十三 フライデイ
13日の金曜日というのは、すべてに対する免罪符だと思う。
ガムを踏んでしまっても「ちっ、13日の金曜日だから仕方ねえや」で済ませられるし、車とすれ違いざまに泥水をかけられても「13日の金曜日だから、仕方ないわね」で済んでしまう。たとえお気に入りの服が破れてしまっても鳥に糞をかけられても買ったばかりのソフトクリームをコンクリートに垂直落下させてしまってもそれらは13日の金曜日であるがために起こった不幸なのだ。その日に起こる悪いことは13日の金曜日のせい。言いかえれば、すべての悪いことを13日の金曜日のせいにできるというわけでもある。
でも、だからといって。
「これはまずいよなぁ……」
思わず独り言をつぶやいた、あたしの手の中には、
こげ茶色の子犬が収まっていた。
冒頭から13日の金曜日について語ったのは、なにもショーン監督のファンだからというわけじゃない。本日晴天なりが13日の金曜日だからであり、悪いことが起こったから。いや、悪いことと一既に言ってしまうのはかわいそうだ。おもに犬が。よって訂正。それなりにあたしにとっては悩むべき悪いことであり、犬にとっては幸運な出来事が起こったから。
それなりの重量、そしてノミやら雑菌やらをふんだんに保持している生暖かい毛むくじゃらは、世間一般には犬と呼ばれる生物で、いうまでもなくイヌ科。そいつが、あたしの愛すべき貧乏臭い集合住宅のロビーにどでんと置かれていた。段ボールの中に座りこんで、馬鹿っぽく舌を垂らして。そしてうるんだ瞳を見開いて、あたしに向かって言うのだ。
「ワン!」
これがどうして抱き上げずにいられるだろうか。脳細胞が足りないと日々罵られているあたしにも、母性本能は備わっている。そして抱き上げた瞬間に気が付くのだ。大きな面倒事ごと奴を抱えてしまったことに。
淡い黄色の薄汚れたタオルの敷かれた段ボールには、ゴシック体で『この子を拾ってください』とマジックででかでかと書かれている。その心意気があれば自分が拾えやと文句を言ってやりたいところだが、そうもできない事情もあったのだろう。微妙に臭い犬の体に顔をうずめて大きく息を吸う。あったかい、なんて思ったのはつかの間、むせた。
あたしにだって、このこげ茶色の愛すべき生物が捨て犬ということぐらいわかる。それにしても、捨てるにしても場所ってもんがあるだろう。公園など遊具の中に捨てておけば雨風はしのげるし、かわいそうに思ったどこぞの子供が拾って帰るかもしれない。親に怒られて返すのが関の山だが、一軒くらいは財布も心もぬくもった家があるに違いない。十分にこの犬が幸せになれる可能性がある。
それに対して、マンションのロビー。言うまでもなくここはペット禁止だ。その上、マンションに住む人間というのは貧乏人か動物嫌いと相場が決まっている。うちの親は両方に当てはまるし、隣のおばさんだって犬嫌いだ。ここに捨ててなんかいたら、管理人に通報されてあれよあれよという間に保健所送り。ガスでプシュウとあの世行きだぜ。頭蓋骨を撫でてやると、犬は気持ちよさそうに目を細める。
「感謝しろよ、命の恩人に」
あたしの言葉が通じたのか通じていないのか、ぬるぬるとした舌であたしの頬をなめた。不快。段ボール箱の中に犬を戻す。今度はその段ボール箱ごと、犬を持ち上げた。この場に犬を残して行けるほど、無情にはなりきれない優しいあたし。
引っ越し業者にでもなった気分で、えっちらおっちらと犬を運ぶ。目指すは、人の多い場所。腕が限界に近付いてきたので、コンクリートの上にいったん箱をおろした。あたしの苦労など露知らず、犬はあほっぽくに舌を垂らしてはっはと息を吐いている。ちくしょう、むかついてきたぜ。
それでも犬を見捨てなかったあたしは偉いと思う。すれ違う通行人たちは小汚い段ボールを抱えた小学生を奇異な目で見ていたけれど、大して気にも留めないで歩いていく。否、気に留めないふりをして歩いていく。助けてほしくなかったと言ったら嘘になるが、自分から助けを求めるなんて何か癪な気がしたので、黙々と歩いていた。
誰か、どうしたのって声をかけてくればいいのに。
夕日がオレンジ色に景色を染め上げ、信号の影が落ちた道路では猛スピードで車が走っていく。あたしの横を通るたびに車体が光を反射してまぶしく、目を細めて歩かなければならなかった。重くなってきた足を上げて歩道橋を上り、その真ん中で休憩がてらに下を見下ろす。道路に、歩道橋から飛び出た丸い突起の影が落ちていた。その丸は、あたしが頭を動かすとゆらゆらと揺れる。視線を下げると、急ぎ足で行きかう街の人々。あたしは胸の奥から湧き出る衝動が抑えられなくて、咆哮する。両手を広げ、空に向かって高笑い。
