返答が出来ていない
――アリシア、今から言うことをよく聞いて。
聖女様の声だ、と私は耳を澄ませた。
なにもない真っ暗な空間に聖女様の姿がぽっかりと浮かび上がり、私を見た
――聖女は人々の希望、そして願いそのもの。あなたはいついかなる時も、そのことを決して忘れてはいけません。
それから聖女様は私の頭を撫でながら言った。
――あなたは本当に賢く、そして誠実な娘。本当は、あなたのような娘が聖女になどならなくてよい世界であればよかったのですが――。
私は聖女様の顔を見上げた。
聖女様は慈愛に満ちた、だがどこかに哀惜を含んだ表情で私を見た。
――聖女は人々の希望や願いの象徴。ですが、それだけではありません。聖女は時に人から恨まれ、憎まれるための存在でもあるのです。
ああ、これは聖女様が生前、私に繰り返し繰り返し説いたことだ。
農業の知識や儀式のやり方以上に、この言葉を私に、何度も何度も刷り込んだ。
――いいですか、アリシア。あなたにもおそらくその時が来るでしょう。今から話すのはその時の心構えのお話です――。
聖女様がそう言った途端、私の視界が白一色に光った。
あ、と私は聖女様の手を取ろうとした。
ここから先の言葉を聞かなきゃ。
私はそう思って必死に手を伸ばしたけれど――。
聖女様の姿が光に飲み込まれていって、そのまま――。
「アリシアお嬢様、お嬢様!」
私は目を開けた。
目を開けた途端、飛び込んできたのは、リタの心配そうな表情だった。
あくびとともに体を起こした私は、そこでやっと、自分がハノーヴァー邸の書庫の机でうたた寝をしていた事に気がついた。
「お嬢様、大丈夫ですか? 随分お疲れの様子で寝ていましたが、やはりまだお体のほうが……」
心配そうに言ってきたリタに、私は思わず笑ってしまった。
「もう、そんなことになったのはひと月も前よ。もう大丈夫だって」
もう六月に入っているというのに、随分リタは心配性だ。
まぁ、その心配も無理はないことになってしまったのは私の方であるのだが。
コルス鉱山に宿泊した後、随分久しぶりの無理が祟った私は、そのまま鉱山の事務所のベッドの上で高熱を出して寝込んでしまったのだった。
その後はあれよあれよと大事になり、高熱を心配した鉱山の関係者に馬車で送還された私は、帰って早々、リタに大目玉を喰らうことになった。
後から聞いたところによると、一昼夜に渡って令息とその婚約者候補が逐電していたハノーヴァー邸は大騒ぎだったそうだから、その行方不明だった婚約者候補がずたぼろの有様で帰ってきたことは大いに驚きだったらしい。
そのまま、私はうんうんうなされながら実に二日ほど前後不覚に陥ってしまい、リタにも、そしてそれに付き合わせたロランにも大いに迷惑をかけてしまったのだった。
私はリタが掛けてくれたらしい毛布を膝の上で折りたたんだ。
「それにしてもお嬢様、もう半月近くもその青い石とにらめっこしていますが、何をなさっておいでなんですか?」
「ああ、これはコルス鉱山から貰ってきたカルカンサイトと石灰の混合比率を調べてるの」
私は机の上にある乳鉢を見た。
乳鉢の中にはすり潰されたカルカンサイトの青い粒と石灰粉が入っている。
「なんとなくこんな感じだったってのは覚えてるんだけどねぇ。こればっかりは使ってみないと効果がわからないのよ」
「またそれですか。もう時間がありませんわよ、お嬢様。もう少しその薬以外のことにもお気を配ってくださいまし」
「もう、わかってるって。作物の病気がそろそろ起きてくるだろうから、多少無理をしてでも……」
「そういう意味じゃありませんわ」
リタが呆れたように私を見て、私もリタを見返した。
「恐れながらお嬢様。鉱山でお倒れになってからもう一月半経っておりますよ」
「うん、そうだけど……」
「そうだけど、じゃありませんわ。その間、ロラン様と今後について一度でもお話したのですか? この屋敷にいるのは春まで、との約束だったでしょう?」
痛いところを衝かれて、私は内心顔を歪めた。
その通りだった。
婚約者ではない、婚約者候補という物凄く宙ぶらりんな立場でこの地に来て、もう三ヶ月以上が経過しようとしている。
ロランとの約束は「庭が花で一杯になるまで」、つまり春までだったのが、もう花の時期はとっくに過ぎていた。
つまり、本来ならば彼の婚約者になるのかそうでないのか、結論が出ていなければならないのに、私はその返答をしていなかった。
不誠実だと思うし、約束を守らないことへの良心の呵責もある。
だが、私はそれでもいいと半ば開き直っていた。
ロランが返答を焦っているのであれば、もうとっくに水を向けられているはずだ。
だが、ロランはそう言ったことを一言も口にすることはなく、たまに私を領地内の視察という名のデートに誘ったり、共に食事したりするだけだった。
彼も、私の決意が何らかの形で固まるまで時間をくれている――かなり無理をしてそう思うことにして、私はこの二ヶ月ほど、返答をはぐらかし続けていた。
だが――そんな猿芝居はいつまでも続くわけがない。
リタはきちんとした性格であるから、私の煮え切らない態度が許せないのだ。
「アリシアお嬢様。お嬢様は不器用な方だとはわかっているつもりです。ですが、約束は守る方であることも私は理解しております」
