第1話 壊れた朝にどうぞ
リリーは朝を嫌っている。今日も部屋の天井を見上げたまま動けない。幻聴が喚く。「また何もできずに1日が終わるぞ」「あの金持ちは次の愛人見つけたってさ」うるさい、と思いながら起き上がる。
頭のなかでニヤけた声が響く
「おはよう、リリー。今日も『生きてるだけで地獄』って顔だねぇ」
鏡を見れば下まつ毛の長い金髪の男が、ひどく哀れな顔をしていた。歯磨きすら億劫だが、今日も今日とて五月蝿い幻聴を紛らわすために重い体を動かす。
「ねぇリリー、ドアに何かあるみたいだよ?」
部屋を見回すと、ドアの隙間から小さな紙袋のが覗いていた。中にはチャイのティーパックと、紙切れ。
「“壊れた朝にどうぞ”だってさ。どこかの皮肉屋の仕業だろ」
するとまた頭の中で声がする。ニヤついた声。
「ま、どうせ今日もろくなこと起きないんだ。ちょっとはマシになるかもね?」
リリーは紙袋を掴んで立ち上がる。スパイスの香りが鼻を刺す。不快に感じるほどに。
階段に向かう途中、404号室の前で足が止まった。ドアが半開きで、中から煙草の匂いが漏れてくる。
「おい、開いてんぞ……」
中に入ると、煙草を指に挟みだらしなくソファーに寝転んでいる女がいた。アルミ缶と酒瓶が転がっている。女がこちらを振り向くと、ボサボサのひとつにまとめた銀髪がいっしょに揺れた。目の下のクマが、今日も深い。
「勝手に入んな、401のまつ毛男」
「……部屋の前にチャイが置いてあった。おまえか?」
この女、デイジーがチャイの送り主で無いことなど分かりきっていたが、部屋に入った手前適当に聞いてみる。
デイジーはしばらく紙袋を見つめて、トントンと煙草の灰を落とした。
「そんな余裕、ねぇよ」
部屋の奥から、小さな足音。
「リリーさん!」
オキクが走ってきた。白色のワンピースの裾がひらりと舞う。黒髪の少し不器用に三つ編みされたおさげ。澄んだ瞳が綺麗で、デイジーと対極にあるような小さな女の子。なんでこの2人が一緒に暮らしているのか分からない。
「おはようって言いたかっただけ。デイジー、さっきから動かないから……」
オキクはリリーをじっと見つめた。
その視線を遮るようにリリーは無言でチャイの袋を見せた。
「飲んでみるか?」
オキクが首を振る。
「それ、優しくない匂いがする」
少し、喉がつまるような感覚がした。
「わかる」
と言いリリーは袋を抱えてドアノブに手をかけた
「おい、」
とソファーから声が聞こえたような気がしたが無視して部屋を出ると、すぐに階段下から声がかかる。
「おお〜401の王子さま。お口に合いましたか? 特製チャイ」
このチャイの送り主、フーリーが片手に煙草、もう一方にチャイの袋を持って立っていた。
「勝手にドア前に置くなよ」
「あれは“どこかの死人”のレシピ!飲むと気分が楽になるよ。君が今必要なものでしょう?今回はサンプルだからこれもただであげるよ!」
と話が通じないフーリーに諦めた表情をみせるリリー。
そしてヘルターが笑う。「ね、やっぱり今日も壊れてるね、リリー」
リリーは壁を拳で叩いた。
「全部うるせえ」
_____
結局フーリーに押し付けられたチャイのサンプルを片手に部屋に戻ってきたリリー。
紙袋の感触がなんとなく気持ちが悪くて、指先を洗面所で何度もこすった。
“優しくない匂いがする”って、ガキのくせに、やけに詩人だな。
ヒナの言葉が頭に残っていた。
喉がつまるような感覚になった理由は分かっている。
「ねぇリリー、今日も何もしてないね」
後方から聞こえる声。鏡の反射がベッドの端に座る声の主をとらえる。鏡の中に映るニヤけた顔。
「そうやって、無駄にきれいな顔して、何にもできずに生きてくんだ?あぁ、一応出来ることはあるんだっけ。」
ククク、と長いまつ毛と癖毛の黒髪を揺らしながら笑う。
「黙れよヘルター。お前は口を閉じるってことを知らないのか?」
振り返りタオルを投げつけるとその姿は消えていて、また頭の中に声が響いた。
「本当は、デイジーのとこで見たでしょ?彼女、今日が限界って顔してた」
「……わかってる」
「オキク、キミをあんなに見てたのに。なんで、助けなかったの?」
「助けられる人間なら、もう少しマシな人生歩んでる」
「じゃあ、なんで見に行ったの?」
沈黙。
リリーは、立ったまま、ふらりと傾いだ。チャイの匂いが染みついている。
嫌な、優しさのふりをした、押し付けがましい匂い。
(……俺が飲んでも、どうせ変わらない。あれは、たぶん、誰かのためのものだ)
そう思いながら、紙袋を破って、チャイを淹れた。
カップに注がれた液体は、生ぬるくて、やっぱりまずかった。
それでも一口、二口と飲むと、ほんの少しだけ——喉が落ち着いた。
心が温まったんじゃない。ただ、冷たさが薄まっただけ。
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夜、リリーは404号室の前に立った。
チャイの袋と、クッキーの缶を手に持って。
ノックはしない。ただ、ドアの前に置くだけ。
差し入れなんて柄じゃない。感謝なんてされたいわけでもない。そもそも助けるってなんだ?今のあいつに出来ることなんて何もないだろ。余計なことだ。
ただ、“自分でも人の役に立てる”という幻想が、まだ完全に死にきっていなかった。
ふとヘルターの声がする気がした。
でも今は、返す気力もなかった。
ただ、部屋に戻って、ベッドに横たわる。
ひとつだけ、今日違ったのは——
枕が、少しだけあたたかかった。