黒幕貴族は伊達じゃない
暦の上では夏真っ盛りになったけれど、ハノーヴァーの気温は涼しかった。
ロランも言っていた通り、ここハノーヴァーでは、春から夏の間にかけ、隣国のヴェルカ地方の海から冷涼で湿潤な東寄りの風――いわゆる山背が吹き込んでくる。
私も実際にこの地に来るまでは山背を知らなかったのだけれど、五月から七月までは、結局日の出ている時間の方が少なかった。
霧とも雨雲ともつかぬものが峻厳な山肌を駆け下り、ハノーヴァー領に吹き込んでくると、これが「底冷え」というものか、というほど気温が下がる。
そのせいで暦の上では夏なのに、いまだにハノーヴァー邸の暖炉には赤々と火が燃やされ、いまだに冬服が手放せない状態なのだった。
そんな寒さの夏の中でも、ネリンガ村での青い粉の試験は続いていた。
その青い粉が葡萄のべと病に効果がはっきりとあることは、カールの畑以外に薬を使用したことで確定した。
べと病に冒された葡萄はあの薬を使用すると、カールの畑でなくとも綺麗に病斑が消え、そして葡萄はまた青々とよく実った。
村人たちは飛び上がらんばかりに狂喜し、私の手を取って、私をハノーヴァーの聖女だと褒め称えた。
最初は少し抵抗があった「聖女」の呼び名だけど、最近ではいちいち否定するのも面倒になりつつあった。
この二月あまり、更にわかったことがある。
どうやらこの薬は葡萄以外に発生したべと病にも効果を発揮するどころか、葡萄でもなく、べと病でもない病にまでどうやら効果がありそうなことが判明したのだった。
それはネリンガ村でもよく作られている人参やカブなどの根菜類の白錆病や黒腐病、軟腐病、ウリ類のうどんこ病や豆類の斑点病などにも効果があることが、村人の全面協力の下に行われた試験でわかりかけてきていた。
要するに、この薬はハノーヴァーだけではなく、この国の、否、この世界中の農業に福音をもたらす可能性が出てきたのだ。
これはもしかすると、本当にこの国の農業のあり方を変えるかもしれない――。
そう考えると、期待よりも末恐ろしさの方が大きくなっていた。
私が聖女であったならともかく、単なる公爵令嬢の小娘が世界のあり方を変える?
それは想像だにできない、途方もないことのように思われたのだった。
だが、そんな私の不安を知ってか知らずか、ロランはこのところ殊更に上機嫌だった。
私が婚約を受けてくれたことがよほど嬉しかったのか、それとも青い薬が想像以上の効果を発揮しているのが嬉しかったのか。
ロランはとにかく隙あらば私が一日の大半を過ごす書斎に来て、何がそんなに嬉しいのか私とニコニコと会話をしては今後の展望を話すのだった。
「この薬が実用化されれば、ハノーヴァーはもっと豊かになる」
それは彼の最近の口癖だった。
またか、と少し呆れたように私は、本から顔を上げて隣の椅子に座ったロランに向き直った。
「ロラン様、何度も申し上げますけれど、この薬はまだまだ試験段階ですわ。それに、人体に毒性がないとも言い切れない。今のところは大丈夫のようですけれど――長期的な影響についてはまだ何もわかっていないんですよ?」
「そんなことはわかってるさ」
ロランは椅子に反対に座り、背もたれに両手を乗せて言った。
「でも、とりあえず人々は笑顔になる。僕はそれが楽しみで仕方がないんだよ」
こういうときのロランは、本当に屈託のない表情で笑う。
まるで人々の幸せが自分の幸せだというように、心の底から嬉しそうに笑うのだ。
こんなに必死な人間が次期領主であるハノーヴァーの領民たちはきっと幸せだろうな……と、私はその笑顔を見る度にそう思うのだった。
「全く、惣領様は本当にご機嫌ですわね」
そう言って机の上に紅茶のティーカップを置いたのはリタだ。
リタはロランを見て呆れたように笑った。
「だってリタ、楽しみじゃないか。アリシアの発明した薬が世の中を変えるんだぞ。僕じゃなくたって楽しみだろ?」
「もう、ロラン様。何度もいいますが気が早いですわ。そう簡単に世界などは……」
「いいえアリシアお嬢様。実は私も楽しみです」
思わぬ方向からのリタの援護射撃に、ロランはますますニヤニヤと私を見た。
「あら、私も西の農村の生まれなのは知っているでしょう? 作物の病気がどれだけ農民たちを落胆させて苦しめるか、知らないわけじゃありませんわ。誰だってアリシアお嬢様に期待しますわよ」
「ほら見ろ、リタだってこう言ってる。アリシア、次はどうするつもりなのか、そろそろ聞かせてほしいな」
全く、ロランもリタもまるで子供、両親に休日の予定を聞く子供のような目つきだ。
だが反面、ネリンガ村での試験は順調に行っているし、少なくともあの粉が葡萄のべと病に効果があることだけはわかった。
カルカンサイトについても、ハノーヴァー辺境伯名義で領内の各銅山に採掘の協力依頼を出しているし、量産体制は既に整っている。
次にどうするか――確かに、それを考えなければならない時だった。
私は読んでいた本を閉じ、このところ温めていた計画を話すことにした。
「そうですわね……今考えていることですか」
私は本を退け、机の上にメモを広げた。
くう、我が事ながら、全くもって文字が汚い。
