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『アルベール』

「ふぅ、こんなににぎやかな夜は久しぶりだわ。あの人もロランもあんなに飲んで騒いで……」


夜を徹して行われるかに思えた宴も、辺境伯とロランがウトウトまどろみ始めたことでようやくお開きの雰囲気になった。

私とヴァレリア夫人はそれぞれロランと辺境伯をそれぞれの寝室に寝かしつけた後、別室でようやく一息つける空気となった。

ヴァレリア夫人は疲れ切ったような表情で、それでも久しぶりの一家団欒が楽しかったのか、額の汗を拭いながら微笑んだ。


「特にあの人があんなにニコニコしてるのを見たのは何十年ぶりかしら。昔はそうでもなかったのに、辺境伯として跡を継いでからはずっとああだった。ふと笑うことがあっても、すぐにあんな仏頂面に戻っちゃうんだから。今ではすっかり顔の皺も深くなっちゃって……」

「へぇ、昔の辺境伯はあんな方ではなかったんですか?」

「もちろんよ。昔はとても朗らかな人だったのよ。そうねぇ、今のロランをもっとおしゃべりにした感じ?」


ヴァレリア夫人が言ったことに、私は真剣に驚いていた。ロランは多弁というわけではないけれど、人並みによく喋る人だと思う。それをもっとおしゃべりにした感じ、というヴァレリア夫人の発言は心底驚きだった。


「でも、辺境伯として跡を継いでからはそうでもいられなくなったのかしらね。いつも苦虫を噛み潰したような顔で、神経をすり減らして……本当はもっともっとゆったり構えてもいいんじゃないかしらと思うけれど、アレは本人の性格なのね。いくら歳をとっても気を緩めることだけは得意になれなかった」


本当に仕方のない人よね? というように私にウインクしてみせた夫人に、私は控えめに笑った。笑っていいのか迷ったのもあるし、辺境伯として跡を継いだらロランもそうなるのだろうか、とふと考えたからだった。

そんな私の内心の不安を悟ったのか、夫人はふと柔和な微笑みを湛えて、安心させるように私に語った。


「でもね、それは私のせいでもある。私には政治や領地経営のことなんて全くわからなかったんだもの。そのせいであの人一人に負担をかけてしまったのね。その点、あなたはそうじゃない。もう立派にこのハノーヴァーの力になっているんだもの。ロランはそうならないわよ」

「力だなんて……私はただただ、七年前のようなことを繰り返したくないだけなんです」


私は首を振って夫人の言ったことを否定した。


「七年前の飢饉では多くの人が亡くなりました。命を取り留めても、失ったものがあまりにも多すぎる人が生まれてしまった。今回起草した農業協同ギルドだって、本来はもっともっと早い時期に農民たちの側から生まれていてもおかしくなかったんです」


私はリタに淹れてもらった眠気覚ましの紅茶を啜りながらそう言った。紅茶からはほんのりと蜂蜜の味がした。


「それを抑圧してきたのは我々貴族の側です。人々が連帯し、団結することを恐れてばかりいた。もう時代が変わりつつあるのに、時計を止めて、それでいいことにしていた」


ハァ、と私はため息をついた。


「でも、そんなものはいつか誤魔化せなくなるときがやってきます。いずれにせよ、我々貴族階級の人間は農民たちの団結を認めざるを得なくなるときが来る。それなら、私たちがその団結に加入した方がきっといい。そうなればきっと、ロラン様がハノーヴァーの跡目を継がれるときにも――」


私はそこまで言って、はっと我に返った。ヴァレリア夫人は私の動揺を見て、おどけたように眉毛を上げた。


「――続きは?」

「あ、いえ、なんでもないです、こんなところで……!」


私が縮こまってしまうと、ヴァレリア夫人はケラケラと可笑しそうに笑った。いけないいけない、ついつい話に個人的な願望を混ぜてしまった。


単純に、私はロランに、領民に愛される領主になってほしかったのだ。ただただ人々の上にあぐらをかき、徴税という収奪でいい思いをしている、と陰口を叩かれる領主にはなってほしくなかったのだ。

