が、背後へ這うように逃げようとする。
「……やめてください。あなた、また生きた子どもで錬成するつもりだったんですよね」
リリィの声は静かだった。
「だったら、今ここで死ぬのが“正しい”です」
「≪沈め≫」
その呟きとともに、大地が術者の膝下を飲み込むように歪んだ。
石畳が割れ、崩れた地面に足をとられた術者の身体が仰向けに倒れた瞬間、
リリィは素早く詰め寄り、剣を胸に突き刺した。
「ッ、が……ぁ……っ!」
痙攣しながら、術者の口から血の泡が漏れ、やがて静かに息絶える。
彼の用をなさない空の魔石が転がり、コロッと音を立てて止まった。
辺りに再び、静寂が満ちる。
「……ガルドさん。これで、この倉庫に関わっていた人間は、ひととおり……」
「いいや、まだだろう。こいつらの背後に、もっといるはずだ」
「……でしょうね。あんな怪物、個人の力だけじゃ無理です」
リリィが剣をしまい、袖で目元の血を拭う。
「黒鎧の騎士と白髪の魔女……次は、誰の噂になるんでしょうね」
「言わせておけばいいさ」
ガルドは血のついたショートソードを振り払い、無造作に鞘へと収めた。
夜の風が吹き抜ける裏通りに、ふたりの足音だけが残った。