「う、うん、それはもちろん……」
「そして、自分のことはとかく先送りにする性格であることも」
リタがずいっと顔を近づけてきて、私を睨んだ。
私は視線を逸らしてその糾弾から逃れようとした。
「お嬢様。リタはアリシアお嬢様に幸せになっていただきたい一心でこの屋敷にやって参りました。ですがお嬢様のこの二月ほどは、残念ながらじれったいとしか申し上げられません」
「う、うーん……」
「もちろん私よりもアリシアお嬢様のお心が優先でしょう。ですが、私から見てもロラン様は素敵で誠実な方です。とても『黒幕貴族』のご令息であると信じられない程に。虫も殺したことがないようなお優しくて、穏やかで――」
それはわかってるけど――。
その「けど」を見透かしたのか、リタは私が逸らした先に体と顔を移動させた。
「思うに、もうとっくにお嬢様のお気持ちは決まっているのではないですか?」
「え、ええ……!?」
「ロラン様のことを気に入っている、そうなのでは?」
気に入っている――などという言葉では収まらないかも知れない。
何しろ、私は私の言葉を聞いて、「もっと聞いていたい」と言ってくれる人に初めて出会ったのだ。
私の言うことを妄言だと笑わず、無意味なことだと呆れず、私の知識と生き方を信じてくれる人に。
そして彼は私からゆっくりと言葉を引き出し、誰にも語ったことのなかった自分の本心を吐き出させてくれた。
それはどちらかと言うと、失くしていた魂の片割れを見つけたような、莫大に救われたような感覚だった。
もっと一緒にいたい。
私の中の恥ずかしい感覚を言葉にするなら、そういうことになるだろうか。
だけど――言えない。
私にとってその思いを口に出すのはあまりにも無理がすぎた。
「あ、いや、う、うん……なんていうか、まだわかんないや」
リタのズバリの質問に、私はまだ煮え切らない返事しかできなかった。
そんな私を見て、リタは呆れたように眉間に皺を寄せた。
「気に入っているなら、ロラン様にハッキリ返答しないのは何故ですか?」
「それは……」
私は返答に詰まった。
そう、私の悪い癖だ。
つまり私は――根本的に自分に自信がないのである。
私たちの婚約は、いわば契約のようなものだと私は理解していた。
彼は婚約者であるユリアン王子に捨てられ、傷物となった私の事情を知ってなお私を娶ってくれると言い出した人間だ。
当然、周囲の貴族の目もあっただろうし、どれ程の影響があるかわからないが家名にも傷がついただろう。
ましてや私の実家であるハーパー家は、私をハノーヴァーに嫁がせることで王家と辺境伯の両者に影響力を行使できる立場になることを画策している。
つまりこれは私たち二人がどれだけお互いのことを気に入っていたとしても、お互いに利益のある政略結婚であるはず。
だから――私がこの家に何かをもたらせないうちに、この家の一員となる決断をするのは凄くアンフェアに感じてしまうのだった。
私の沈黙にそれを悟ったのか、リタは腰に手を当て、物凄く大きなため息をついた。
「わかりましたわ」
「えっ、何が?」
「ひと月前、お嬢様が遮二無二にその青い石を取りに行こうとした理由です」
リタの目がまたキラリと光った。
「お嬢様がとりわけ人間関係に関して不器用なのはわかっています。ですが、それは少し見当違いの努力だと思いますわよ」
「……」
「たとえその青い石から出来た薬が完成しようとすまいと、ロラン様はあなたを捨てたりしません。そうでしょう?」
確かに、その通りだと思う。
この青い薬が期待した効果を発揮しなくても、ロランは落胆するだろうが、苦笑して、また頑張ればいいよと言ってくるのは目に見えていた。
だが、私にとってはそれは自分では許せないことだった。
何としてもロランの期待に添わなければ……と、私は焦っている。
だからこうして毎日毎夜、私は効果もわからない薬を調合しているのだ。
彼を失望させたくない、否、彼に失望されたくないという、それだけの理由で。
「お嬢様。お嬢様はこのところ、少し無理をしすぎですわ。あなたは元聖女候補者である前にアリシア・ハーパーという一人の女性です。もっともっとロラン様に別の方法で思いを伝える方法があるはず、そうではないですか?」
たった二つしか歳が離れていないのに、その言葉は莫大な示唆を含んだ言葉に聞こえた。
心の中を洗いざらいさらけ出された私は、ますます無言になってしまった。
思いを伝える――私にとってそれはとても厄介な話だった。
妹のノエルなどはこういうことに長けていて、好き嫌いを嫌味なく口にしても咎められないようなある種の才能を持っていたのだが、残念ながら姉の私にはそういう能力は備わらなかった。
人に根本的に好かれたことがないから、こちらが好きだという言葉も伝えられないのかなぁ……。
そんな事を考えた私はなんだか悲しい気持ちになった。
と――その時だった。
「アリシア、いるかい?」
そのロランの声とともに、ドアがノックされた。
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
現在、ポイントがめちゃくちゃ滞っているので何卒よろしくお願いいたします。





