医者さえいれば
バタン、とドアが開かれる音が聞こえて、私は顔を上げた。
無言で家に帰ってきたライラを立ち上がって出迎えると、ライラは私の顔を見つめるなり、ハァ、と野太いため息をついた。
「ライラさん……」
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと疲れてしまって」
「無理もないよ、ライラ。それで、患者は? 原因は?」
「それもまだわからないわ。対症療法を施してるだけよ。原因についても同じ。症状が患者によってまちまちで特定ができないの」
ライラは左手で額を押さえ、もう一度ため息をついた。
「もう半月になる……一体何が原因なの? 水? 食べ物? それとも未知の病原体なの? 王都中の医者がよってたかって原因の特定もできないなんて……」
ライラは美しい顔に色濃い疲労と焦燥を滲ませて呟いた。
その消耗の仕方に、私だけでなくロランも心配になって眉をひそめた。
王都で謎の奇病が発生してから、既に二週間が経過していた。
ユリアン王子が直々に事態の収拾に乗り出したことによって、一応治安こそは保たれているものの、次々と無差別的に人々を殺傷する奇病によって王都は恐慌状態に陥り、現在、商業や物流、人の移動など、あらゆる活動がほぼ停止状態にある。
百数十年前の黒死病の大流行の教訓に則り、酒場や公衆浴場などの施設、教会までもが封鎖され、王都への入出は厳しく制限され、王都は封鎖状態にあり、その内部も戒厳に近い状態だ。
当然、私たちも王都に留め置かれることになり、今現在もこうしてライラの家に厄介になり、一日中息を潜めて過ごすしかなくなっていたのだった。
「まぁ、その……なんだ。患者も心配なのはわかるがよ」
今まで無言で腕を組んでいたレオがぼそぼそと呟いた。
「一番考えなきゃいけないのはアンタの体調だぞ。最近ますます帰りが遅くなってるじゃねぇか。たまにはゆっくり休んだほうがいいんじゃないのか」
確かに、レオの言う通りだった。
もう既に深夜と言える時間になっており、ライラの深夜帰宅はこれで二週間目だ。
日に日に疲労が蓄積してゆき、肌も髪も色艶を失っていっているように見える。
なまじ美しい人であるためにその枯れ方が凄絶に、痛々しく見えた。
レオの気遣う言葉にも、ライラは薄く苦笑して首を振った。
「お気遣いありがとう。でも、医者は休めない時は休めないものよ。大丈夫よ、最低限の休息はいただいてるから」
「けどよ……」
「それに、何日も休養できてないのは私だけじゃない。王都中の医師全員よ。私だけが休むわけには……」
と――そのとき。
トトト……と背後から足音が聞こえ、私は振り返った。
いつもは物陰からじっとこちらを見ているはずのアランがやってきて、ライラの足にひしっと抱きついた。
「アラン……」
ライラが少し驚いたように言っても、アランは離れようとしない。
無言で、それでもしがみつく手に力を込めて、アランはじっとしている。
その反応に忘れかけていた何かを思い出したのか、ライラの表情がふっと緩んだ。
「ああ……ごめんなさいアラン。最近あなたとゆっくりお話も出来ていないものね」
ライラはアランの前にしゃがみ込むと、アランの肩を抱いた。
「最近はどう? 私がいなくて寂しかったかしら?」
アランは無言で首を振り、そのまま私たちに視線を移動させた。
そのまま、トトト……と無言で母親の側を離れたアランは、レオの足にひしっと抱きついた。
その行動を、流石は母親の勘で察したらしいライラは眉尻を下げた。
「ああ……レオ、あなたがアランのお友達になっていてくれたのね? ありがとう」
「あ、いや、ただ単に暇だから一緒に過ごしてるだけなんだけどよ……」
そう言って、レオはなんだか気恥ずかしそうにボリボリと眉尻の傷跡を掻いた。
二週間前、この家に厄介になり始めた時は遠巻きに私たちを見ているだけだったアランも、最近は格段に近くに寄ってくるようになっていた。
私やロランは家の中で一緒に本を読んだりしているのだけれど、とりわけ懐かれているのはレオだった。
こう家にいたら身体が鈍る、とぼやき、中庭で身体を動かし始めたレオの側にアランが寄ってくるようになったのはこの一週間ほどだ。
