アリシアとは違うもの
あの舞踏会から、三日が経過しようとしていた。
私が宮殿の私室で茶を飲んでいると、ユリアン王子が思い出したように口を開いた。
「あれから三日だ。そろそろ訊いてもいいかな」
私はティーカップをソーサーに戻し、「何なりと」と澄ました声で答えた。
「ノエル。あの晩、君はハノーヴァーの倅に何を言ったんだい?」
やはりバレていたか。私は内心に苦笑した。
あの日の夜、私が飲みすぎたから中座したいと言い出した時、ユリアン王子は一瞬苦い顔をしたものの、それでも私のやることを止めようとはしなかった。
どうかやりすぎないように。その一言を承諾と受け取った私は、そのまま控室に取って返し、人払いをした上でロランとの会見の場を作ったのだった。
私はしばらく考えてから答えた。
「別に――なんでもない世間話ですわ。ゆくゆくは彼の義理の妹になる上での、ごく内密の話です」
「その内密の話をするのに髪まで切ってアリシアに化けたのか、君は。ナイフか何かで乱雑に切ったんだろう? せっかくの美しい髪なのに台無しだ」
ユリアン王子も苦笑して私を見た。
よもやそこまでバレているとは思わなかった私は、ふとユリアン王子の顔を見つめた。
しかしユリアン王子の翡翠色の瞳には、僅かだが笑みの色がある。
私がやったことに呆れこそすれ、やはり責めているわけではないらしい。
「全く、君は一度やると言い出したら後に引かないからな。彼とただ話がしたいだけなら、わざわざそんなことをしなくても出来ただろう?」
「まさか。そうしなければ出来ない話をしてあげましたわ。たっぷりとね。父親があれだけのことをしたんですから、我々としては痛み分けですわ」
私の言葉に、参ったな、とユリアン王子が頭を掻いた。
「辺境伯にはしてやられたよ。まさかあんなに露骨に噛み付いてくるとは――全く、本当にああいうところは母上そっくりで嫌になる――」
口調こそ軽口の口調だったけれど、母、と口に出した時、ユリアン王子の目が少しだけ険を含んだのがわかった。
死してなお、産みの母であり、先代の聖女であった亡き王妃との間に残る確執。その深さを忍ばせるような色だった。
やはりあの夜――辺境伯があんなことをしでかした時――ユリアン王子があれだけの動揺を見せたのは、目の前に母の亡霊が現れたからに他ならない。
先代の聖女の双子の弟であるグウェンダル・ハノーヴァーのあの灰色の目に、ユリアン王子は忘れかけていた母の面影を見たに違いない。
そしてそれに続いてやってきた、元婚約者であり、母の生き写しであったアリシア――ユリアン王子はあの日、奇しくも二人分の母の亡霊に会わなければならなかったのだ。
相変わらず、この人は救われない人だ――私はほんの少しだけ、この見目麗しい王子の心に巣食う莫大な孤独を思った。
聖女であった母からの愛情を満足に受けられず、叔父である辺境伯には侮られ、無様に動揺したのを諸侯から笑いものにされた彼。
彼がどんなに母の幻影を振り払おうと足掻いても、聖女の息子ではない自己を確立しようとしても、つきまとう母親の亡霊がそれを許してはくれない。
先代の聖女の亡霊を振り切ろうとすればするほど、聖女は形を変えて彼の前にやってきて、彼の行いや思いを繰り返し否定する。
先代の聖女は偉大だった、素晴らしい人だった――皆がそう口にし、褒め称える度に、彼は母との記憶に一方的に苦しめられる。
彼が真に欲しかったのは聖女ではなく、母親だったのに――その孤独は、聖女という圧倒的な存在の前に何度でも掻き消されてしまう。
その気になればいくらでも寵愛や愛情を受けられる立場の彼が、大いに反発が予想される形で諸侯を王都に呼びつけ、その忠誠を求めた意味。
それは将来王になる自身の政治的な足固めというより、欠落した愛情を他者からの忠誠という形で補おうとしている悪あがきのように、少なくとも私には見えていた。
それは彼とこの上ない同調を感じている私にこそ――いやおそらく、私にだけ、強く感じられた。
ハァ、と重い溜息をついて首を振ったユリアン王子に、私は気を取り直させるように口を開いた。
「そう言えば、ハノーヴァーの令息が面白いことを言っていましたよ」
ん? とユリアン王子が私を見た。
私は少し笑いながら言った。
「アリシアのやつ、なんでも今は農民たちのギルドを立ち上げようとしているとか」
