領内の視察に出発
二月が去って、三月が来た。
私とロランは、春めいてきたハノーヴァーの田舎道を二人きりで歩いていた。
まだ3月だと言うのに、もう既に日差しは暑いぐらいだった。
普段からこういう運動をしていないせいか、歩くうちにもう汗が出た。
「アリシア、大丈夫かい?」
「ええ、ただちょっと暑いだけですわ。全く、今年の春が暖かくて安心です」
私が言うと、ロランは「本当にその通りだ」と肯定した。
「けれど、今だけだ。五月に入ると徐々に風の方向が変わって、ここには山背がやってくる。そうなると思わず震えるほどの寒さが八月頃まで続くんだ」
「それは大変ですわね……春はこんなに暖かいのに」
「山背のやってこないときは平穏なんだけれどね。とにかく、これからは要注意の時期だ」
ロランは正面に広がる雄大な山脈を見ながら言った。
山の方も徐々に雪が溶けてきて、銀一色だった山影は徐々に青みがかった色になり始めていた。
ここ、ハノーヴァー領にも春がきたのだ。
名目上は領内の視察だったが、それは私たちが屋敷を出る時に侍女たちについた嘘で、本当は二人で文字通りデート、ということになるだろうか。
まさか護衛も付けずに領主の一人息子が領内をぶらぶらそぞろ歩くとは恐れ入ったが、ロランによるとそれは当たり前であるらしい。
まぁ、ぶっちゃけた話――それが嘘なのはわかっていた。
彼は単に護衛をつけたくなくて、単独での外出が当たり前であるかのように言い張ったに違いない。
そんな見え透いた嘘をついてまで私と二人きりの時間を作ってくれたというのは、嬉しい反面、なんだか心細くもあった。
いくら私と言えど、外を歩くときは護衛とは言わずとも誰かがそれとなくついてくるのは当たり前だったし、多分、ロランもそうだろう。
しばらく歩いたが、こんな時、普通の婚約者同士ならどういう会話をするのだろう――私はぼんやりそんな事を考えていた。
私はこういう、場を盛り上げるだとか繋げるということにはめっぽう弱く、ともすれば押し黙ってしまう性質だ。
元婚約者であったユリアン王子とはその沈黙が物凄く苦痛だった私だが、何故かロランとはそういうことがなかった。
今のロランと私は基本的に無言で田舎道を歩き、ときどき、自分の目に飛び込んできたものを報告し合った。
ひばりが空高く舞い上がっていったとか、あそこは昔大きな林だったとか、私たちはそんなことをぽつぽつと語り合った。
特に返答を求めるでもないその報告の後にはまた沈黙が落ちるのだが、不思議とその沈黙が苦痛だとは思わなかった。
信頼――というものがそう感じさせるのかも知れない。
私とロランは、既に心の底でお互いのことを認め合っている。
こんなふうに沈黙しても、苦痛だと思ったり、嫌だとは思わない。
そのことをお互いにわかりつつあるのかもしれない、私は都合よくそんなふうに考えた。
なんだか――それは面映いような、安心するような、不思議な感覚だった。
とにかく、私たちは目的地に着くまで、会話らしい会話はほとんどなかった。
◆
一時間も歩くと、やがて小さな村が丘の下に見えてきた。
すっかり雪も消えた大地に風が吹き渡る、気持ちのいい場所。
そこに肩を寄せ合うようにして、三十軒ほどの家屋がまとまっていた。
あそこだ、とロランは一言呟いて、村へと降りていった。
「ここがネリンガ村だ。ここには僕のよき理解者がいる。君にも紹介するよ」
村はにぎやかではないが、落ち着いた風情のある、歴史の古そうな村だった。
時期的にまだ農作業には時期が早いらしく、人々は日毎に暖かさを増す太陽の光を取り込むかのように表に出て、家の戸口で井戸端会議をしたり、洗濯をしたりしている。
私はそんな光景を見ると、いつもなんだか涙が浮かびそうになってしまう。
こんな平和がいつまでも続けばいいのに――全員がそう願っているだろう人々の、何気ない営み。
それが私にとってはまるできらきら輝く宝石のように美しく見えるのだった。
しばらく村を歩くと、ひときわ大きな館が目の前に現れた。
着いたよ、と一言言いおいて、ロランは館の裏の方に大股で駆け寄った。
「グスタフ、僕だ! いるかい!」
ロランが大声を出すと、不意に私の目の前の玄関が開いた。
出てきたのは、四十めく赤ひげの男だった。
誰だ、あんた? 男はくぼんだ眼窩の中に輝くアーモンドアイで私をじっと見た。
あの、と私が何か言おうとする前に、ロランの「グスタフ、いないのか!」という声に男が反応した。
「ロラン様! 私はここにおりやすぜ!」
ものすごい訛りで、男は大声を張り上げた。
ロランがパッと振り返った。
「ああ、グスタフ! 悪いね、突然訪問してしまって」
「いいんでがすよ。このお照らしでもまだ百姓仕事には早ぇ。今日はロラン様おひとりでがすか?」
「いいや、今日は君に紹介したい人を連れてきたんだ」
ロランは私の肩を抱いた。
「アリシア、彼はグスタフ・シュヴァル。この村の村長をやってる篤農家だよ。僕の相談相手なんだ」
グスタフ、と言われた男は、いかつい髭面に意外なぐらい人懐っこそうな笑顔を浮かべて右手を差し出してきた。
「グスタフ・シュヴァルでがす」
「ええ、よろしく。私は――」
「彼女はアリシア。公爵家の令嬢で、僕の婚約者――になるかも知れない人だ」
ロランがそう言うと、グスタフは目を瞠った。
「へぇ、婚約者! ロラン様もやっとその気になったんでやすか! 昔から縁談の話をああでもねぇこうでもねぇと断っておいでだったのに! なんでまた!」
「そう、それが今日の相談内容の一部なんだ」
ロランが言うと、グスタフは私の手を両手で包むように握ってから、館の奥を顎でしゃくった。
「汚ぇ田舎屋ではありますけどな、まぁ入ってくだせぇな」
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
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