女神の裁き
「え、何――?」
今しがたの馬鹿騒ぎも忘れて、私が音のした方を見た、その途端だった。
ぐうっ、という唸り声の後、どさっ、という湿った音がそれに続き、通行人たちから悲鳴が上がった。
分かれた人垣の中心に――男が倒れていた。
男は胸を押さえ、呻き声を上げながら胸板を掻きむしっている。
あの反応は――!? と私の胸がざわついた時、ロランが先に駆け出した。
人垣を縫い、地面に転げた男に駆け寄ったロランは、その男を抱き起こした。
「おい君、大丈夫か!?」
ロランが揺すり起こしても、男は苦悶の表情を浮かべるだけだった。
まさか――ややあって側に駆け寄った私は、男の傍らにしゃがみ込むと、服の袖をめくり上げた。
しかし――しばらく丹念に眺めても、男の腕には黒い斑点はどこにもなかった。
となればこれは黒斑病ではないということか――とアテがはずれたような肩透かし感の一方、少しの安堵感も覚えた私は、周囲の人垣に視線を走らせた。
地面には、砕けた皿と、石畳にぶちまけられた料理がある。
入っている具材を見るに、おそらくアイントプフか何かだろう。
王都のこの商業地区には、朝食を安価で提供してくれる飯屋も多い。
男はこのアイントプフを口にしている間に倒れたのだ。
ふと、こっちを見下ろしたままおどおどしている、料理人の格好をした男性が目に入った。
私はその男性に向かって訊いた。
「あなた、この人が倒れたところを見ていましたね? 何がありました?」
私の質問に、男性はぶるぶると首を振った。
「お、俺は知らねぇ! ただ急にそいつが苦しみ出したんだ!」
「落ち着いて、別に責めているわけではありません。……この人が倒れたのはこの料理を口にする前ですか、後ですか?」
私の問いに、料理人は少し迷ったような表情を浮かべた後、「……口にしてすぐだ」と呻くように言った。
ということは、このアイントプフに何か毒が――と思った途端、ロランに抱え起こされた男が苦悶の声を上げた。
「胸が――胸が苦しい……! 灼けるようだ……! た、助けてくれ……!」
命そのものを振り絞るような、凄まじい声だった。
その声量の凄まじさ、そして男が言った「胸が灼けるようだ」という言葉に、私ははっとした。
この症状、まさか――私がロランを見ると、ロランも少し不審そうな顔をしたけれど、私の視線に頷いた。
「毒だ――間違いない」
ロランの言葉が、やけにはっきり聞こえた。
そう、毒。私たち貴族なら、必ず教え込まれる必須教養のひとつだ。
私たちは腐っても貴族、常に暗殺の危険はあり、中でも最もポピュラーなのが毒殺の危険性だ。
だから私たちは幾人もの毒見役を抱えてもいるし、いざとなったときは自分の身は自分で守るように教育されている。
なおかつ、この症状は――数ある毒薬の知識の中から当たりをつけた私は、再び料理人の男を見た。
「あなた」
「はっ、は――!」
「今すぐ大量の水を用意してください。用意できたら、すぐにスラムのノーマン医師に連絡を取って。出来ますね?」
「あっ、ああ……! ノーマン先生か、わかった! 水ならこの瓶の中にある。これで足りるか?」
男はごとごとと、カウンターの奥にあった水瓶を持ってきた。
「十分です。あとは医師を早く!」と言い置いて、私は倒れた男に向き直った。
「どうするんだい、アリシア?」
「とにかく、原因はわかりませんが、今食べたものを吐き出させます。ロラン様、彼を抱き起こして」
「わ、わかった――こうか?」
ロランが苦痛に身を捩る男の肩を抱き、ぐっと抱き起こした。
私はドレスの中からハンカチを取り出し、右手の人差指と中指にきつく巻きつけた。
そのままハンカチを左手と歯でしっかり縛り付けた私は、苦悶する男の口に容赦なく指を突っ込んだ。
そのまま、力任せに指を移動させ、男の舌の付け根を何回もしつこく押して刺激する。
「うぐっ……ぐえええ!」
「お願い、我慢してください……!」
私が祈るように言うと、ビクン! と男の腹筋が痙攣し、大量の吐瀉物が石畳の上にぶちまけられた。
「やった……!」と快哉を叫んだロランに向かって、私は「まだです!」と鋭く言った。
「ロラン様、柄杓で彼に水を飲ませて!」
「あっ、ああ、どうするんだ?」
「このまま水を飲ませて毒を吐かせ続けます! 急いで!」
その言葉に、ロランは迷いを捨てたような表情で柄杓で水を汲み、目を白黒させている男に飲ませた。
ごくん、ごくん……と男の喉が動き、すっかり水が消えたところで、私は再び男の喉に指を突っ込んだ。
がりっ、と、嫌な感覚がして、噛みつかれた私の指に鋭い痛みが走ったが、構ってなどいられなかった。
下唇を噛んで痛みに耐えた私が指を滅茶苦茶に動かすと、再び男が痙攣した。
吐瀉物の中にはまだ溶け切っていない固形物がある。
