花束、いずれ枯れる
世界に『花束』が蔓延した。
二十一世紀も四半世紀過ぎた日本で、その奇病は突如として現れた。
『花束病』と呼ばれる奇病、正式には『突発性花弁開花少女症候群』と呼ばれるそれは、名前の通り何の脈絡もなく人間の体を温床にして花が咲くという病気だった。
この病気が発症する条件は二つ。
一つは人間であること。今までに人間以外に発症した事例は一つもない。
もう一つは十代から二十代前半の女性ということ。
その二つさえ満たしていれば誰にでも発病しうる可能性があった。
初期の症状として軽いめまいが頻発し、次第に立っていられないほどの酩酊感を引き起こす。そして意識を失い、目が覚めると体のどこかに、多くの場合左右どちらかの眼球を蝕み、花が咲く。
そこからは個人差があるが長くて五年、短いと三ヶ月で群青の花が全身を覆い養分を吸い付くし罹患者を『死』に至らしめる。
もちろん、お国様は急いで奇病の拡大を抑えようとしたが、悲しいかな、今では世界のどこにでも見られるありふれた病気になってしまった。なにせ何故発病するのか、どうすれば進行を止められるのか皆目検討もつかなかったのだから。
分かっていることは一つ。
『花束病』によって咲く花は決まっていた。
その花の名前はアイリス。
現代において『吉報』だった花言葉を、たった数年で『不吉』へと変えた花。別れを意味する『愛』の花。
×
足立花梨は、未来を捨てた。
そうすることでしか自分に折り合いをつけることができなかった。
だってしょうがない、あの子が死んで、こんな自分がのうのうと生きているなんて考えられなかった、耐えきれなかった。
ただ、『――』を諦めただけのこと。
「行ってきます」
返ってくる言葉はなかった。
分かりきっていたこと。足立は大して気にした風でもなく家を出た。
三月も中頃になると、風にも暖かいものが混じり始めていた。それを頬で感じ足立は春が近いことを知る。土手を歩く彼女はふと河線敷に植えられている桜を見上げ、そこに小さな蕾が付いているのを認めた。
彼女は大して偏差値の高くない高等学校を卒業してから、散歩と称して朝から晩まであてどなくぶらぶらすることを日課にしていた。
職質を受けても堂々と学生ですと答えられるのは三月一杯まで。その特権を有効活用しようと日課にした散歩。
実際のところ、そんなことを思って散歩に出ても職質を受けたことはない。
ついでに言えば四月からは職もない。かといって大学に行くわけでもない。
四月からバイトすらしないニート。冷えきった家庭に巣くう穀潰し。
今はまだ学生だ、ギリギリ高校生だと自分に言い聞かせることでなんとか精神を安定させることができるタイプのクズ。
きっと四月になったら耐えきれないものが決壊して、部屋から一歩もでられなくなる。それが分かってるから彼女は今のうちに散歩と称して外に出るのだ。
足立花梨はそういった人間だった。
これからどうしようか、などと考えない。
足立花梨にとってこれからなど無いものと同義。
残った余生は適当に空費して終了。年内中には墓の下。それが足立が考えている人生設計とも言えない人生設計だった。
人通りは少ない。
朝早いということもあるのだろう。まだ、朝日が昇って数十分しか立っていない。時折ランニングしているおじさんとすれ違うくらいだ。
だからだろう。
まだ蕾をつけ始めたばかりの桜の下。そこに備え付けられているベンチに悠然と腰かけている人物がやけに目を惹いたのは。
はっきりとしない視界。近づくにつれてその人物の姿がくっきりとしだした。
女性だ。
寝間着にカーディガンを羽織っただけのラフな格好をした女性。年齢は自分と同じくらいか少し上ぐらいだろうと足立は睨む。
「――――!」
そこまで見て気づいてしまった。
女性に左目はなかった。
代わりにそこにあったのは――。
「なに、してるんですか? こんな朝早くに」
足立は気づいたらベンチの女性に話しかけていた。
「…………? ぼーっとしてるのだけれど」
適当で曖昧な返答に、「なんだこいつ」と足立は思ったが顔には出さなかった。具体性のない行動をしているのは自分にも言えることだ。
