そんなのは絶対におかしい
立ち上がってよく見ると、ナミラの側にいるのはヨーゼフだった。
二人は濡れ鼠になりながら、私たちのいる木陰へと身を寄せた。
どうにか濡れない場所までやってくると、二人は崩れ落ちるように地面にしゃがみ込んだ。
「ナミラ、ヨーゼフ……!? どうした、こんな雨の中で!」
レオが大声を上げると、ヨーゼフがレオと私たちを順に眺め、気まずそうに視線をそらした。
「別に……この雨の中でナミラが立ち往生してるのを見たから、送ってきただけだ。何しろ彼女は道の真ん中でしゃがみ込んでいたからな」
ヨーゼフはそう言ってナミラを見た。
しとどに雨に濡れているナミラの顔面は蒼白で、目には強い怯えの表情が浮かんでいた。
「帰るように促しても、あんたたちに差し入れを届けるって聞かないんだ。仕方なく俺がここまで連れてきた。ただ――それだけだ」
ナミラは焦点の合わない目で私たちを見ると、小脇に抱えていた包みをおずおずと私たちに向けて差し出した。
反射的に受け取ると、まだほのかに暖かいパンが三つ、粗末な麻布に包まれていた。
「ナミラは雷がダメなんだ。空が光ると身が竦んでどうしようもなくなってしまう。ロラン様、アリシア様、そしてレオ。悪いんだが、雨が止んだら彼女を家まで送ってやってくれないか」
「雨が止んだら、って……ヨーゼフ、君はどうするんだ?」
「俺は――帰ります。家に仕事を残してきましたから」
こんな雨の中を帰るというのか。仕事を残してきたなんて明らかに嘘だとわかるのに、ヨーゼフはとにかく、一刻も早くこの場を立ち去ろうとしているようだった。
ヨーゼフはナミラを一瞥すると、立ち上がろうとした。
途端に、ナミラがぎゅっとその腕を掴んだ。
驚いたようにヨーゼフがナミラを振り返ると、ナミラが首を振った。
そのナミラの目に、私ははっとした。
その目にあったのは――切なさと愛しさ。どう考えても、ただの幼馴染に向けるそれではない眼差しで、行かせまいとするように、ナミラはヨーゼフの袖を引いた。
一瞬、ヨーゼフがぎゅっと口を引き結び、目を閉じた。
自分の中に湧き上がってくる何かをじっと堪えるように、ヨーゼフは色を失うほどに唇を噛み締め、ナミラを見る。
彼女とは一緒にいられない、自分は彼女の人生を台無しにするようなことをしてしまったから……。
そう言っていたヨーゼフの言葉を思い出した。
一体、ヨーゼフとナミラの間に何があったというの?
私が思わず問いかけようとすると、ヨーゼフがレオを見た。
「……レオ」
「なんだ?」
「彼女にこう伝えてくれ、俺は家に仕事を残してきたから急いで帰ると」
ヨーゼフは短くそう言い残して、ナミラの手を振り払った。
ナミラが追いすがろうと手を伸ばしても、ヨーゼフは逃げるように雨の中に身を躍らせ、やがて見えなくなった。
ナミラが、悲しそうに下を向いた。
レオは、雨中に走り出していったヨーゼフの背中を、やはり悲しそうな目で見ていた。
「全く、どこまで強情なんだよ、アイツ……」
レオはほとほとうんざりしたように言ってから、立ち上がって木の枝を一本折った。
そしてそのまま、地面に何事か書き始めた。
『ヨーゼフは急ぎの仕事で家に戻る。後でお礼に行こう』
はっ、と、私とロランは目を見開いた。
驚愕の視線でナミラを見ると、ナミラはコクンと小さく頷いた。
「ナミラさん、あなた耳が……!」
私が言うと、レオが頷き、代わりに答えた。
「……三年前だ。風邪を引いて高熱を出してからほとんど聞こえなくなった。ヨーゼフと山で遊んでいた時に雨に降られちまったんだ」
レオは無念そうにナミラを見た。
「それからだ。ヨーゼフがナミラから離れていったのは……。俺とナミラは文字の読み書きができる。だけどヨーゼフの家はとりわけ貧乏で、文字の読み書きが全くできないんだ。ナミラをこうしちまった負い目もあって、あいつは何度ナミラが話し合おうとしても取り付く島もない。村の連中も、耳が聞こえなくなった途端にナミラを遠巻きにするようになって……」
レオの言葉に、私とロランは息を呑んだ。
それでか、と私は納得した。
数日前のナミラの家で、レオがナミラには聞こえない方がいいことを大声で話していたのも。『彼女の側にはいられない』と頑なだったヨーゼフの態度も、彼女の――ナミラの耳が聞こえないせいだったのか。
もはやヨーゼフはナミラと意思疎通が出来ない。そのせいで、彼らは一緒にはいられなくなってしまったのか。
おそらく、お互いを深く想い合っているのに――。
その痛みに私たちが押し黙ったままいると、レオが疲れたような目で私たちを見た。
「なぁ、ロラン様、アリシア様。あのとき村にまともな医者がいて、薬のひとつももらえていたら、ナミラはこうならずに済んだかもしれないんだ」
レオは無念そうに言う。
「それだけじゃない。ヨーゼフの家がもう少し豊かで、この村の人間たちにもまともな学問があったなら、ヨーゼフもナミラもこんな思いしなくて済んだ……そうだよな?」