できれば考え事をしているときの文字は誰にも見られたくない。
「今考えていることは、新しい救荒作物の導入、肥料の改革、耕作放棄地の整理、農民の教化・組織化、そして地域医療の拡充……などです。まだ全然考えを詰めてはいないのですけれど……」
私がメモをパラパラとめくりながら言うと、ロランもリタも顔を寄せて私を見た。
「でも一番優先なのは、この薬の流通経路を確保することですわね」
私が言うと、ロランが頷いた。
「そうだな、当然だ。あの薬を口コミで広げていくのにも限度があるだろう」
「その通りです。ハノーヴァー辺境伯家だけではない、国内外にこの薬を流通させていくとなると、当然商業的な流通ルートを確保せねばなりませんから」
そう、それは一刻も早く広めなければならない福音であるはず。
あとはどのようにこの薬をばら撒くかが目下の課題だった。
「とりあえず試算してみたんですが、この薬はほとんど元手がかからず安価に流通させることができそうですわ。これならどんな貧農でも購入し、施用することができるでしょう」
私は次々とメモを繰りながら言った。
「しかし、問題はこの薬をどこのルートに託すか、ということですわね……」
私は頬杖をついた。
リタが不思議そうに言った。
「どのルート、とは? そんなものはどこでもいいのではないですか?」
「いや、そうとも限らないかもしれないぞ、リタ」
ロランが笑みを消して言った。
「確かにアリシアの言ったことは一理ある。何しろこの薬の効能は本物だ。そして安価で流通させることができるが、これを託した商人の方はそう考えないかもしれない」
「その通り。商人はとかく利益には目ざといものですからね。もし阿漕な商会にこれを託せば、法外な値段をつけて暴利を貪るどころか、偽薬の類を作り始める可能性もある。取引相手の選定は慎重に行わないと」
そう、私は農業の知識は少しだけあるものの、商業やお金勘定に関してはほとんど素人だ。
私がもし聖女だったなら、その威光を以って教会ルートでこの薬を流通させることができただろうが、今はそうもいかない。
それに、できればこの薬はハノーヴァーの財源となるよう、どんなにささやかでも利益があった方がいいだろう。
「とにかく、一刻でも早くこの薬を王国中の農民たちに届けないと……」
私が言うと、ロランが意味深に笑った。
「よしわかった。そういうことなら僕にも考えがあるぞ」
「えっ?」
「取引相手の選定……もし君がいいなら、それは僕にやらせてもらえないだろうか」
ロランの申し出に、私とリタは目を見開いた。
「ロラン様が、ですか?」
「ああそうさ。僕は父の下で領地経営の勉強もさせてもらってるからね。ハノーヴァー辺境伯家が築いてきたルートも色々ある」
色々、という言葉が気になった。
ロランは子供のように椅子を揺らしながら、私にぐっと顔を近づけた。
「それに、商売ってものはお互いに利益を生み出さなきゃいけない。貧農にも薬を届けたいというアリシアの思いは立派だけど、それだけじゃいけない。そうだろう?」
確かに、ロランの言うことは的を射ていると思う。
最初から金銭の収受が絡まない取引は、必ずどこかでほころびが出てきたり、いい加減なものになりやすい。
逆に言えば、お互いに利益を生み出すことができているうちは相手を無条件に信頼できるわけで、それは単純な口約束よりも強固だ。
「何よりも、何も君が君の妹に頭を下げることはない。彼女は信頼に足る人間ではない、話を聞いている限りはそうなんだろう?」
意味深な言葉とともに向けられた視線に、え? とリタが私を見た。
まさか、いつバレたのだろう。
私はばつ悪く頭を掻き、リタに苦笑いを返した。
正直に言えば、私はこの薬を聖女であるノエルの一声で国内にバラ撒くことを考え、その旨の手紙まで書き始めていたのだ。
やはりノエルは聖女であるし、保守的な農村の人々も聖女のお墨付きがあれば使ってくれるのではないかという期待があった。
だが――肝心のノエル本人にその気があるのかは非常に怪しいと思わざるを得ないところだし、第一私の方もノエルに頭を下げるのは嫌だった。
そんなわけでこの数日、その手紙を書いちゃ捨て書いちゃ捨てとやっていたのだが、ロランには何故かバレていたようだ。
全く、この人はどうしてこう、私の考えていることをいちいち先回りしてみせるのだろうか。
「それに、このルートだったら色々融通も利くんだ。王家や教会に頼み込むよりもずっと確かな方法でこの薬を広めることができるかもしれない。それに、こと利益という事に関してなら、『彼ら』は地上の誰よりも信頼できる」
ロランがそこで、意味深な笑みを浮かべた。
「――ロラン様、一体何をお考えですか?」
私が訊ねると、ロランはますます笑みを深くして、言った。
「いつまでも君だけに責務を負わせてたら、辺境伯家の名が廃るからね。『黒幕貴族』は伊達じゃないってところを見せてあげるよ」
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
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