第4話 ミカエラ
「おはよう、401号室のリリーくん。ちゃんと眠れた?」
朝9時。2Fに降りたところで声をかけられた。
声の主は、205号室の住人、ミカエラ。
フーリーの当てにならない情報によると、彼女は元看護師だったらしい。
今日もゴム手袋をつけて、モップで廊下を拭いている。
「……なんで毎日、掃除してんだよ。管理人じゃあるまいし」
「この建物、誰も世話してないでしょう? 放っておいたら“壊れたもの”がもっと壊れてく」
「……人間の話か?」
「さあ、どうだろう」
彼女はそう言って、にこっと笑った。
リリーは階段を降りようとして、ふと足を止めた。
「……俺、“壊れてる”って、思うか?」
「うん。とても」
あまりにも即答だった。
「でも、壊れてる人の方が、ちゃんと生きてるように見えるわ」
「……変なこと言うな」
「だって、綺麗な人たちほど、感情が死んでるもの」
リリーは何も言えずに階段を降りた。
背中越しに聞こえてくる、モップの音だけがやけに大きかった。
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午後。部屋に戻ると、ドアに小さなメモが挟まっていた。
《205号室へどうぞ。リリーくんに、合いそうな薬草茶があります。》
また誰かの“親切”だ。うんざりするくらいの。
だけど今は——ほんの少しだけ、誰かと話したかった。
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205号室の扉を開けると、室内は意外にも散らかっていた。
カーテンに夕日が差し込む。植物の鉢が並び、棚には医学書……と、なにやら書き込まれたノートが山のように積まれていた。
「どうぞ。今日は“寝つきがよくなる茶”を選んでみたわ」
ミカエラ先生が差し出したカップは、ほのかにラベンダーと、何か得体の知れない香りが混ざっていた。
「……本当に、看護師だったのか?」
「信じたい方を信じて」
「……ふざけんな」
「ふふ。怒るの、少し元気になった証拠よ」
その言葉に、リリーは少しだけ黙った。
カップの底を見つめる。自分が飲んだこの液体に、どんな意味があるのか分からない。
ただ、少しだけ体があたたかい。
ほんの少しだけ、“生きてる”気がした。