ハノーヴァー辺境伯令息に求婚された
力を尽くす。
婚約でもなんでもない、それは不思議な言葉だった。
私は少しだけ居住まいを正して言った。
「恐れながらロラン様、少しよろしいでしょうか」
「なんだい」
「私は、父母からハノーヴァー辺境伯様からの縁談が来たと聞いております。力を尽くす、ということはどういうことでございましょうか。それは貴方様が私との婚約を望む、ということか、それとも違うのか、今の言い方では判じかねます」
私は必要以上に事務的な口調で問うた。
これで破談になる話なら、最初からなかった話である方がいい。
全く、こういう計算を瞬時にするから私は愛されないのだと、自分の可愛げのなさに呆れてしまう。
「正直、私を聖女としてハノーヴァー領でお抱えになりたいという話なのであれば、残念ながらそれは妹に譲りましたし、私は適任ではないと思います。これが婚約でないのならば、残念ながら私には一切のご助力が出来かねます」
私が一息に言うと、ロランは目を丸くして私を見た。
そして――あはははは、と面白そうに笑った。
「すまないすまない。それでははっきりと言おう」
ロランは私の前に跪き、たじろぐ私の左手を取った。
「アリシア・ハーパー。僕はあなたに求婚したい」
かあっと、私は顔が赤くなるのを知覚した。
「僕は――七年前に君と出会ったときから、君をずっと目で追っていた。君が忘れられなかった。否、あんなことをされて――忘れられるわけがない」
七年前?
私は必死に自分の記憶を手繰り寄せようとしたが、浮かんでくるのは道端に転がった餓死者だったり、飢えて泣く赤子の泣き声だったり、全く要領を得なかった。
きっと――私の脳髄にはあの光景は強烈過ぎたのだ。
ハノーヴァー領での出来事をそっくり封印してしまったらしい。
ロランは少し顔を俯けて言った。
「僕に手を挙げるチャンスが来たなら――それを逃したくはない」
ぎゅっと、私の手を取った手の力が強まった。
じっとりと、そこからなにか湿ったものが手を濡らしたように感じた。
それはロランという男が見せた、執着の感情だったと思う。
絶対に私を逃したくないという、飢えた肉食獣のような、湿っていて、腥いもの。
その感情がむらとその背中から発したとき、私は羞恥ではなく、ふと怯えを感じた。
だが――それも一瞬のことだった。
ロランは伏せていた目を上げて、再び私を見た。
「だが、今の君にはそれが不愉快だと思う。正直に言おう。僕は君個人だけではなく、聖女候補者としての能力や知識にも大いに関心がある。それがここ、ハノーヴァー領の民たちの暮らしにとって希望になることも――僕は七年前から確信しているんだ」
だがこれが決して下心故のものではないと。
ロランは言い聞かせるように私に言った。
「君の婚約破棄の経緯はわからないし、詮索する気もない。だからこそ君が、聖女である自分にしか興味がないと思われるのが嫌だというなら。もしくは、もう聖女の真似事などしたくないというなら――この話は断ってくれてもいい。そう言いたかったんだ」
不意に――。
私の心に、じわじわと暖かなものが溢れてきた。
それは、私が長い間自分に禁じていたもの。
そう思うこと自体が見当違いであると、私が言い聞かせてきたもの。
その暖かなものに突き動かされて、私の口が勝手に動いた。
「私が必要であると――」
「ん?」
「私が必要であると、ロラン様はそう言ってくださるのですか――」
馬鹿。こんなことを訊ねる私の馬鹿。
私は今すぐその言葉を自分から否定すべきだった。
何でもありませんわ、そう言ってこの手を振り払うべきだった。
だが――ロランもなかなか馬鹿正直だった。
ロランは笑みを深くして私の顔を見た。
「その通りだ。僕には君が必要だ」
もうダメだ――と私は思った。
私の心の中に広がったもの。
それは――喜びだった。
聖女候補として生きてきた大半の人生の中で。
