アリシアは聖女になった
「聖女様! 聖女ノエル様万歳!」
街の群衆に向かって手を振ると、そんな歓声が街中から上がった。
今日は王都の大聖堂に来て、信者たちとの交流を持つ日だ。
交流を持つと言っても、王太子妃である私がいちいち人々の手を握って話しかけたりするわけではなく、聖女としての簡単なスピーチを行い、笑顔で手を振るというだけの簡単なものだった。
いちいち辺境に出ていって祈りを捧げたり、農村に慰問したりすることがないだけ楽な仕事ではあるのだけれど、やっぱり緊張はするし、振りっぱなしの手も疲れる。何より、簡単であるからこそ、いまいち身が入らないのである。
ひとしきり手を振った私は頃合いを見計らい、できるだけの笑顔を心がけながら窓の奥に引っ込んだ。
侍従が用意してくれた椅子に腰を降ろした私は、ハァ、とため息をついた。
「大神官様、今後の公務の予定は?」
私が言うと、大神官の老爺はつらつらと一週間分の行幸スケジュールを話し始めた。私はそれを半分聞き流しながら、部屋の隅にある鏡をぼーっと見ていた。
夫であるユリアン王子と人生初めての夫婦喧嘩をしたのが一週間前のこと。喧嘩の理由はもはやどうでもいい。それは結局、私が怠惰だからで、それにしびれを切らしたユリアン王子が私に対して激高したのも、まぁ無理からぬことだとは思う。
だが――喉に引っかかった小骨のように、今も気になっている言葉があった。
「アリシアだったら嫌がらずに聖女の仕事をこなしただろう」――という、ユリアン王子の失言だった。
その言葉は、私にとっては何よりも許せない裏切りの言葉だった。
姉であるアリシアの方が聖女として適任だった、と言われたことについてではない。
ユリアン王子だって、聖女を憎んでいるはずなのに。
怒りに任せてそんなことを口にした、その事実が許せなかった。
私は姉であるアリシアが嫌いだ。
大嫌いだ。
いや――単純に嫌いというのとも違う。
憎んでさえ、きっといる。
けれど、彼女の方はそう思っていない。
彼女は自分が疎んじられて当然だと思っている。
昔はああではなかったのに――その鈍さ、卑屈さが、私には理解できない。
自分でもわかっているのだけれど、私の、姉なるものに対する視線はどこか歪んでいる。
確かにアリシアは昔から利発なくせに、どこかどんくさくて、地味で、私を苛立たせる子ではあった。
だが彼女は私にとっては姉であり、血を分けた双子であるという親しみは持っていたし、もちろん今も持っている。
何よりも、小さな頃はお互いどろんこになって遊んだこともある。
仲良くおままごとをしていた記憶もある。
一緒に絵本を読んだ記憶もある。
ひっぱたき合い、髪の毛を引っ張り合い、喧嘩したこともある。
あの頃のアリシアは、私が姉のものをねだっても、きちんと断っていた。
これはお姉ちゃんのものだから――そう言って、ずるいずるいと駄々をこねる私をよく泣かせた。
地味でどんくさくて、だけど利発な姉と、華やかだけど、怠惰で我儘な私。
お互いに相手が嫌いで、お互いに理解できなくて、お互いにお互いを愚かだと思っている姉妹。
時に遊び、時に泣き、時に喧嘩しあって、けれど最後には何事もないようにまた家族に戻る。
他がどうかは知らないけれど、巷にはよくある姉妹だと思う。
私と姉の関係は、ある時までは――たぶん普通の姉妹だった。
だけど、それが一変したのは、姉が聖女である王妃の下に修行に行ってからだ。
先代の王妃が病で亡くなり、聖女としての修行を終えて帰ってきたアリシアは――なんだか別人のようになっていた。
ここらへんの変化に、優しいが、ただ優しいだけの両親は気がつかなかったらしい。
やっとアリシアが帰ってきたと、安心したように話し合っていたのも記憶にある。
両親は両親で、ちゃんとアリシアのことを心配していたのだ。
だが私は、なんだかアリシアではない物の怪がアリシアの顔をして帰ってきたような、言いようのない不気味さを感じていた。
アリシアは元から地味な人で、きらびやかな宝石や華々しい社交界には興味を示さず、屋敷の部屋にこもって一日中絵本を読んでいるような子ではあった。
だが、帰ってきたアリシアはその傾向に拍車がかかった。
何故か毎日毎日、何かに突き動かされるように、私にはわからない小難しい本を読むようになった。
私が話をしても、なんだか聞いているのか聞いていないのか不明な顔で曖昧に答えを濁し、また読書と勉学に戻っていった。
飢饉が発生したとか、疫病が発生したとか、そういうニュースを聞く度に顔色を変え、その災害が起こった方角を遠い目をして眺めるようなった。
私がいくら遊びに誘っても、アリシアはあまり色よい返答をすることがなくなり、姉妹として当然あるべき会話も減っていった。
社交界や夜会に出ても、私だけを表に立たせ、自分は地味で可愛げがないからと卑屈に微笑み、進んで裏に引っ込むようになっていった。
アリシアは変わった。
帰ってきたアリシアは――私の姉ではなく、骨の髄まで聖女になっていたのだった。
それからだ、私が前にも増して積極的に意識的に姉のものを奪うようになったのは。
服でも、宝飾品でも、友人でも信頼できる異性でも、両親からの愛情でさえも。
これだけ奪われてもいいのか、こんな事をされてもあなたは怒らないのか。
それは以前のアリシアだったら普通に憤り、怒っただろうことだった。
私は心の底で、姉が怒り、私に姉妹としての言葉をぶつけてくることを――おそらく待っていた。
だが――アリシアは何の反応もしなかった。