「なんで、ぼーっと?」
そういいつつ、その女性の横に腰かける。
女性は驚いたのか少し残った目を見開き、私を見る。やがて、口をぱくぱくさせながら、自分の左目を指差して言った。
「……あなた、目が悪いの?」
「ちゃんと見えてますよ」
「じゃあ頭が悪いのね、物知らず?」
「初対面の相手に失礼だな」
ため息を吐きつつ、相手の顔をまじまじと見つめる。
「『花束病』は近づいたくらいじゃ感染しませんよ」
女性の左目にはアイリスの花がこれ程かというほど刺さっていた。
ある意味では見慣れた花。受験勉強などそっちのけで数か月前までよく調べた病気。
「そもそも感染する病気じゃありません。ウィルス性か細菌性かも定かじゃないですし」
ぽかんとする女性を無視して調べた知識をひけらかす。
「完全に発病しないように予防するのは無理、完治させるのも無謀。他人には移らないけど、花を抜いて他人の臓器と入れ換えても無意味、すぐにまた花が咲く。――振り直しの効かないコインみたいな病気ですよ。裏が出たら何をしても表にはならない」
かつて、『花束病』を発病した人間の被患部とそれに対応する健常者の体の部位を交換する実験があったが、結果は意味のないものとなった。患者にはまた花が咲き、健常者の方は逆に移植した花が枯れたのだ。
かかる人はかかるし、かからない人にはかからない病気、と付け加えて女性を見る。すると、驚いたように左目を押さえていた。
「詳しいのね……あなた、名前は?」
「……貴方の名前と、ぼーっとしていた理由を教えてくれたら言いますよ」
そう言うと女性は気取った口ぶりが気に障ったのかやや顔をむくらせたが、素直に口を開いた。
「わたしの名前は九法宮楓。……ぼーっとしてたのは……少し考え事をしていたから」
その返答は理由を答えていないのと同じだろ、と足立は思ったが、たいして知りたいわけでもなかったので深くは突っ込まなかった。
代わりに口にしたのは自分の名前。
「私は足立花梨」
足立はそう言った後に、こういうときのために用意しておいた文言を吐いた。
「学生です」
それが、未来を捨てた『足立花梨』と未来のない『九法宮楓』の出会いだった。
×
「で、学生の足立花梨さん、なにかご用かしら? 物珍しいだけの興味本意ならお帰り願いたいのだけど」
「まあ、いいじゃないですか、興味本意だろうと一目惚れだろうとめんこいなだろうと、少しお話しするくらい」
「意味がわかりません」
足立渾身の軽口を切り捨てた九法宮はそのままぷいっと顔を背けてしまった。
その様に苦笑いしつつも足立は口を開いた。
「家に居づらいんですよ、かといって遊ぶ金もないからぶらぶらしてるわけ。そんなわけで暇だから話し相手になってくれると助かります」
「……勘当でもされたの?」
「手厳しいこというなぁ」
けど似たようなところです、と答えた。
「まあ、そういう訳で。暇潰しに話をしましょう。考え事してたんでしょう。悩みごとでもあります? 私でよかったら相談に乗りますよ」
「ぐいぐい来るわね、あなた」
若干引き気味に顔をひきつらせたが、それでも九法宮は苦笑いを浮かべつつ恐る恐るといった風に口を開いた。
「悩みといっても見た目通りの悩みですけどね。……あなた『花束病』を見慣れている風ですけど、もしかして身内にいる?」
「……私も相当ですけど、貴方も貴方で空気読めないんですね。こっちはまだその傷が癒えていないっていうのに、悲しいなぁ」
足立は感情を込めずに棒読みになるよう努めた。気にしていない風に振る舞う彼女なりの茶目っ気だった。
が、その言葉を言われた当人にとっては気がかりにもなる。九法宮は顔に影を落とした。
「…………。ってことは『いた』のね」
「……そんなとこです、アイリスの花とは浅からぬ仲ですよ」
「最後どんな感じだった? ……ああ、『花束病』のことを言ってるのではなくて、家族とか友人とかのこと」
「悲しみしたよ、みんな。憐れんで憐れんで、お陰さまで家庭崩壊しました」
「……ごめんなさい」
足立はいえいえと答えつつ、隠すでもなくまじまじと九法宮の顔を見つめた。
