聖女は三貧を憎む
「聖女の敵は三貧だ、と先代の聖女様はよく言っていました」
ネリンガ村の田舎道を歩きながら、私はロランに言った。
「三貧、って?」
「三つの貧乏、という意味ですわ。お金の貧乏、健康の貧乏、心の貧乏――これが解消されない限り、人々は何度も飢えるのだと」
ロランが私から視線を離し、感心したように頷いた。
「お金の貧乏、健康の貧乏、心の貧乏、か。伯母上らしい言葉だなぁ」
「確かにそう思いますわ。聖女様でなければ思いつかない言葉だったでしょう」
三つの貧乏。それは王都から遠く離れたこのネリンガ村にも、否、どの農村にも少なからずあるだろうものだった。
「この三つはお互いに影響しあう。健康がなければお金が稼げない、お金がなければ健康は維持できない。そして心が貧乏ならば健康もお金も手に入らない。つまり、一番厄介なのは心の貧乏なのでしょうね」
農村は得てして保守的で、人々は今日を食べるためだけを考えて労働に勤しんでいる。
だから心までにはなかなか気を配ることができないのだ。
「心の貧乏は難しい問題です。貧困が当たり前になり、希望が見えなくなると、よりよい明日を創ってゆくための気持ちが消えてしまう。結局、聖女の仕事とは、その心の貧乏を無くすことなのでしょうね」
「心の貧乏は根が深い問題です。日々にあくせく働いているうちに、明日への希望なんていとも簡単になくなってしまう。本当はもっとやれること、将来のためにやらねばならないことがあるのに」
私はネリンガ村の西に広がる葡萄畑を眺めながら言った。
その畑には今日も人が出てなにかの作業をしている。
「聖女様はよく言っていました。その心の貧乏の最たるものが、聖女という存在なのだと」
私の言葉に、ロランはよくわからないという表情を浮かべた。
「聖女が心の貧乏……? どういうことだい?」
私は足元に視線を落とした。
「常識的に、聖女が祈りを捧げたからと言って、寒さの夏が暑くなるわけはない。聖女が乞い願ったからと言って日照りに雨が降るわけでもない。科学的に、常識的に、それが残念ながら事実ですわ」
私は少しずつ聖女様の言葉を思い出して、言った。
「けれども、人々は何かに縋らないと生きていくことはできない。だから聖女が必要なのです。寒さの夏を暑くすることも、日照りに雨を降らせることも、聖女なら可能だとみんな思っているから――これはある意味、究極の心の貧乏ですわ」
「なるほどね。そう考えると確かに聖女は人々の無知さの象徴ということになるかもしれないな」
私は遥か王都にいるはずの、私の代わりに聖女となったノエルを思った。
絞め殺してやりたい……と私は妹への正直な気持ちをコルス鉱山で白状したものの、やはり妹だし、もう勝手にしろ、と突き放して考えることまではできなかった。
聖女となったノエルはそのことに気づいているだろうか。
心の貧乏がなくならない限り、いくらお金や健康があっても全くもって意味を成さないことを。
そして人々の希望そのものが聖女であり、聖女がその場に来るだけで、一瞬でも心の貧乏が解消されうることを。
だから聖女様は片時も休まずこの国を行脚した――人々の心が安らかであるようにと願って。
ノエルはそれをわかっているだろうか。
いや――きっとわかっていないのだろう。
聖女であるノエルが諸国を回ったという話は、就任から半年近く経つのにほとんど聞こえてきてはいない。
面倒くさいこと、嫌なことは極力回避する性質の子だから、きっと聖女の行幸ですらしたがらないのは想像に難くはない。
そうなれば――この国の農村からは本当に希望が消えてしまうことになる。
心の貧乏が解消されないままの、飢えた人々がどのような行動をするか――。
それを考えると、元聖女候補である私は暗澹とした気分になった。
「彼らだって生きるのに必死なのでしょうが、それは結局、何も解決しないのと一緒です。心の貧乏、というのは、未来をよくするために追放しなければならないものなんです」
「未来、か。君はそんなことまで考えていたんだね」
「私が考えたわけじゃありません。先代の聖女様の受け売りですわ」
ロランに感心したように言われて、私は思わず苦笑してしまった。
と――そのとき。
私の視界にあるものが目に入り、私は足を止めた。
ネリンガ村に続く田舎道の側、日当たりの悪い葡萄畑。
如何にも零細農家、と言える狭くて条件の悪い畑に、青い顔をしておろおろと葡萄を検めている人物がいた。
その人物に――見覚えがあった。
あの日、オスカーの髪を刈り上げようと躍起になっていた、オスカーの父親だった。
