五話、夏の約束
◆
俺は、逃げてきた。
何もかも失って…奪われて…逃げ出した先で、また逃げた。
「…ね、らいか」
追いかけてきて、優しく寄り添ってくれた。
酷い話だが、追いかけられることに不快感を覚えていた。
「(こんな俺を…誰の視界にも入れなくない…)」
酷い見栄っ張りだと、自覚している。
悩んだ挙句、思わせぶりにやってきて、目が合ったら臆病者のように逃亡する。
追いかけてくれることが、あまりにも嬉しいことのはずなのに、素直に受け取れない…
「わたしのお家に、おいでよ」
その言葉に、救われると思う反面…彼女にはこの情けない素顔を見せられなかった。
「らいか…身体が濡れている」
背中に、これをかけられる。
雨の中、お互い走り続けたのだから当然だと思う。
体温も低下して、明日には寝込むだろうと容易に想像できる。
「(…だめだ、雫がそんなことになったら、俺は本当にどうすればいいか、わからなくなる)」
だから、断って消えてしまおう…。
どんな人生があるか分からなくて、不安で、壊れそうだけれど…それを彼女に分かち合わせる必要はない。
そう思って、振り返って、顔をあげると
「かえろう…?」
————酷く、本当に泣きそうな顔で、そっと声をかけてくれていた。
その事実に気付いた。
「————」
手を差し伸べず、そっと声をかけてくれる。
選択を、俺に委ねている。
けれど、見れば分かる、分かってしまう。
「(————怯えている)」
ただ、恐怖している。
犯罪者がそばにいる事が不安?
いや、違う。
「(あの時と…同じだ)」
異世界で、似たことがあった…その時、雫は同じように怯えていた。
俺が消えてしまうと、そんな空想を彼女は覚えて泣きそうになっていた。
「(俺は…君のためになれるのか)」
そんな、思い上がった考えが、浮かび上がる。
「(こんな屑でも…必要だと思うのか…)」
その考えを振り払おうとするが…彼女の沈黙が、ただ雨音となって…俺に降り注ぐ。
「…」
俺の言葉を、待っている。
もう、ダメだった。
彼女のその瞳には勝てない…抗うことができなくなってしまう…
だから、俺は
「…ありがとう」
泣きそうな声で、そう呟いた。
◆◆◆
「お風呂、沸いてるから先に入ってて」
雫の家に着くと、そう言われる。
とても落ち着く…静かで、柔らかな声色だった。
「ありがとう…」
好意に甘えるのが正解だと思って、脱衣所で濡れた服を脱いで…浴室の電気をつける。
「(…お湯は、張ってある…最悪なタイミングできてしまったな)」
浴槽をあたためなおして、シャワーを浴びる。
頭に冷えたシャワーが掛かり、また少しだけ冷静になる。
「(…何してんだよ、俺は)」
情けなさに、惨めさに、不安が胸に押し寄せる。
「…?」
脱衣所に、雫の気配を感じる…きっと着替えを置いてきてくれたのだと思う。
雫も濡れたままだから、長く使うのは良くないだろう…シャワーを浴びたらもうでよう…そう思った。
刹那に。
「入るね」
————裸になった雫が、胸と秘部を手で隠して入ってきた。
「な、し、雫!?」
顔を真っ赤にしている雫が、可愛くて、愛らしくて、欲しくなる…そんな欲望を抑えるのに必死になっていると…雫は俺の背に座った。
「身体、洗うから…動かないで…振り返るのは…その…できれば、少しだけにしてほしい」
「ふ、振り返らない、振り返らないから」
そう宣言すると…俺の背中にあたたかいシャワーをあてた。
そして、ボディソープを手に取ったのか。それを泡立てて…
俺の背中に、そっと触れた。
「————」
背中に触れる柔らかい手の感触…雫が何をするのは、それだけでわかってしまった。