そのうち子供好きの血が騒いだらしいレオが、そこらの布切れで拵えた即席のボールを投げ合ったりして遊ぶようになると、アランは四六時中レオの側を離れることがないようになっていた。
「アラン、もう時間が遅いわ。私を待ってて疲れたでしょう? そろそろ寝なさい」
ライラが母親の声で言うと、アランはこくりと頷き、レオの下から離れて自分の部屋に帰っていった。
がちゃ、バタン……とドアが閉まる音が聞こえた時点で、ライラは疲労とは違うため息をついた。
「全く、私は母親失格ね……あんな幼い子を独りで放っておいて、一緒に過ごす時間も取れないなんて」
「そんなことはないよ、ライラ。アランはいい子だから、きっとわかってくれているさ」
「それでも、彼に寂しい思いをさせてることには違いないわ」
ライラは少し俯き加減になった。
「今は有事だから仕方がないかもしれないけれど……そうでなくても彼には負担をかけているわ。たまに一緒に寝てやることもできてない。王都は忙しいから」
「ライラさん……」
「あの子のためにもう少し一緒に過ごせる時間があればいいんだけどね」
ライラはそう言って、部屋にあるソファに腰掛けた。
「あの子とはもう何年も一緒にゆっくり過ごしたりしたことはないの。ノーマン先生やロレッタは私を気遣ってくれているけど……先代の聖女様が亡くなられてから、貧民街への医療的な支援も細っているからね」
ライラは遠い目をした。
「私の夢はね、王都を離れて僻地で開業することなの。もちろん王都は離れがたいけれど……この国には医療の手が届かない人々がたくさんいるから」
ライラの神秘的な赤い目に、少しだけいつもとは違う光が浮かんだ気がした。
「貧民街だけじゃないわ、農民たちや辺境に住まう人たちだって、本当はもっと救える命があるはず。そういう人たちのために働くことが私の夢であり目標なの。しっかりとその土地に溶け込んで、しっかりと根を張ることが出来たら……もっとあの子のためにもなるんでしょうけれどね」
夢、か。私はライラの言うことに深く関心を覚えた。
農村を襲う苦難――それは何も飢饉や不作、天候不順だけではない。健康の問題も大いに悩ましい問題のひとつなのだ。
貧民街もそうだけれど、とかく農村の貧困というものは、往々にして真っ先に健康の問題として表出する。
高額な医療費を払うことができない貧農の家庭にとって、医者にかかることなどは夢のまた夢、当然採りようのない選択肢であるのが普通なのだ。
そのため農民たちには根本的に医学的な知識や常識が足りず、病気は寝ていれば治る、というような貧しい医療観念しか持ち合わせていないことが殆どだ。
さらに、一家の大黒柱である父親が長患いになったりすれば、それだけで家計の火は消えてしまうのだし、その医療費は家計を重く圧迫するだろう。
畢竟、長患いになった患者が取るべき道はたったひとつ――自分の存在が家族の負担とならぬよう、自ら命を断つことだけだ。
それもそのはず、減らせる口は減らさねばならないという極めて過酷な現実が農村には常に横たわっていて、その皺寄せは常に弱いものにやってくる。
それが長患いの末の自殺、乳幼児の死、風邪をこじらせたことによる重い後遺症などの悲しい現実として現れてくるのだ。
だが、そんな農村にもし医者がいたら?
原因を特定することもなく、治療の目処も立てず、ただ寝ているしかない現実に医療の手があれば?
そうなれば、農村に忍び寄ってくる三つの貧困――健康の貧乏、お金の貧乏、心の貧乏のひとつ、健康の貧乏を駆逐することが出来るのだ。
もし、ハノーヴァーの辺境にもライラのような医師がいたら。
その太陽のような存在はもっと人々の幸せを底上げしてくれるに違いない。
そして今まで療養の甲斐なく死んでゆくしかなかった農民たちにとって大きな福音となるに違いないのに――。
と――そのときだった。
ざわざわ、という人々の騒ぐ声が戸口の外に聞こえ、私たちは同時に顔を上げた。
この所書籍化作業のため投稿が滞っていて申し訳ありません。
まだもうちょっと書籍化作業が続きますため更新が遅くなります。
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