「で、そちらは余命幾ばくで?」
「……まだ、宣告は受けてないわ。でも……」
「長くはないでしょうねぇ」
九法宮の言葉を引き継ぎ足立が告げる。
『花束病』を発症したら長くは生きられない。長くて五年だ。
「発症時期はいつです?」
「ちょうど一年前。……見えるところだけだとあんまり進行していないように見えるけど、服の下とかもうけっこう花畑になってる」
「一年ですか……妹もそれくらいの時期に余命宣告受けました」
「そう……妹さんだったの。……ちなみに余命何ヵ月だった?」
「半年持てばいい方って申告で、実際に逝ったのは一ヶ月もありませんでした。ヤブもいいところでしたよ、あの医者。見立てと全然違ってすぐ逝きましたからね」
「……そう」
それきり会話は途切れた。
足立の言葉に九法宮は何を思ったか、口は閉ざされたまま片方しか残っていない眼で自分の手をじっと見つめるのみ。身じろぎ一つしなかった。
足立も足立でため息の一つもつかず桜の蕾を見上げ口の一つも動かそうとしない。
そのまま二人は動かなかった。
日は高くに昇り、人通りが増え、不審な視線を浴びせられても、二人はじっとその場に座っていた。
離れようとしなかった。
二人はその時間を永遠のように感じれたし、同時に一瞬のようにも感じれた。
しかし、どのように感じようと時間は進み、別れは来る。
「また、明日会えるかしら」
最初に口を開いたのは九法宮。
病院に行かなくてはいけないの。彼女はそう言うとぽんと立ち上がり、足立のことを見下ろした。
足立は肩を竦め、自嘲げな笑みを浮かべた。
「三月一杯まではここに来ますよ」
それからというもの足立は蕾をつけはじめた桜の下のベンチに毎日のように脚しげく通った。
足立がつく頃にはそこに当然のように九法宮がいて。
二人は話をしたりしなかったりと過ごしながら残った時間を空費した。
何が好きか嫌いか、どこに旅行へ行きたいか、昔は何になりたかったか、果てはやけに鼻息の荒くなった九法宮のもと恋バナなんかもしてみたりした。
会話が途切れたときもあったが、しかし足立はそんな時間すらも好ましいと感じていた。
落ち着いたのだ、彼女といると。
まるで、ぽっかりと空いた穴にぴったりとはまる感覚を彼女といると覚えた。
そんな関係をずるずると続け、気づけば二人が出会って一週間が過ぎた。
その日も二人、ベンチに腰かける。
「エンディングノートを書き始めたの」
「なんです、そのノートは? ひょっとして名前をかかれると三十秒後に心臓麻痺で死ぬノート? しくったな、名前教えちゃったよ……」
「……だとしたら、あなたの名前は何回でも書くでしょうね」
九法宮は呆れたようにため息をつき、懐から一冊の本を取り出した。それを見せつけるように高々と掲げると、見上げた足立に落とした。
ぱしん、と軽い音がしたのと、いたぁっという小さな悲鳴は同時に重なった。
「なにするんですか?!」
「あら、ごめんなさい。叩きやすそうだったのでつい」
まったくもうと、頭を擦りながら足立はノートを受け取り中をパラパラと読みはじめた。
目に入ってきた内容は、見てみればどうして『エンディングノート』と呼ばれているのか納得するものだった。
「遺書……?」
「ええ。遺書ほど堅苦しいものじゃないけれどね」
へぇ、と感嘆しつつ足立はページを捲る手を止めなかった。
葬式の様式や呼びたい人、遺品をどうしてほしいかなど色々と書いてある。
中でも足立の目を惹いたのは――
「死ぬまでにやりたいことが恋人を作る、ね……」
死ぬまでにやりたいこと、と書かれた下に赤文字でデカデカと恋人を作ると書かれていた。
そういえば恋バナをしたときやけに熱がこもっていたなと思い出す。
「乙女ですね」
「乙女ですし」
呆れ気味に吐いた言葉に、九法宮は恥ずかしげもなく胸を張った。
「だけど絶望的でしょうね、誰が好き好んで頭お花畑の女を恋人にするでしょう」
「誰が頭お花畑よ! 顔に関しちゃ左目だけよ、お花畑になってるのは!」
「見ればわかります」
心底呆れたようなため息を漏らす。
