春の瞬き
寒い。
布団はしっかり被っているのに、得体の知れない寒気が全身に張り巡る。
開こうとする瞼は重く、体はベッドに貼り付けにされているようだった。
「熱かな……」
怠い体をゆっくりと起こし、部屋を出る。
廊下を歩く足はジンジンと痛み、手先や関節は麻痺したような感覚だった。
リビングにある体温計へと手を伸ばし、脇に挟む。
ピピピピ…ピピピピ…
電子音の合図で取り出して見ると、三十九度六分と表示されていた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。そっと開け、手を伸ばした窓の、ひんやりとした冷たさが心地良い。
外はまだ少し暗いが、穏やかな朝焼けが、東の空を薄く彩っているのが見えた。
「おはよう。早いね、どうしたの」
母が起きてきた。
母の朝はいつも早い。父は単身赴任中で、この家には母と私の二人きりだ。
いつもなら、私が起きる時間にはもう家を出ている母と、朝に会話をするのはどこか不思議だった。
「お母さん、熱が出た」
喉の奥から、元気のない掠れた声が出る。
「え?」
目を擦る手を止め、驚いた表情をして、心配そうに駆け寄ってくる。
「本当だ。どうしよう、お母さん仕事休めないわ。一人で病院いける?」
私の額にそっと手を当てて、申し訳なさそうに言った。
「うん、大丈夫」
両親は共働きで、小さい頃から家で一人で過ごす時間は多かった。
風邪をひいても、静かな部屋で、じっと寝ていることには慣れている。
それに、母に無理を言うのは申し訳ない。
「病院が開くのは九時くらいだから、それまで横になって休んでなさい。学校が始まるまでには、治しとかないとね」
そう言うと、慌ただしく仕事へ行く準備をしだした。
その光景を後ろから眺め、「わかった」と言ってリビングを出た。
夢を見た。
どこまでも青く澄み渡る大空と、世界の果てまで続いているような大草原。
暖かい雰囲気に囲まれながら、微風に靡く木陰で、母と一緒にピクニックをしている。
そんな夢だ。
手作りのお弁当に、色とりどりの焼き菓子。
周りには色鮮やかな花々が、幸せなひとときを祝福するように咲いている。
そして、ふと横を見ると、母が嬉しそうに笑っていた。
昔から変わらないような、初めてのような、何にも代えがたい光景に、嬉しさと、身勝手な思いが溢れてゆく。
ずっとこうしていたい。
他に何もなくていいから、母とこうして、ただ穏やかに過ごしていたい。
思いは募るばかりで、次第に私の心を重くしていく。
その想いに押しつぶされそうになったところで、終止符を打つように、ふと目が覚めた。
「あ、起こしちゃった?」
ひんやりと冷たい母の手が、私の額に乗せられている。
体は熱く、少し汗ばんでいるのが分かった。
「お母さん、どうして……」
仕事に行ったはずの母は、今朝見た寝巻きではなく、仕事着の姿で私の部屋にいた。
「無理言って、仕事休ませてもらったの」
そう言うと、私の頭をそっと撫でた。
「一緒に病院行こうか」
優しく微笑む母の顔を見て、嬉しさを隠すように小さく頷いた。
外へ出ると、冬の気配はすっかり消え、マスク越しにも春の暖かい風が伝わってきた。
「今日はあったかいね」
母が歩きながらそう呟く。
熱に冒されながらも、目の前に広がる春色の景色に、美しさを感じる。
まるで天国を歩いているような、そんな気分だった。
病院へ向かう道の途中で、ぼんやりと映る景色の奥に、桜並木が見えてきた。
緩やかに揺れる桜の木から、風に乗るようにして、ひとかけらの桜が舞い降りてゆく。
平凡な道を華やかに彩りながら散ってゆくその光景は、ここにしかない桃色の絶景だ。
「こんなふうに、一緒に桜の下を歩けるなんてね」
母が私の隣で楽しそうに言った。
平日のため、人通りは少なく、夢の続きを見ているような、不思議な感覚だった。
「毎日が忙しいと、こういう景色を見た時に、いつまで迎えられるだろうって、考えちゃうんだよね。もう少し余裕を持って、日々を過ごさないといけないね」
母の何気ない言葉のひとつひとつに、目の奥から温かい感情が湧き出てくるのを感じた。
嬉しさや喜び、そして、知らぬ間に溜まった弱い感情が、複雑に混ざり合ってゆく。
それはきっと、熱のせいだ。
暖かい春の風に、木々は小さく揺れ、桜は儚く散ってゆく。
それは瞬きをする間に過ぎ去ってゆく、日常のよう。
どれだけ懸命に生きようと、どれだけ多くのことを成し得ようと、いつかは全て忘れ去ってしまう。
それならば、こういう小さな幸せを見逃さないでいたい。
特別な毎日でなくとも、目に映る景色を見て、綺麗だと思えるこの感情だけは、無くしたくない。
「来年も一緒に見ようね」
そう言うと、母は私の隣で嬉しそうに笑った。