私の言葉に、ユリアン王子の顔がぽかんと弛緩した。
「ギルドだって? それも農民の?」
「ええ。わかってるとは思いますが、まだアリシアは健気に聖女の真似事をしているようですわね」
ハァ、と、今度は私がため息をつく番だった。
「本当に――この期に及んでどうしようもない姉ですわ。どうあっても彼女は生きている限り聖女であり続けるようですわね。全く頑固で嫌になりますわ」
「そうか――アリシアらしいな」
そう。全く以て、アリシアらしい。
ユリアン王子はぼんやりとした目で虚空を見上げた。
「アリシアもそこそこ変わったと思ったんだがな――」
「実際に変わったとは思いますわよ。何しろ、私のことを殴ろうとしましたからね」
えっ? とユリアン王子が私を見た。
「本当かい? アリシアが?」
「ええ、見たことのないぐらい不細工に怒っていましたわ。あんなに怒った顔を見たのは、小さい頃にチェリーパイを取り合って喧嘩して以来かも」
ふふふ、と私は笑った。
あれは五つか六つの頃だっただろうか。
大好物であったチェリーパイを私によってみんな食べられてしまったその時のアリシアは、それはそれはもう凄まじい勢いで怒っていた。
あの姉は昔から感情が限界を超えると顔が変形する悪癖があり、その時のアリシアの表情は二目と見られない顔で私の髪の毛を引っ張って怒り狂った。
あの晩、私に向かって右手を振り上げたアリシアも、実際そんな顔をしていた。
「どうやら、アリシアは本気らしいですわね」
「何がだい?」
「あの姉はハノーヴァー辺境伯の倅に本気で恋なぞをしてる、ということでしょう。あの夜、私が彼を誘惑しにきたとでも思ったんでしょうね。何しろあの目は本気でしたから――本当に、羨ましいことですわ」
「ほう、それは知らなかったな。アリシアにもちゃんと乙女心があるのか」
ユリアン王子は低い声で笑った。
一方的に婚約関係を解消してその関係を破綻させたとは言え、それは腐っても彼女と幼馴染であるはずの人間の声だった。
そう、アリシア・ハーパーという人間を知っている人間なら、彼女が怒ったというその事実は驚きの事実だ。
何しろ私だってあんな風にアリシアが怒るとは――覚悟はしていたけれど、正直に言って予想外だったのだから。
可笑しなところで意見の一致を見た私たちは低く笑い合った。
「そうか……今のアリシアは幸せなんだろうな」
ユリアン王子は、まるで死んでしまった人間を思い出すような口調で言った。
「心置きなく聖女でいられて、本当に心が通じ合う伴侶も出来た。僕みたいな人間と婚約者であり続けるより、彼女のためにその方がずっといいよ」
「何をおっしゃいますやら。アリシアだってそれを聞いたら怒りますわよ? あの婚約破棄はあなた様と私が悪い。おためごかしでそれを忘れてもらっては困ります」
「それはわかってるさ」
ユリアン王子は自嘲するように微笑んだ。
「それでも、今になってみればそう思わざるを得ない。どうせ僕と彼女が結ばれたって不幸になるだけだ。僕はどうしたって聖女の存在を許せない。つまり――彼女の事も遠からず嫌わなければならない。今まではそうならないように努力していただけだから――」
それはその通りだろう。私も素直に同意した。
あのままアリシアとユリアン王子が結婚して夫婦になっても、きっとその生活は遠からず破綻していたに違いない。
彼にとってアリシアとの結婚は母の亡霊と結婚するようなもの、絶対にうまくいきっこない道だったはずだ。
「本当に心が通じ合っている人間がいるということは、いいことだよ――」
ユリアン王子は老人のような口調で頷いた。
それはまるで、それがない自分の中の空虚さを再確認するような声だった。
あなたには私がおりますわ――とは、間違っても言うまい。
それは私たち夫婦の中にある絆を却って否定する行為だった。
私たちの間にあるのは、聖女が嫌いだという共通項だけ。
それこそが私たちの間にある絶対にちぎれない鎖であり、なおかつ、それは愛などという不確かなものではない。
愛情に飢える男と、愛されることでしか他人と関われない私は、最初からどうしたってお互いが望むものを与えられない。
私たちは同類であるからただくっついているだけで――だからこそ、絶対に離れることはない。
お互いに許せないところ、認められないこと、それを理解し、乗り越えるという煩雑なもの、所詮危うい壊れ物でしかない愛などというものは――私たちの中には存在しないのだから。