だが、以前あの子も恋人が欲しいと言っていたなと思い出して……。
「…………」
その呆れは九法宮に向けたもののはずだった。しかし、見つけてしまった。捨てたはずの後悔をまだ手元に残していた自分のことを。
足立は未練たらたらなそんな自分に呆れ果てた。
「お詫びに、私が恋人になりましょうか?」
呆れたらものが言えなくなるなんて嘘だ。足立は世迷い言を吐きながらそんなことを思った。
突然告白をされた九法宮はこれ程かというほど顔をしかめる。
「……なに馬鹿なことをいってるの」
「わりかし本気なんですけど」
おどけたように肩を竦めて見せても九法宮のしかめっ面は変わらない。
しくじったなと足立は思った。脈なしか……。
取り繕うように顔を背け、矢継ぎ早に口を動かした。
「ま、そっちが嫌なら忘れ……」
「嫌じゃないっていったらどうするの?」
彼女の言葉に驚いて顔を見ると、悪魔を射殺しそうなしかめっ面はそのまま。
だがしかし、鋭い瞳の奥にわたあめができるのを心待ちにしている子供のような期待が籠っていることに気がついた。
「じゃあこうしましょう」
逸る気持ちを押さえつけ、口角が上がりそうになるのをぎゅっと耐える。
「このまま貴方にキスします。嫌なら私の頬を張ってください」
「……ビンタすればいいのね」
ええと答え、九法宮の顎に指を添える。
九法宮の顔を自分の方に向かせたところ、緊張からか顔を赤くさせているのがよく見えた。
近づくにつれ、九法宮は我慢できなくなったのか目をぎゅうっと固く閉じる。腕も胸の前で祈るように組まれていた。
眼窩から飛び出たアイリスだけは足立の事をしっかりと見ていた。
思わず苦笑が浮かんでしまうほどの可愛らしい反応……それに収まることなく飛び出た可憐なアイリス。
(あの子と一緒……)
既視感が胸を焦がす。
もう二度と手に入らないと思っていた温度。
見ることも、触れることもできないと諦めた愛らしさ。
彼女こそ私にとって欠けていたもの。
指先が溶けそうになるほどの熱に触れ、目蓋をアイリスに擽られながら唇が触れあった瞬間、足立は確信した。
それは足立花梨にとって二度目のキスだった。
×
「恋人ができたよ。けど忘れたわけじゃないよ」
自室にて一人、少女の写った写真立てに話しかける。
「代わりなの」
写真の中の笑顔が眩しい。
ちっとも歪むところを想像できない。
だから、この報告を聞いてるあの子はきっと笑顔だ。
足立はガラスを扱うように優しく撫でた。そうやって触れないと壊れてしまいそうだったから。
窓の外は夜の闇で真っ黒として冷え冷え。だが、心の内は熱が冷めることなく未だにドキドキとうるさい。
キスなんて、もうしないと思っていた。
貴方のことをもう忘れることができたと思っていた。
「……あは、忘れてたら話しかけてないか」
あの日、九法宮楓と出会った時を思い出す。
ベンチに腰かけ、深刻そうに顔をうつむかせている姿が、左目に咲かせたアイリスが、あの子と重なった。
「未練たらたらなお姉ちゃんでごめんね……」
写真の中の笑顔は変わることはなかった。
×
恋人になって翌日。
足立は楓を膝枕していた。楓が甘えてねだった結果だった。
「なんで『花束病』で咲く花はアイリスだけなんでしょうね」
「そういう病気だからじゃない?」
膝の上に楓の頭を乗っけた足立は大して面白味のない返答をした。
確かに以前気になって調べたことがある。
しかし、アイリス自体にこれといった特別性はなかったため調べることを途中で放棄していた。
一つだけ普通のアイリスと違うとすれば受粉しないことが挙げられる。『花束病』で生えてくるアイリスにおしべが無い上に、『花束病』と関係ないアイリスで受粉させようとしたが、失敗に終わっている。
「私はこの花はアイリスに見える別の花なんじゃないかとすら睨んでるよ」
「きゃっ」
左目に咲いていたアイリスをつんとつつくと楓は小さな悲鳴を挙げた。
「ちょっと、勝手に触らないでよ、びっくりしたわ」
「はいはい」
謝罪の代わりに頭を撫でる。楓はおざなりな返事に眉を上げたが、それでも頭を撫でられている内に次第に頬が弛みだした。