それは私が、彼がどれだけ普段から善き為政者になろうとしているのか知っているからだった。彼は根が善人であるという事実以上に、ゆくゆくは自分がこの辺境の大地を背負ってゆくのだという義務感を持っている。

そんな彼の努力を少しでも農民たちと共有できたら、というのが、私が農業協同ギルド創設に込めた密かな願いだったのである。


だけど――隠していたはずのそんな願望も、同じ女性であるヴァレリア夫人には筒抜けだったのかもしれない。

何より、目の前でゆったりと椅子に座り、赤面して縮こまる私を可笑しそうに眺める夫人の目が、私では語り尽くせないほどの思いを湛えているように見えた。

ロランの母であり、ゆくゆくは私の義母になる人。おしゃべりで、快活で、仏頂面が基本の辺境伯とは正反対の、咲き誇る薔薇のような人。そんな華やかで軽やかな人には、日陰に根を張った雑草でしかない私の個人的な願望など、笑ってしまいたくなるほどに見え透いていたのかもしれない。


しばらく私をじっと見つめた夫人は、「さぁ、おしゃべりも疲れたわね」と立ち上がり、ふああ、と大きく欠伸をした。


「そろそろ私たちも寝ましょう、アリシア。明日からあなたも忙しいんでしょう?」

「ああ、はい。明日は久しぶりにネリンガ村の視察に向かいます」

「なら朝も早いのね。私はお寝坊さんだから明日の朝には会えないかも。久しぶりの村を満喫してくるといいわ」


はい、と頷くと、夫人は笑みを深くし、細かな衣擦れの音を立てて寝室に向かおうとする。

密かに伺っていたその機会が――遂にやってきたような気がした。


「あの、ヴァレリア様」


私が呼び止めると、夫人が立ち止まり、不思議そうに私を振り返った。


「あの、不躾な質問なのは重々承知しております。けれど――どうしても知りたいことがあって」

「知りたいこと?」


夫人はこれから私が何を質問しようとしているのか知らない。

この質問が、せっかく家族になりかけている私たちの間に亀裂を入れるかもしれないのはわかっている。

けれど――それだけは絶対に、訊ねておかなければならないことだった。


ぐっ、と決意とともに拳を握りしめて、私は口を開いた。




「あの――ロラン様のお兄様、身罷られた彼のお兄様のことを、少しでもいい、教えてはいただけませんか?」




私がそう言った、その瞬間――ヴァレリア夫人が笑みを消した。

ごくっ、と、私は唾を飲み込んだ。


敢えてそれ以上、何も言わずに私はヴァレリア夫人の声を待った。

この人なら、この人なら、その辛い記憶とも、既にきっと折り合っている。

何故だか――いや、何故というより、私たちの間に通じかけている何かが、そのことを確信させていた。

そして、ロランだけがそうなってはいないことも――きっとこの人は知っているし、気づいている。


だから、その糸口はこの人から聞かねばならない。

ロランに本当の笑顔を取り戻してもらうために。

ロランにその記憶と折り合ってもらうために。

「自分も兄を殺した」――あの廃墟と化した実験農場で、彼がそう言ったことの真意について。

彼にも兄だったものの成れの果て、人ならざるものが視えているなら――それを祓えるのは、聖女だけだ。


私は根気強く夫人の返答を待った。

やがて――私の強情に観念したかのように、フゥ、とヴァレリア夫人はため息をつき、遠い目をして天井を見上げた。




「そう、あなたに話したのね――十年もかかって、ようやく、アルベールの話を」




夫人は安堵したような、呆れたような、真意の分からない声でそう言った。

アルベール。それがロランの兄だった人の名前。名前を聞いただけで、私はこの家族の核心に触れた気がした。

夫人はしばし言いたいことを纏めるように無言になり、そして再び口を開いた。


「アルベールは本当に手のかかる子でね。小さい頃から乱暴者というのかきかん坊というのか、とにかくこの屋敷には収まらない子だったわ。気が強くて自信家で、それに知恵も回った。気に入らないことがあれば私たちにも平然と食ってかかって、腹を立てればすぐこの屋敷を飛び出した。ロランとは似ていない、本当に元気いっぱいの子だった――」