私はロランとアイコンタクトを取って、畑の方に足を向けた。
オスカーの父親は私が近づいても気がつかない様子で、泣き出しそうな表情で作物を見ていた。
「カール、どうした? 何があった?」
ロランが声をかけると、カールと呼ばれたオスカーの父親は弾かれたようにこっちを向いた。
「ろ、ロラン様……! これを見てくだせぇ!」
カールは葡萄の房をひとつ手にとって私たちに示した。
木で組まれた棚に沿って伸びる枝から垂れ下がった、まだ青い実をつけたままの葡萄の房は――腐敗したように白いカビに冒され、未熟な果実が真っ黒く枯死していた。
はっと私は息を呑んだ。
「べと病……ですね?」
私が言うと、カールは困り果てたように俯いた。
「もうこの畑の二割はやられてますだ……これ以上広がらねぇように、この葡萄を切るしかねぇ……」
無念そうにカールは呻いた。
確かに、べと病は風や雨、時には霧によっても運ばれ、そこで新たな作物を冒す。
だが……ただでさえこれだけしかない狭い畑で二割を切り倒すとなるとそれだけで大きな痛手となるだろう。
それに、今目に見えて病気に冒されている葡萄が二割もあるのだから、実際には既に畑のほとんどに病気が回っている可能性も否定できない。
がっくりと肩を落としてカールは言った。
「もう葡萄は諦めるほかねぇかも知れません。うちはここのところ毎年の不作で……これ以上はもう自分ではやっていけねぇ」
切実な声と表情だった。
浅黒い顔を青ざめさせて、カールは視線を俯けた。
「これ以上病気が出たら、我が家は今年の冬は越せません。この畑も、きっとおらの代で終わりでがす。倅のオスカーになんと言えばいいか……」
目を真っ赤にしているカールに、ロランが言った。
「諦めたらダメだ、カール。まだ方法がある」
ロランの力強い言葉に、カールは顔を上げて不思議そうな顔をした。
私も大きく頷いて言った。
「カールさん、あの青い石を使えばなんとかなるかも知れません。まだ研究中だけど……もしよければ、この畑で試薬を使わせてもらえませんか?」
そう言うと、カールはしばらく私の顔をじっと見た。
なんだろう、この反応――。
喜びの反応を期待していた私は肩透かしを喰らったような気分になった。
カールは、やがて力なく首を振った。
「あの青い石のことでごぜぇますだか――。あんなもの、うちの倅が勝手に妄想しているだけのことでごぜぇますだ。貴族の奥様まで騙されたらいけませんです」
「そんなことはありません。聖女様はそんな不確かなものを研究したりしませんよ。それにオスカーはあなたのことを助けるつもりであの石を……」
「そんなはずはねぇ」
私が言い張ると、カールはちょっと大きな声で私の言葉を遮った。
「確かに七年前、聖女様はあの不思議な青い石でこの畑を癒やしてくださった。でも、あれは幻だったとおらは思ってます。聖女様だからこそ畑を癒せた。聖女でもねぇ、何の力もない人間が病気を治せたら苦労はねぇ。それが世の中の当然の成り行きってもんだ。そうでがしょう?」
「カールさん……!」
「もともと、うちみたいな三反百姓は畑に碌な肥やしも入れられねぇ。葡萄が病気に負けるのは仕方ねぇことなんでがすよ」
なんとも、頑固頑迷というよりは、絶望にしがみついて離れまいとするような、異様な言葉だった。
如何にも貧農のそれらしいやつれたカールの背中には、何だか絶望と諦めが大きな塊となって乗っているように思えた。
心の貧乏――今しがた語っていた言葉を、そっくり思わせるカールの言葉。
彼らはあまりにも無くし、奪われることに慣れきっている。
だから救いの手が差し伸べられたとしても、その希望が絶望に代わるのが怖くて拒否してしまう。
聖女様がもっとも危惧していた貧困の姿が、目の前にとぐろを巻いていた。
私が更に反論しようとすると、ロランがそれを手で制した。
私がロランを見ると、ロランは何かを決意したような表情で言った。
「カール。それは君の本心じゃない。本当は、君はこう思ってるんじゃないのか。あの青い石がもう少し早く手に入れば、君の妻は死ななくてもよかったんだと」
そろそろあの青い石が真価を発揮します。
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
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現在、ポイントがめちゃくちゃ滞っているので何卒よろしくお願いいたします。