ちょろいなと拍子抜けしながら足立は会話を続ける。
「それにしても不思議ですね。花にも触覚があるなんて、髪にだってないのに」
「……私としてはあなたが私を膝枕している方が不思議なのですけどね」
「楓がお願いしたんでしょ」
「そうだけど、そうじゃないの。……あなたと恋人になるなんて思わなかったの」
「私としてはナンパのつもりで話しかけたんで、想定の範囲内ですけどね」
「というところで言うと私は見事釣られた訳ね」
穏やかな春の日差しと、舌に馴染む軽口の応酬に自然と頬は弛み、交わされる口調は柔らかなものであった。
「ねぇ、花梨はイリスって知ってる?」
「今日はやけにアイリスについて話したがるね……知ってる、神話にでてくる人でしょ」
イリス。それはギリシア神話において神ゼウスの妻ヘラの侍女をしていた美しい女。イリスはその美しさからゼウスに何度も求められたが、イリスは拒否。仲の良かったヘラにお願いして地上に逃がしてもらった。イリスが降り立った地にはアイリスが咲いたという。
イリスについてざっくりと話すと、楓はそうそうと頷いた。
「その話を知って、アイリスって祝福の花なんじゃないかと思うときがあるの……」
「……馬鹿なこといいますね。神話の方はともかく、病気の方は死んじゃうんですよ」
「でも、これがなかったら花梨と会えなかった」
そう言われると口ごもってしまう。『花束病』でなければ話しかけも、目を惹きつけられもしなかっただろうと、納得してしまったからだ。
何も言えないでいると、楓は続けた。
「アイリスに『愛』って花言葉があるのは知ってる? それねさっきの話が由来だと思うの。神話の中ではねイリスとヘラは仲が良かったそうなのよ、だから別れの時にあなたが大切だった、好きだったと愛を伝えるためにアイリスの花を咲かせたんだわ。私はそんなアイリスのお陰で恋人が――好きだと言える人ができた。今の私にアイリスが咲いていても納得ね」
その言葉はやけに穏やかだった。
言葉の節々にロマンチックなのが好きなんだろうなぁと感じていただけに、その逸話が彼女好みのものだろうとすぐに分かった。
だけれど、それは――
「ちがう……違うよ――!」
分かったが、理解することはできなかった。
アイリスのことを愛しげに話さないでほしい。足立が抱いた黒い気持ち。
その花のせいで大切な人がいなくなる。そのことを楓は分かっていない。
得も言われぬどす黒い激情が足立の中で沸き立った。
「愛を伝えるため? 納得? バカ言わないでよ! 死んじゃったら伝わらないじゃん! それに好きって気持ちを花なんかで伝えてほしくない。会って目の前にいて話して触れて、そうやって好きな人を感じていたい。どこか遠くにやるんじゃなくて、近くでぎゅっと守りたい! いなくなって欲しくないよ!」
溢れてくるのは捨てたと思っていたもの。
それは止めどなく溢れでて押さえることができなかったし、押さえようともしなかった。
ずっと行き場のなかったその感情が、穴の空いた水槽のように一点に向かって吹き出した。
一点、すなわち九法宮楓に。
溺れそうな感情の濁流に楓は面食らい目をぱちぱちとさせると一変、どこか陰のある笑みを浮かべた。
その笑みにぎょっとする。見た瞬間になにも言えなくなった。
足立はその笑みを知っている。
何かを諦めた笑みだ。
楓は笑みを浮かべたまま、足立の上から頭を退けると立ち上がった。
「感じたいほど好きで、ぎゅっと守ってあげたいって、誰のこと?」
楓――九法宮からの問いに、息が詰まる錯覚を受けた。
苦しい。辛い。まるで無理矢理顔を水中に押さえつけられてるみたいに。
助けてほしかった。
助かりたかった。
だから、『好きな人』を捨てて、未来を諦めて。
――私はあの子を諦めきれなかったんだ。
そんなこと九法宮に出会ってからずっと気づいていた。
気づいていながらも、その事実から逃げて甘えて代わりにして……今、逃げてきたつけを支払うときがきただけのこと。
「わたしは……」
九法宮がじっと足立を見る。視線が痛い。
それでももう逃げられなかった。逃げられる場所などどこにもなかった。