「ふはははは! 人がごみのようだ!」
……虚しかった。何やってんだよ自分。
もちろん人の目はあたしの方に向けられるわけで。その子供の愚行を苦笑いする視線に耐えきれず、頭をひっこめて歩道橋の壁に隠れた。しゃがみこんだまま、箱をずりずりと引っ張って移動する。若気の至りを、小五にして悟ってしまった。
横断歩道を転がるように降りたら、目的地はすぐそこだ。この市で一番大きな駅の前。たくさんの大人が集まる場所。一人ぐらいは、この犬を飼ってやろうという気になる大人がいるかもしれない。いや、いてくれなきゃ困る。そのために、ここまで犬を抱えてやってきたんだ。
駅前の大きな噴水のふちに、大きく息を吐いて座る。足元には、やたらと足をなめてくる変態犬がいる。疲労と達成感でぼうっとして、麻痺した脳味噌で人ごみを眺めた。
スーツを着た人、おしゃれをした人、大きな人、小さな人。たくさんの人間という人間がいるのに、誰一人としてあたし達に視線を示さないのはどうゆうことだろうか。……13日の、金曜日だからだろうか。
ふと、足元の犬を見下ろす。あたしの足をなめるのに飽きたのか、汚れたタオルを引っ張っては遊んでいる。その犬に向かって、小さく話しかけてみた。返事が返ってくるなんて思ってないけれど、なんとなく。
たぶん、さびしかったんだろうな。誰も見てくれない、冷たい人ごみのど真ん中で、あたしは心細かったんだ。
「おまえ、不細工だなあ」
「…………」
なぜだ。なぜ言葉がわからないはずなのに沈黙するのだ。心なしか、恨めしそうに唸っているぞ。
耳は垂れているし、目はつぶらだけれど鼻がへちゃげている。とぼけた、とか、愛嬌のある、なんて言いようもあるだろうけど、あたしにはただの間抜け面にしか見えない。鼻息を荒くして、ふふんと笑ってみせる。
「よし、おまえはジェイソンだ。意義は認めん」
「…………」
機嫌をとるために、耳のあたりを指で掻いてやる。あっという間に目を細め、うれしそうに鼻を鳴らした。うん、やはりこやつは馬鹿だ。なんて単純。こんな奴を嫌いになったり、ましてや冬場に放り投げてしまう人間なんてよっぽどのひねくれ者に違いない。
ゆっくりと、ジェイソンを抱き上げる。柔らかいおなかに耳を押しあてると、どくどくという心臓の音が、ぬくもりが、ふわふわの毛皮ごしに伝わってきた。ジェイソンはくすぐったそうにもがき、あたしの髪に鼻を押しあててくる。それがこそばゆくて、小さく声を上げて笑った。
こんな風に動いているのに、こんなに馬鹿で、可愛い奴をどうして捨てたんだろう。捨てられたんだろう。
それどころか、なんでジェイソンはロビーに置かれていたんだ。あの場所を通ったのは、あたしが初めてじゃないはずなのに。誰かが、拾ってくれるとでも思ったのだろうか。それとも、自分のせいじゃない、関係ないと思って見て見ぬふりをしたのだろうか。
都合の悪いことは、見ないふり。悪いことは全部、自分以外のせいにして。全部を全部、13日の金曜日のせいにしてしまうのは楽だ。だって、それは責任を持たないということなのだから。
誰かのせい、きっと誰かがやってくれる。そうやるのが大人の処世術というものなら。
「……ジェイソン、あたしは大人になりたくないぞ」
「ワン!」
能天気で元気なジェイソンを段ボールの中に下ろす。その毛むくじゃらに少し頬を緩めながら、段ボールのふたを一枚ひっぱり、切り離した。ランドセルから取り出したマジックで、その段ボールに子供特有の歪んだ文字を書いた。小さな看板となった段ボールを精いっぱい背伸びして、掲げる。冷たい風を肺いっぱいに吸って、乾いた唇を開いて、声帯を思いっきり震わせる。一人でもたくさんの人に、届くように。
まあ、なんとかなる。世の中なんとかなると、田舎のじいちゃんも言っていた。運が良ければリアルジェイソンさんに遭遇しないだろうし、遭遇したって今日は仕方がない。
13日の、金曜日なのだから。
どうも、時計堂です。
昨日はカレーを食べた。嘘だよ!
昨日はラノベを十冊読み切った。嘘だよ!
昨日は勉強しなかった。嘘だよ!
今日はテストだ。嘘だよ!
嘘なんだって。
それでは、また御縁があったら。