私はただの一度も聖女として必要とされたことはなかった。
お飾り、名誉職、王太子妃の肩書のおまけ。
そんなことばかり言われて、咲き誇る薔薇の陰に根を張った雑草であるかのように、最後はそれさえむしり取られた私にとって。
必要――その一言は、どんな称賛よりも深く深く私の心に突き刺さり、押し留めていた感情が堰を切って流れ出した。
人生初めての体験に、私の頭は盛大に混乱してしまった。
私はあたふたと顔を背けたり、俯けたり。
大混乱しているのに、ロランに左手を取られているから逃げ出せない。
正直に言えば、両手で顔を覆ってしゃがみ込みたかった。
こういう時、私は本当に弱くて、みっともなくて、情けない――。
その事実が堪らなく恥ずかしかったけれど。
私は、すう、と深呼吸をして、どうにかそれを押し止めることに成功した。
「……わかりました」
恥の上塗りだとわかってはいたが、私は努めて繕った声でそう言った。
「私、ロラン様からの求婚を――」
その言葉に、ロランは首を振った。
「いや、返事は今でなくてもいい。そのためにこのハノーヴァー領に来てもらった。ここは僻地で、内地とは色々違う。嫌になったり、つらいと思ったらいつでも言ってくれ。でも反面、君が僕の求婚を受ける気になったら――その時はここでもう一度返事を聞かせて欲しい。どうかな?」
ロランは私の目をまっすぐに見た。
期待と――それと、おそらく不安も入り混じった目。
元婚約者であったユリアン王子には向けられたことのない、澄んだ瞳。
その余りにも真っ直ぐな瞳に飛び込んでいくだけの勇気が――残念ながら今の私にはなかった。
この人も、私の手を振りほどいて去ってしまうのではないか。
この人の微笑みの裏にも、なにか隠されたものがあるのではないか。
ごうごうと唸りを上げて溢れ出す嬉しさの中にやっと顔を出した杭。
私は濁流の中でその棘にようやっとしがみつき、搾り出すように口にした。
「それは――ここでお時間をいただけるなら、正直ありがたいです。ロラン様のお気持ちは嬉しい、嬉しいのですが、私、ロラン様に相応しい女であるか――今は自信がありません」
私は尻切れ蜻蛉にそう言った。
ロランは安堵の表情を浮かべて、立ち上がって私の肩を抱いた。
そして、感慨深げに言った。
「大きくなったね、アリシア」
私が顔を覆ったまま見ると、ロランは優しい微笑みで遠くの空を見た。
「聖女様がこのハノーヴァー領を去る時、君は僕に花をくれた。あの年は草花もあまり咲いてはいなかったのに……君はわざわざ早起きして花を探して、僕にくれた。忘れないでと、そう言ってくれたんだ」
忘れないで、か。
そう約束を言っていたのに、肝心の私がそれを覚えてないなんて。
すみません、と私が謝ると、ロランはいいんだよ、と頭を振った。
「ここが僕たちの初めて出会った場所なんだよ。ここでもう一度、君に出会えたなら――僕は最終的な君の返答がどうであっても、それでいい。アリシア、どうか願わくば、この庭にたくさんの花が咲くところを見るまでは……きっとここにいてくれないだろうか?」
見たい。
凄く小さな声だったけれど。
私はそう言う事ができた。
そのほんの小さな一言に、私は全ての勇気を注ぎ込んだ。
ロランは鳶色の瞳を優しくさせて、私の手を握った。
「今日からよろしく、アリシア」
はい、と私は再び、小さな小さな声で答えた。
とにかく、私は聖女候補から、ロランの婚約者候補になった。
随分迷ったけれど――私はそのまま、ハノーヴァー領に在留することになった。
「面白そう」
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「頑張れ農協聖女」
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何卒よろしくお願いいたします。