「私は、妹と……付き合ってた」
×
「もともと仲のいい姉妹でした。けど、妹にアイリスが咲いて……」
「それがきっかけで付き合いだした……と」
「ええ、けどタイミングが悪かった。キスしてるところを母に見られ、父にバレ。私達姉妹は親に話を聞いてもらえず、拒絶されて、悲しみの内に妹は息を引き取りました」
「それで勘当?」
「ええ……去年は妹につきっきりで、空いた時間もアイリスについて調べてたから、当然受験勉強もしてなくて……はは、気づけば、恋人も、家族も、学歴も、全て無くなってました」
ほんと笑える。
逃げれないことを開き直って自虐の笑みを浮かべる。
「正直、貴方のことを妹の代わりだと思って接してましたよ」
「はぁ……」
九法宮は盛大にため息を一つ。
彼女は白けた目を向けながら、足立の隣に座り直した。
「じゃあ、私もあなたのことを都合のいい恋人だと思うことにします」
「え」
足立の口から間抜けな声が漏れた。それほどまでに意外なもので。
「別れないんですか?」
「どうせ長くないわ。初めてあったとき言ってたわよね、三月一杯までしかここに来ないんでしょ、もう一週間もないわ」
「……そうですね」
ふっと体から力が抜けた。
肩透かしもいいとこだ。
もっと気持ち悪がられたり、非難されたりするものだと。
逃げれないと思っていた。だけど、実際には九法宮は楓の苦しみに触れようとしなかった。
その九法宮は目を細めた。その姿はまるでここじゃないどこかを見ているようで……。
「花梨、私はもう長くありません」
「……どうしたんですか、突然」
「いいから、聞きなさい。……長くないから、あなたに妥協するんです――」
それに――
「あなたが揚げ足とりで、ひねくれてて、悲嘆家なのはここ数週間の付き合いで分かってます」
「うわぁボロクソ」
「自覚はあるでしょう。……そんなあなたでも、私が辛いときに一緒にいてくれた。なによりあなたの隣にいて落ち着く自分がいるの」
思い出すのは出会った時のこと。
彼女は悩んでいるのかぼぅっと日も昇っていない薄暗い世界を見ていた。
あの日、彼女は何を悩んでいたのだったか。
「恥ずかしいけれど、生まれてから生涯一番辛かったあの日――あなたと出会った日、私があそこにいた理由はあなたと同じなの」
「それって……」
「家族と折り合いが悪いのよ」
これのせいでね、と言いながら彼女は左目のアイリスを撫でる。
「もうじき死ぬことが確定している子供にどう接すればいいか分かる親なんていないわ」
「……喧嘩でもしたんですか?」
「逆、私に病気がないように振る舞い始めたの。それが嫌で家族から逃げちゃった。……こんなに不安で苦しいのに理解されず、逆に不安を押し付けられる私に……未来はないのよ」
「……」
妹に手を出し家族からいないものとして扱われるようになった足立と、家族に都合のいいように扱われ実の姿を見てくれない九法宮。
大切なものを全て失い未来を捨てた足立と、大切なものが自分のことを受け入れてくれず未来の無い九法宮。
似ているな、と足立は感じた。
「あなただけよ、私のこれを見て同情も拒絶もせずに隣に居てくれたのは」
「……私も、妹のことを話したらもっと引かれると思ってました」
「それは引いた」
軽口に二人して笑う。
大して面白くない。
でも、空虚な笑い声は中々止まらなかった。
不意に風が強く吹いた。
吹いた風は二人の笑い声を巻き上げ、天高くに消えていった。
「……三月以降も来ますよ」
足立は風を追って空を見上げた。
そこには花が咲き始めた桜が。
視界一面をピンクに染めて、花梨は言う。
「楓がいるなら、外に出るよ」
その言葉を聞いた楓も上を見上げて、ピンクを見る。
来年も見れるかどうか分からない景色に何を思ったか。
だがこれだけは言える。彼女は遠くを見ることを止めていた。
「じゃあ、私も来れるまでここに来ましょうかね」
はらりはらりと世界に花びらが舞う。
どちらにせよ未来の無い関係。
それでもその関係に居場所を見つけてしまったから。
二人は何も言わずに舞い落ちる桜の花を見続けていた――。