ただ、私を蔑むような目で見るだけになり、どんどん質素になっていった。
清貧であることを、むしろアリシアは進んで受け入れるようになっていた。
異常にわたくしのなくなった姉の行動は、私には違和感を通り越して恐怖だった。
そして業を煮やした私が婚約者であるユリアン王子を奪ったときでさえ――。
姉が私の頬をひっぱたき、なんてことをしてくれたと声を荒げることは、終ぞなかった。
ユリアン王子と私との同調は、思えばある意味当然の成り行きだったと思う。
かたや聖女に母を奪われた男、かたや姉をおかしくされた女。
私たちはきっと、聖女という存在を、心の底から嫌っていた。
私たちが欲しいのは聖女としての言葉ではなく、母として、そして姉としての声だった。
だから私は最終的に、聖女という未来を彼女から奪うことにした。
だが――私の予想は外れた。
両親が、アリシアが私に婚約者と聖女を譲ることに同意したと、嬉々として報告してきた時。
驚いたのは私の方だった。
まさかそこまでされて、アリシアが黙っているわけがないと思っていた。
彼女は聖女であろうとするが故に、今まで貞淑に、私なく暮らしてきたのではなかったのか。
その聖女を奪われると決まったら、いくらなんでも反発するに違いないと、私は思っていた。
なのに――結果はそうならなかった。
そこにいたのはもうかつてのアリシアではなく、聖女という人格のない存在だった。
奪われても、踏みにじられても、傷つけられても、じっと耐えるだけ。
人間ではなく、求められるまま慈愛だけを吐き出す機械に――姉は成り果てていた。
私は大聖堂の、聖女の私室にずらりと並べられた肖像画を見た。
その一番左にある、歴代の聖女の肖像としては突出して高齢の女性――先代の聖女であるエヴリン・クレイドルは、威厳に満ちた貌で肖像画の中に形を留めていた。
先代の王妃は史上稀に見る才能を持った聖女だったらしいけれど、逆に言えば彼女は聖女でしかなかった。
母として息子に接することさえ出来ず、ユリアンという、一人の孤独な王子をこの世に残した彼女。
おそらくユリアン王子だって、聖女ではなく、母としてもっと聞いてもらいたい話があったはずなのに。
彼女はあろうことか、私の姉をその分身に仕立て上げ、そして私から奪った。
曲がりなりにもかけがえのない、たった一人の姉妹を――。
「聖女様、ご気分でも優れないので?」
大神官の声に、私ははっと物思いを打ち消した。
顔を上げると、大神官が不安そうに私の顔を覗き込んでいる。
「――いいえ、なんでもありませんわ。公務の件は了解いたしました。少し――休みたいのです。さがってくださらない?」
私が事務的に言うと、大神官と侍従たちは何も言わずに部屋を退室していった。
ひと悶着あったものの、ユリアン王子に聖女としての公務を行えと釘を刺された私は、以前ほどは公務をサボらなくなっていた。
大神官としてはそれで何も言うことはないらしく、最近はお小言をまけることもなく、聖女に従順な神官として仕事をしていた。
部屋にひとり残された私は、しばらくぼーっと部屋の天井を見上げた。
私がこんなふうに姉との思い出を思い出したのも、随分久しぶりに両親から近況報告の手紙が届いたからだった。
何でも、アリシアはあの『黒幕辺境伯』と呼ばれるハノーヴァーの令息と婚約し直し、今は婚約者としてあちらで暮らしているらしい。
公爵令嬢が、王家とは何かとキナ臭い関係にあるハノーヴァー家に嫁ぐことになったとは恐れ入ったけれど、なんだかそれはとてもアリシアらしい決断のように思えた。
ハノーヴァー家は精強な武闘派貴族である反面、飢饉の頻発地帯であるから、アリシアは今頃、馬鹿正直に農民の相手をしているだろうことは想像がついた。
結局、アリシアは嫁いでもアリシアのまま、何も変わらず清く正しく貞淑な、先代の聖女の真似事をしているに違いない。
虫酸が走る。
もう聖女ではなくなったただの小娘なのに。
もう何もかも、元に戻っていいはずなのに。
私は壁にかかっている暦を見た。
ユリアン王子の元に嫁いで、半年が経過していることを思い知った。
そう言えば――と、私は暦を見ながら思い出していた。
一ヶ月と少し後に、王都で舞踏会が開かれる予定がある。
これは新たに婚姻を結んだ王太子と王太子妃にカネと人脈が擦り寄るときで、王太子妃となった私を各貴族にお披露目する意味合いも含まれているのだという。
ふと――私の脳裏に、妙な考えが浮かんだ。
あの質素でバカ正直なアリシアを妻にしようという男。
私のせいではあるけれど、王太子に婚約を解消されたアリシアは、どう考えても傷物であるはずだった。
そのハノーヴァーの令息とやらは、一体どうしてアリシアを見初めたのだろう。
そのアリシアをわざわざ見初めたということは、一体どういう経緯があってアリシアに輿入れの話をしたのだろうか。
私も、そのハノーヴァー令息に会ってみたい。
そう決めた。
しばらく、そのための算段をまとめてから、私は立ち上がった。
おそらく一月後、私は二度と顔を見たくないと思っていた聖女アリシアと再会することになるかもしれない。
二度と私の人生に顔を見せるな、と、私は永遠の決別宣言をして、アリシアを人生から退場させたはずだった。
だが――何故か私の心はどこか弾んでいた。
久しぶりにアリシアに会える、その事実をどこかで喜んでいる自分が、確実にいた。
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。