私は立ち上がって、物憂げに床に視線を落としているユリアン王子の前に進み出た。
「ノエル――?」
ユリアン王子が、驚いたように私を見上げた。
くす、とその顔を見つめた私は、彼の前に跪き、椅子の背もたれごと、ゆっくりとユリアン王子の首に腕を回した。
「の、ノエル――?」
「殿下、ご安心ください。決して心が通じ合うことがなくても、私はここにおりますから」
私は、私たちが絶対に離れがたいものであることを再確認するかのように、ユリアン王子にすがりついた。
ユリアン王子は少し戸惑ったように身を固くした後、それでもやがては私の抱擁に応えた。
おっかなびっくりの手付きで彼の手が私の背中に回ると、不思議な安堵が私の心の中に湧いてきた。
そう、それは片割れがここにあると、私自身に、そして彼自身に教え込む行為だった。
「私とあなたは共犯者、そしてこの世でただ二人、聖女を憎む人間。女神の意志に逆らう罪深い人間ですわ。そしてそれはハノーヴァーの令息とアリシアとの間にあるものよりも、ずっと強いもの――」
私は毒を流し込むかのようにユリアン王子に耳打ちした。
そう、乞食と聖女の関係でしかないあんな二人よりも、私たちの方が絶対に幸せだ。
アリシアの中にある知識を利用しようとする婚約者と、それに馬鹿正直に応え続ける人形でしかない姉。
そんな意志のない打算的な関係を愛だと勘違いしているあの二人よりも、もっと強い絆が、私たちの間にはある。
「アリシアとハノーヴァー令息がどれだけ愛し合ったとしても、私たちだけは決して騙されない。彼らは所詮聖女と、聖女に救われる側の人間でしかない。私たちだけはそれを知っている、知っているから否定できる、そんなものは愛ではないと嘲笑うことだってできる――」
そうでしょう? というように私は腕に込める力を強くした。
しばらくの無言の間があり、ユリアン王子は「……そうだな」と重く答えた。
「そうだ、そうだな、ノエル。僕らは共犯者なんだ。共犯者だから、僕らは一生逃れることは出来ない――」
そう、それがたとえ愛ではなくても――。
あんな醜悪な関係を続けるより、ずっといい。
私たちだけは施すことも施されることもしない。
聖女という私のない存在ではない。
私たちは自分の意志でここにいて、己の未来を作った。
使命感や慈愛ではなく、己の意志で抱擁し合うことが出来る。
それが愛ではないなら――私たちはそれでもいいはずだった。
他人のためではなく、ただ自分のために繋がっていること。
それだけは、アリシアやロランにはできっこないことなんだから――。
と――その時だった。
バタバタという足音が聞こえたと思った途端、私室のドアが勢いよく開かれた。
誰かと思って見つめると、この宮殿に控える侍従の一人だった。
「ユリアン殿下! も、申し上げます――!」
最初に出た言葉は、それだけだった。
大変慌てた様子の侍従は、膝に手をついて息を整えてから、抱擁の最中であった私たちを見てアッと声を上げた。
「あ! いや、こ、これはとんだご無礼を――!」
「あ、いや――よい。気にするな」
ユリアン王子はさっと私の身体から手を離し、椅子から立ち上がった。
「それより――どうした。随分急いているようだが、何があった?」
あっという間に王太子の顔になったユリアン王子の顔に緊張が走った。
通常、どんな大事があったとしても、普通ならば王子の下に直接侍従がことを報告しに来ることなど有り得ない。
通常は王の下にいる臣下の中で会議が持たれ、その結果を王や王子が追認ないし否認するという形で全ての意思決定がなされる。
だからこういう形での報告は何か余程のことがあったということ――王や王太子の直接的な意思決定が必要なことが起きたということになる。
その不穏な空気に思わず私も立ち上がったとき、侍従は青い顔で口を開いた。
「そ、それが――!」
この間担当さんと打ち合わせしてる時に言われた
「私、ノエル大好きですねぇ」という一言が嬉しかったです。
実は私もこのクソ妹大好きです。
昨今なろうを席巻する空前のクソ妹ブームの立役者の一人だと一方的に思ってます。
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。