レオの言葉は血を吐くような言葉だった。
やり切れない思いを吐露するように、レオは続けた。
「この村は貧しすぎるんだ。だから馬鈴薯を広めなきゃいけない。ナミラやヨーゼフみたいな人間を増やさないために……。でも、村の連中はそれさえ許しちゃくれない。憎み合って、いがみ合って、お互いをどんどん追い込んでいっちまう。俺たちはどうすればいい? ずっとこのまま、みんな貧しくて辛くて不幸なまま――それが当たり前なのか?」
レオの問いかけに、私は何も答えることが出来なかった。
そんなもの、そのままでいいはずがなかった。
誰だって幸福で、愛する人の側にいる権利も自由もある。
けれど、圧倒的な貧しさがそれを許さない。
そんな寒村の厳しい現実が、ナミラとヨーゼフの間に横たわっていた。
このまま、ヨーゼフとナミラはすれ違いを続けていくのだろうか。
貧しさや困難が壁となったまま、二人は離れ離れになる運命なのか。
いや――それは。
それはあまりにも。
私は唇を噛んだ。
そんなわけがない。
そんな理不尽、あっていいわけがない。
「いや、そんなわけはないです!」
私は決然と言った。
突然の私の大声に、その場にいた全員がびっくりしたように私を見た。
「そんなのってないです! 誰にだって、お腹いっぱいで、笑って、幸せになる権利があるんです! ずっとこのまま、貧しいまま、不幸なまま生きていっていい訳がないでしょう!?」
私の腹の底に、ふつふつと湧いたものがあった。
それは――怒りの感情。
そう、人間は怒る時は怒らねばならない。
理不尽には決して慣らされてはいけないのだ。
「ヨーゼフさんの考えていることは絶対におかしいです! 耳が聞こえなくたって、文字が読めなくたって、そんなことで好きな人と一緒にいられないなんてことはないのに! それなのにナミラさんを置いて自分から離れていくなんて、これは絶対におかしいですわ!」
「アリシア……」
ロランは驚いたように私を見た。
滅多になく、私の頭には血が昇っていた。
もし自分がナミラと同じ境遇になり、それが原因でロランと一緒にいられなくなったとしたら、私の世界はどれほど暗くなるだろう。そして、聴力と一緒に愛する人まで貧しさに奪われることになったナミラの世界は、今どれほどの寂しさと悲しさに満ちているだろう。考えただけでも――それは気が狂う程の辛さであるに違いない。
自分を絶望から助け出し、いるべき場所を与えてくれた人。
生涯この人の側にいたいと、心から思える人。
そんな人まで貧しさに奪われるなんて、絶対に間違っている。
私はレオの手から枝を奪い取ると、地面にガリガリと文字を書き出した。
『ナミラさんは、ヨーゼフさんのことを愛していますね?』
書き終わると、ナミラが顔を上げて私を見た。
しばらくの間、ナミラは恥じるように顔を紅潮させたけれど――やがて、力強く頷いた。
『約束します。ヨーゼフさんに私たちが文字を教えます』
私は、地面にそう書いた。
途端に、ナミラの顔が驚愕に変わった。
私はその顔に頷いた。
『あなたがもう一度、ヨーゼフさんと会話できるようにします。いいですね?』
私がそう言うと、ナミラが感極まったように私の手を取った。
お願いします、というように何度も何度も頭を下げ、ナミラは大きく洟を啜った。
私の言葉に、ロランが遠慮がちに言った。
「アリシア……もしかして、怒ってるのかい?」
「ええ怒っていますとも。途轍もなく胸がムカムカしてます」
私は言った。
「この村の人たちはレオさんが言うようにお互いにお互いの首を絞めている。それは嫉妬してるからです。誰かが抜きん出て恵まれるのだけは許せないから、馬鈴薯を拒絶してるに違いありません。その嫉妬合戦の中で一番苦しんでいるのはナミラさんです。畑を潰されて、好きな人にはそっぽを向かれて……」
そうですよね? というように、私はナミラの手を握った。
耳が聞こえないからわからないのだろうが、大体の事の成り行きを見ていたからか、はてまた女の勘が何かを掴み取ったのか、ナミラもうんうんと頷いた。
「人が幸せに、豊かになることの何が悪いんですかっ。それなのにこの村の連中はそれが許せないんです。だからコソコソ夜に畑を荒らしたり、馬鈴薯を拒絶したりするんです。こんな非道、怒らずにいられますかッ!」
私が語気荒く言うと、ロランとレオが一緒になってぶるぶると首を振った。
私が怒るのは随分久しぶりのことだったけれど、その迫力はなかなかのものであるらしい。
すう、と私は息を吸ってから、地面にガリガリと文字を書いた。
『今からヨーゼフさんの家に行きましょう。私たちがついています。今までの思いの丈をぶつけてください』
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
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