「…」
「…」
お互い、無言でいる。
背中を手で、優しく洗ってくれる。
「…らいか、久しぶりに見たけど身体大きいね」
子供の頃は、気恥ずかしくなりながらも叔母の計らいで三人で風呂に入ったこともあった。
「身長はもう、あっちにいた頃みたい」
「…もう、十年も経ったからな」
十年で身長も伸びて身体も丈夫になった。
「筋肉もあっちにいた頃に少しずつ近付いてる…頑張ったんだね」
手で洗う…それが愛おしくて、変な気持ちになる。
だから、柔らかな手に…少しだけ待ったをかけた。
「ま、」
「…?」
こんなこと言うと…引かれないか不安だけれど…言わないと〝そこ〟も洗いそうだから…
「前は…自分で洗うよ」
「…うん、そっか」
そうして、体と…頭を洗って泡を落とす。
「先に入っててよ」
「あ、うん」
促されるまま、湯船に浸かる…あたたかい。
湯船に入りながら、雫を見る。
彼女は自分の身体と髪を洗う…
「(…綺麗だ)」
かしゅ、かしゅ、とシャンプーのボトルの音だけが聞こえる。
遠くに微かな雨音が聞こえるけれど…本当に小さくて、外は…こことは違う別世界のように思えてしまう。
俺は…その日常が、好きだったんだ。
「……」
「……」
雫も体が洗い終わり…そっと立ち上がると…胸と秘部を、手で隠しながら俺を見る。
「…はい、るね」
「…じゃあ俺はあがるよ」
「いや、いいの」
あがろうとする俺を静止して…雫は俺のいる浴槽に、そのまま足から入り始めた。
「…」
「…」
雫が、俺に背を預けるように…浴槽に入った。
心臓が、ばくばくする。
同時に雫の心臓の音が聞こえる。
「…」
早い鼓動に…雫の気持ちと…体温が伝わる。
「雨、やまないね」
そう言われて…意識が少しだけ、外へ行く。
「梅雨はまだ続くみたい」
雨の音が、遠くに聞こえる…。
少しだけ心が安らぐ。
「ね、らいか」
囁くような声に…心地よさを覚えた。
「…昨日ね、雑貨屋の庭にアサガオが咲いてるのを見たよ」
雑貨屋…よく、子供の頃、ここにきては寄っていた小さなお店が情景として浮かぶ。
「鈴ちゃんが夏休みの前だから、それで持って帰ってきたんだって」
そこには年下の女の子がいて…活発な子だったなあ、なんて…昔を思い出す。
「花弁が少しだけ…萎れてた」
あの子は花より団子だから、なんて表現していたのを、思い出した。
「水やりをサボって、遊んでるばかりで困ってるって、おばさんが言ってたよ」
相変わらず、あそこの雑貨屋は同じ事を言うものだ、なんて感想を覚えて
「夏なんだよ、もう」
ぎゅ、と…後ろから抱きしめた。
昔が懐かしくなったのか、寂しくなったのか…ただ、そうしたくなった。
抱き締められた腕を、そっと触れられる。
「ね、明日になったら一緒に神社行こうよ」
春になったら、綺麗な桜の咲く…あの神社を思い出して…気持ちが安らぐ。
「お気に入りのベンチがあるんだ、ちょうど木陰に被って、風が気持ちいいんだよ」
ああ、だめだ…もう俺は、彼女の為にしか生きたくない……そんな依存にもよく似た想いを胸に浮かばせて…
「…夏なんだよ…もう」
————夏になったら、また会いに行くよ。
そんないつもの約束を思い出して…俺は泣いた。
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【来夏】
日本で五歳の時、異世界へ飛ばされる。
そこから20年以上生活してからアラストールと出会い、配下になる。
その正体は勇者型の加護所有者……正真正銘、世界から勇者として呼ばれている男だった。
性格はかなり歪んでおり、その加護は人殺しと報復、あと武具製作に特化している。