ロランが再び水を飲ませ、私が吐かせ、水を飲ませ……と四回繰り返したところで、ようやく男の口から出てくるのが黄色い胃液になった。
「よし……とりあえず応急処置は済みました……!」
私はホッとため息を吐き、ロランから水をもらって汚れた指先を洗い流した。
男はまだ苦しそうにしているが、その顔は随分血色がよくなったように思う。
呼吸も安定していて、とりあえずさっきのような苦しみは消えている。
「アリシア――彼は大丈夫かい?」
「わかりませんわ。後は医師の診察を待たないと……とりあえず出来ることはやりました、というだけです」
私が汗を拭うと、ロランは少し呆れたように言った。
「しかし……君に医学の知識があったなんて知らなかったな。君は一体どこまで知識があるんだい?」
その言葉に、私は少し笑ってしまってから首を振った。
「いえ――これは医学の知識というより、毒草を誤食してしまったときの応急処置です」
「え? 毒草を誤食?」
「ええ、飢饉のときはとりあえず食べられそうなものはなんでも食べてしまいますから――いざというときのために覚えておいてよかったですわ」
そう、これは医学の知識というよりは、飢饉への備えの一環だった。
人間、決定的に飢えた人間は木の根や雑草まで食べ尽くすもので、当然その中には有毒植物もある。
何度も水を飲ませ、胃液が出るまで嘔吐させ続ける――毒を素早く体外に排出するための応急処置の方法を覚えておいて正解だった。
「とりあえず、あとはノーマン先生の到着を待ちましょう」
「しかし――アリシア、さっきの症状はまさか――」
「ロラン様、いけません」
私は首を振った。
「私たちは医学については素人です。医師の到着を待たないうちに素人判断は禁物です」
「だけど――今の症状は……」
「ええ、多分私もそうだと思います。けど、街の人間相手にそんなことをする理由が――」
私がそこまで言った、その時だった。
キャーッ! という悲鳴が商業地区の壁をビリビリと震わせ、私は驚いて悲鳴の聞こえた方を見た。
そこに見えたのは地面にくずおれた若い男性と、狂ったように背中をさすっている女性の姿だった。
ガ……ガ……! と男性の方は地面に四つん這いになって身体を痙攣させ、両手で首元を掻き毟りっている。
「な、なんだ……!?」
ロランが大声をあげた途端だった。
今度は反対側からだった。グアアアア! という野太い男の絶叫、続いてグラスかなにかが割れる音が続き、その悲鳴に折り重なるようにして再びどこかで悲鳴が上がった。
その後、数分以内に賑やかな通りのあちこちで悲鳴や絶叫が聞こえ始め、賑やかな朝の商業地区の空気が一瞬で凍りついた。
「ギャーッ!」
一人の女性が金切り声を上げてその場を駆け出した。
それを見ていた人間たちが、一人、また一人と同じようにその場を駆け足で立ち去ると――後はもう止めることの出来ない流れだった。
客や通行人が見えない攻撃から逃げるかのように路地から駆け出し始め、地面にしゃがみ込んだままの私たちを蹴飛ばすようにして逃げ惑い始める。
「な、何……!? 何が起こってるの……!?」
私は誰の耳にも聞こえない声で叫んだ。
あっという間に商業地区は修羅場の様相を呈し始め、数分でもぬけの殻になった商業地区の地面の上に――ざっと十人にもなろうかという人々が取り残され、苦悶の声を上げながら転がっていた。
「どうしたんだ……!? 一体何があった!?」
ロランが困惑を露わにして言い、呆然と立ち上がった。
私もその隣に並び立ち、累々と転がる急病人たちを見つめた。
さっきまで、はちきれそうな活気に満ち溢れていた王都の商業地区は――一瞬で地獄へと変わり果てていた。
ある者は四つん這いになり、ある者は痙攣しながら身を悶えさせ、朝靄に煙る商業地区に陰鬱なハーモニーを響かせた。
露天や商店の売り声は今や完全に沈黙し、誰一人病人に駆け寄ることも抱え起こすこともなく、ただ戦慄に立ち尽くしたままだ。
それはまるで、無差別的な攻撃――。
人々の安穏とした生活を根幹から破壊しようとするかのように、老若男女の見境なく、場所も選ばず、一方的に始まった何事か。
その圧倒的で残酷な攻撃を目の当たりにしている私たちの横を、不意に生臭い一陣の風が吹き抜け、私の髪を揺らした。
これはまさに、女神様の裁き――。
その地獄の光景は、不意に、私にそんな言葉を連想させた。
「面白そう」
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そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
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