辛い記憶を紐解いているはずなのに、その声にはどことなくたまらない懐かしさが籠もっているような気がした。

ヴァレリア夫人は更に続けた。


「ロランが生まれた時、彼は既に十歳近かった。日に日に大きくなるロランをまるで子分みたいに扱ってね。馬で外に連れ出したり、一緒に川で泳いだり、畑から作物を泥棒したり……。うちの人に何発どつかれても、決してロランを連れ出すことをやめなかった。そういう子だったのよ、アルベールは」


ヴァレリア夫人は乾いた声で笑った。それは――そのことは、ロランからも聞いていた。あの蜜蜂が飛び交う空を見上げながら、ロランは兄のことをそう回顧していた。兄は自分には似ても似つかない、勇猛な人であったと。


夫人はもう一度だけ、大きくため息をついた。


「あの子が亡くなってもう随分経つけれど、ロランはそれ以降、一度もアルベールの話をしなかった。まるで兄なんて最初からいなかったみたいに、記憶に蓋をしてしまったみたいに、ね。でもそう、話したのね、あなたに。アルベールの話を……」


ヴァレリア夫人は何故なのか、大きく安堵したように私を見つめた。

その目が、ほんの少しだけ、潤んでいたように見えたのは、私の見間違いだったのか。


「アリシア、あなたは本当に私たちのためによくしてくれているわ。ハノーヴァーの農政のことだけじゃない、あなたは――彼の、ロランの心まで癒やそうとしてくれているわ」

「彼の心を――癒やす?」


そんなことはしていない、と恐縮しようとしたけれど、言わないで、というように、先にヴァレリア夫人が首を振った。


「癒やしているのよ。アルベールのことを話し始めたということは、彼の中に回復しようとする力が生まれているってことなの。アルベールとの記憶に、どうにかして向き合おうとしているの」


ニコリ、と、夫人は寂しげに微笑んだ。


「それはきっとあなたを見ていたからよ。がんばるあなたの姿を見ていて、必死に他人のことを考えているあなたに触れて、自分だって辛い記憶に向き合わなきゃって、そう思ったんでしょうね……」


夫人はそう言って、くるりと私に背を向けた。

もう話は終わり。そう言いたいらしい夫人は、振り返らないままに言った。


「私が話せるのはここまで。私が全て話してしまったら、ロランの、あの子の精一杯の努力を無駄にしてしまうから」

「はい」

「でもねアリシア、遠くないうちに、きっと彼はアルベールのことを自分から話し始める。きっと折り合いをつけようとすると思う。その時は――あなたが彼を受け止めてあげて。お願いよ」

「はい」

「それと――彼の口からその事が語られたら、もしかしたらあなたはロランに失望するかもしれない」


ヴァレリア夫人は、はっきりとそう言いきった。

それはどういう……。私は反射的に口を開きかけたが、私の中の何かがすんでのところでそれを阻んだ。


「でも――きっと大丈夫ね。ロランが選んだ娘なんだもの。あなたはそんなに小さくも、狭くもない。きっと理解して包み込める。夫婦になるんだものね」


夫婦になるんだもの。その一言には、やはり私のような小娘にはわからない、圧倒的な経験と豊かさが籠もっていた。

そう、夫婦なら、パートナーであるならば、きっと理解し難いものも受け入れていかなければならない。

連れ添って数十年、おそらくその作業を根気よく続けてきたのだろう夫人には、その事が骨身に沁みてわかっているに違いなかった。


ヴァレリア夫人は再び短く沈黙し、肩越しに私を振り返った。


「おやすみ、アリシア。明日の視察、気をつけて行ってきなさい」


その一言を最後に、夫人は寝室へと歩いていった。

後には夫人がつけている香水の、ふくよかな薔薇の香りだけが残った。




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