一話
フィデス王太子薨去の知らせがラウルス伯アウラ・ハリの元へ届いたのは、ラウルスが雪解けを迎える五月の半ばだった。ハリ家の家宰を務めるトマス・ムジクスから知らせを聞いたアウラは、動揺のあまり眩暈を起こしたと伝わる。
「あの頑健な父上が、病ごときで倒れるはずがない……」
片手を机につき、眩暈を起こした体を支えながら、アウラは家宰のトマスに反問した。
「王都からの書簡には、冬の晩餐会以降、健康を損なっていたと書かれております」
モノクルが特徴的な老紳士は、アウラの反問にそう答える。
「差出人は誰の名前になっている?」
「第二王子のコクレア様です。それと、気の早いことに、文面には御自身を摂政と呼ぶ記述が見られます」
国王のユニウス六世は数年前から病に臥せっており、実際の政務は王太子であるフィデスが摂政として執り行っていた。つまり、摂政を名乗るということは、国王の代理であり王太子であることを宣言する事に外ならない。
「あの男、ついに野心を隠すことさえしなくなったか。だが、王都には兄上がいるはずだ。兄上がコクレアを放っておくとも思えないが……」
「もうすぐ、奉納祭の時期です。恐らく、王都を離れているのではないかと」
フェブリス王家が執り行う神事の一つに奉納祭と呼ばれるものがある。神聖王ボヌム一世の功績を称えて行われる祭りであり、彼の出生地と言われている『エクリシウムの森』で狩った鹿を墓所に奉納するという儀式で、鹿の狩猟から墓所への奉納までを王家の後継を担う人物が行わなければならない、という制約がある。
「王太子である父上が死に、次に王太孫となるはずの兄上が王都を離れている隙に摂政を名乗るとは、あの破落戸が考えたにしては手際が良すぎると思うが」
「裏で手引きをしている者がいるとみて間違いありますまい」
トマスはモノクルの位置を指で調整しながら、アウラに黒幕の存在を示唆した。
「キブス公爵か……」
アウラが名前を挙げたキブス公爵とは、摂政を名乗ったコクレア王子の妻の父親で、コクレア王子の舅に当たる人物である。強欲な男で、目的のためなら親でも売ると噂される野心家だ。
「父上を排除した奴らが次に狙うのは兄上の命だ。すぐにエクリシウムに向かうぞ」
「お待ちください。王都からこのような書簡が届けられたことから考えて、今からエクリシウムに向かったところで間に合いはしないでしょう」
「では、何か?兄上を見捨てろとでもいうのか!」
普段は温厚なアウラが、目を充血させ感情のままに振舞っている。怒気を浴びせられたトマスは、見たことのない表情に目を丸くして驚いたが、モノクルの位置を左手で修正する動作をして心を落ち着けた。
「アウラ様、落ち着いて考えてください。虎将軍とも呼ばれるフィデス様が、暗殺者ごときに後れを取るとは考えにくい。殿下の死因は恐らく毒殺でしょう。フィデス様が倒れた時点で、奥方様がマクシムス王子にすぐに使いを出したのは間違いありません」
そこまで聞いたところで、アウラは落ち着きを取り戻した。兄ならば、知らせを聞いてすぐに現状を察するはずである。自分の身を守る動きをすることは間違いない……となれば、一番身が危ないのは王都の家族ではないか。
「エクリシウムではなく王都に向かう。トマスには留守を任せる」
「それがよろしいかと存じます。王都には、どう向かわれるのですかな?」
教師のような態度で、トマスはアウラに問いかける。
「少人数で身分を隠して向かう」
「アウラ様は目立ちますからな……本当ならお止めするところなのですが、言っても聞かないでしょう」
「よく解っているではないか」
さも、当然といった様子でアウラは首肯する。それを見てトマスは頭を振った。
「そう仰られると思い、既に王都に対して斥候を放っております。王都に着き次第、サリールと合流してください」
「サリールを向かわせたのか……そうか、適任だな」
「左様です。王都にはガリル人のコミュニティがありますからな」
ガリル人とは、フェブリス王国東方のサラー砂漠を聖地とする人々の総称である。彼らは、サラー砂漠に生息する『モロト』と呼ばれる二足歩行のトカゲを騎乗動物として飼育し、その機動力を利用して大陸各地に商隊を派遣して商売をしている。ガリル人はガリル人相手の商売を原則的にしないが、情報の取引は例外として積極的に行っており、ガリル人のコミュニティが存在する都市には、そういった情報を専門的に扱う商館が存在する。ガリル人以外がこの商館に出入りすることは難しいが、トマス配下のサリールは王都生まれのガリル人であり、王都のガリル人コミュニティにも顔が利くので、情報を集める任務には最適の人材であった。
「すぐに王都に向かいたいところだが」
「奥方様も馬鹿ではありません。既に身を守るために姿を隠しているでしょう」
「確かに、母上ならそうするだろうな……わかった、出発は明日の早朝にしよう」
サリールならば、一日で王太子一家の潜伏先を突き止められるはずだ。それを待ってから出発しても遅くはないと、アウラは逸る心を抑え込んだ。
「そういえば、ヒストリアに会うのも久々だな。何か贈り物を用意するか……」
義理の姪の名前を呟いて嬉しそうにしているアウラを見て、トマスは危うく吹き出しそうになった。大袈裟な咳で誤魔化したが、アウラはトマスの様子に注意を払っておらず、何やらニヤニヤと考え込んでいるようだ。
「やれやれ、ヒストリア様に向ける関心を他の女性にも向けていただければ、悩みも減るのだが」
「トマス、聞こえているぞ」
「聞かせているのです。早く、奥方様とお呼び出来る御方を屋敷に迎え入れていただきたいものです」
「ぬぅ……」
アウラは、この話題に対する自らの不利を悟り、部屋から退散することにした。
「そうそう、妻がアウラ様の女性の趣味について聞いておきたいと、申しておりました」
執務室から退散しようとするアウラの背中にトマスが声を掛ける。
「私はまだ、二十二だぞ」
「もう、二十二歳になられましたな。マクシムス様が二十二歳の頃には、既に結婚されておりましたし、ヒストリア様も生まれていましたな」
「兄上と義姉上が早すぎるのだ」
「フィデス様も心配しておりましたぞ」
「……」
養父の名を持ち出されたことで、アウラも流石に口ごもる。
「父上の名前を使うのは卑怯だ……」
「失礼いたしました。しかし、家臣一同はもとより、王都の御家族も心配している事柄であることを、御理解ください」
「わかった……今回の事が片付いたら、真剣に考えることにする」
トマスはアウラの返答に対して一礼し、微かに笑みを浮かべた。
「そういえば、母上から父上の訃報が届かないのは何故だろう?」
アウラはドアに向かう足を止めて、トマスに問いかけた。コクレアから書簡が届いたのに、王太子妃からの書簡がないのは不自然な話だ。何か意図的なものを感じる。
「王都で、お聞きになれば分かることです」
トマスの口ぶりからすると、王太子妃からの書簡がないことについて、何か気付いていることがあるようだが、アウラに教えるつもりはないようだ。モノクルを人差し指でしきりに触っている様子から、彼が何かを隠していることにアウラは気付いたが、重ねて尋ねることはやめにした。どうせ、王都に行けばわかることなのだ。それよりも、今はヒストリアへの贈り物を買わなければ。アウラは、父親を亡くしたとは思えないほど軽い足取りで市場へと向かった。
「どうも、あの様子では薄々気付いていそうですな」
アウラの居なくなった執務室で、トマスはそう呟くのだった。