人生の岐路と帰路
見覚えのある景色だった。いつか来た道なのは間違いない。だが、この先がどうなっているのか思い出せなかった。
この道を進むべきか否か、と私は考えた。平坦で楽な道とは限らない。山また山の上り坂をずっと登り続けなければならないかもしれないのだ。汗をかいて登った先で行き止まりになっている恐れもある。そうなったら今までの苦労は水の泡だ。
「そうなったら帰ってくればいいだけさ」と私は呟いた。予定も何もない気軽な一人旅である。誰の迷惑になるわけでもない。面倒になったら後戻りすればいい……と考え歩き始めた、次の瞬間だった。
「帰り道なんてないよ」と言う声が後ろから聞こえてくる。私は振り返った。
髪の短い女の子が立っている。彼女は私を見上げ再び「帰り道なんてないよ」と言った。
見覚えのない顔だった。私は尋ねた。
「えっと、お嬢ちゃん、私に何か用かな?」
女の子は私をじっと見つめた。無言の視線を浴びせられ、私は落ち着かなくなった。
「あの、用がないなら、もう行くね」
そう言って先へ進もうとすると、後ろから「帰り道なんてないよ」と言う声が再び聞こえてきた。
またかよ……と私は辟易した。相手にせず進もうとして、昔のことを突然、思い出す。
私は、この女の子と初対面ではない。
子供の頃に、確かに会っている。そして彼女の声に救われたのだ。
それは小学校からの下校途中、うるさい蝉の声が聞こえなくなった日の話だ。
急に静かになったので何事だろうと周囲を見回すと、この女の子が木立の中に立っていた。
「危ないから、先に行ってはだめ」
女の子は、そう言った。こちらは何のことだか分からず、ぽかんとした。その場にしばらく立ち尽くしていたら、爆音が聞こえた。まもなく横道から車が飛び出してきた。タイヤが激しく鳴る。私の目の前をスポーツカーが猛スピードで通り過ぎる。そのまま横滑りして道路脇の雑木林に突っ込み、そこで横転した。運転席は潰れていた。タイヤがクルクル回っているほか、動くものはなかった。
あのまま歩いていたら、私は車にはねられていただろう。
私は死の恐怖に怯え震え上がった。歯をガチガチ鳴らして女の子の方を見る。その姿は消えていた。
当時の記憶を思い出した私は振り返ろうとして……その場に固まった。
この女の子に関する、別の記憶が蘇ったためだ。
それは私が封印してきたものだった。
私は若い頃、夢を追い求め古里を出て都会へ行った。何年経っても芽が出ないので、私はやけになった。何度も死のうと思った。でも、死ねなかった。やがて私は正気を失った。夢をかなえる才能を手に入れようと企み、悪魔との取引を決めたのだ。悪魔と取引するならクロスロードに限る。選んだ場所は、久しぶりの帰省でたどり着いた知らない四つ辻だった。そこは禍々しい気配が漂う空間だった。ここが我が人生の岐路になると私は確信した。悪魔を召喚する呪文を唱え、その四つ辻で待つこと数時間。待ちくたびれた頃に現れたのが、この女の子だった。
自分の魂と引き換えに夢をかなえてくれるよう、私は彼女に話を持ち掛けた。彼女は私の魂は要らないと言った。その代わり、私の周囲にいる人間の魂を貰いたいという条件を提示した。その要求を私は呑んだ。悪魔との背徳的な取引に応じたのだ。
そして私は自分の夢をかなえた。その代わりに、私の身近にいた人間は軒並み不幸な運命に襲われた。親兄弟はことごとく無惨な死を遂げた。不幸になったのは家族だけではない。友人や仕事仲間も皆、非業の最期を迎えた。いつのまにか私には疫病神というあだ名がついて回るようになった。それでも私は一向に構わなかった。自分さえ幸せなら、それで良いのだ。第一、死んだ人間のことなどで悩んでもしょうがいではないか! それでも苦悩が拭えないなら、物質の力を借りれば良い。強いアルコールと薬物の力で、心の傷だとか良心といった面倒なことを忘れてしまうのだ! 実際、それらの効果は大したものだった。悪魔の姿をした女の子のことも、私はすっかり忘れてしまったくらいなのだから。
人間のエゴとは恐ろしいものだと、自分でも呆れてしまうね。
それでも、嫌な思い出を忘れるための物質の効き目が切れるときはある。スポーツカーに乗っていた妻と子供が田舎道での自損事故で死んだときは、さすがの私も悲しみに沈んだ。酒と薬をいつも以上に飲んでも、心の痛みは消えない。それに加え、妻子の死後ずっと飲んで飲んで飲み続けたせいで体調は悪くなる一方だった。それでも、命日の墓参に行かないわけにはいかない。最新式の自動運転があるから大丈夫、と愛車に乗って出発。そこまでの記憶はある。問題は、帰路だ。
お墓参りの帰り道、行きと同じ道を戻ってきたはずなのに……? 私は既視感があるけれど見知らぬところへ着いてしまったのだ。
自動運転の車が停まった。助手席で寝ていた私は急ブレーキの衝撃で目覚めた。フロントガラスの向こうに広がっているのは見たことのある風景だった。しかし、それがどこなのか思い出せない。自動運転をしているAIに「ここは、どこだ」と尋ねる。ナビゲーションシステムの表示パネルに、あの女の子が映し出された。彼女は言った。
「ここは地獄の一丁目。これ以上進むと戻れなくなるから、警告のために来たの。健康に気を遣って、少しでも長生きして」
私は笑った。悪魔に警告されるいわれはないからだ。
だが、そうでもないらしい。私が長生きすれば、それだけ私と関わり合う人間が増える。悪魔は、そういった人々を餌食にしていた。私に関係する者の数を増やすため、できるだけ私に生きていて欲しいとのことだった。
私はせせら笑った。助手席から運転席へ移り自動運転のスイッチを切る。同時にエンジンが切れた。
「悪魔め、そんなに人の魂が欲しいのなら、くれてやる。危険運転で歩行者を何人も跳ね飛ばしてやる」
そう言って私はエンジンを掛け直そうとした。イグニッションスイッチを押す。何も起こらない。もう一度押す。それでも駄目だ。顔を上げると警告メッセージがパネルで点滅していた。呼気中にアルコールが検出されたのでエンジンを掛けられません! とのことだ。飲酒運転による暴走事故防止のため義務付けられた安全装置が自動的に作動したのだ。
私は怒り狂って車を出た。持参した酒と薬をがぶ飲みする。何もかもを飲み尽くすと、行く当てもなく歩き出す。
どのくらい歩いたのだろう。気が付くと私は、ここにいた。見覚えのある道だった。しかし、ここがどこなのか分からない。現在地が不明なら、行く先も分からなかった。そして帰り道も分からないときている。
背後から女の子の声が、また聞こえてきた。
「帰り道なんてないよ」
その通りだった。私には帰る道などなかった。だが、それがどうした? 人生は一方通行の道路だ。後戻りはできない。人生とは引き返すことのできない旅だ。孤独な一人旅なのだ。
いや、そうでもないか……私は悪魔と二人連れだった。
振り返ると、そこに女の子の姿はなかった。私が帰るべき道も見えない。私が来た道の方角には、無辺の闇が広がっているばかりだった。