耕そう、大地と未来
久しぶりの里帰りとなったハノーヴァー邸の執務室は、しん、と冷え切っていた。
爽やかな秋晴れとは違う理由で冷える空気の中、私はカラカラになった口のまま、無言で書類上の文字を追うグウェンダル辺境伯の言葉を待ち続けていた。
農業協同ギルドの発足に向け、どうしても必要なのが、このハノーヴァーの本当の領主であるロランの父・グウェンダル辺境伯の裁可だった。
一応、反対されることを含め、あらゆることを想定して練った骨子ではあるけれど、それにしたって相手はあのハノーヴァー辺境伯だ。
海に千年、山に千年を暮らし、この厳しい貴族社会を生き残ってきた【黒幕辺境伯】にとって、私の本気がどれだけ通用するかはわからなかった。
しかし――私は頬杖を付き、足を組み、無表情で書類を読む辺境伯を見た。
辺境伯は単に強面なだけでなく、表情から感情や心の動きというものが一切読み取れない人だ。
本来であれば気になった表現やわからない部分では視線が止まったり表情が変わったりするはずだが、そんなことは一切ない。
ただただ機械的な動作で横書きの書類の文字を追う以外動きはなく、呼吸しているかすらよくわからなかった。
私と同じような表情で隣に並び立つロランは、よく考えると全く父親に似ていない。おしゃべりな母親似であるとよくわかる。
それから三十分以上、私たちは直立不動のまま立ち尽くし続け、辺境伯の言葉を待った。
やがて構想草案の最後のページが捲られると――グウェンダル辺境伯は重厚な机の上に書類の束を置き、野太いため息をついた。
ごくっ、と、既に唾が枯れているのに、喉が動いた。
次の辺境伯の一言で、今後が決まる。
私が半ば判決を待つような気持ちでいると――辺境伯の目がじろりと私を見た。
「アリシア」
「はっ、はい――!」
「失礼だが、君は今、何歳だったかな?」
「じゅっ、十八ですが――!」
「姉上――いや、先代の聖女の下で修行した期間は?」
「五年です。十歳から十五歳まで、あの――!」
「余計な言葉はいい。質問に答えなさい」
かつての私、このハノーヴァーにやってきた時のままの私だったら、今の一言で卒倒したかもしれない。それぐらいに冷たく、低い声だった。
慌てて口を閉じた私に、辺境伯はしばらく何かを考え、そして再び訊いてきた。
「ひとつ訊ねたい。これは私の姉、先代の聖女であったエヴリンが構想していたことか? 君は君の代でそれを実現しようとしているのか?」
私は首を振った。
「それは――全く私のオリジナルです」
「ほう、こんな突飛なことは流石の姉上すら考えつかなかったか」
辺境伯はそこで、低く笑った。
相変わらず、意図の知れない笑いだった。
「君は頭もよく回る。この構想の最大の懸案事項はわかっているな? これは言わば、我々貴族が被支配階級である農民にお墨付きを与えて組織化するということだ。下からの徒党ではなく、上からの指示で組まされる徒党だ。つまりこれによって作られるギルドは半官半民の組織ということになり、今後彼らが言うことには我々領主も当然のこと、耳を傾けざるを得なくなる」
やはり、そこを指摘してくるか。覚悟していたとは言え、私は猛烈な焦燥感に駆られた。
その動揺が顔に出ていたのか、辺境伯は更に訊ねた。
「つまりだ、この農業協同ギルドが一旦出来上がってしまえば、もう後戻りは出来ないということだ。ひとたび組織化されたら、彼ら農民は団結することの力を決して忘れはしない。後になって解散を命じたとしても、人々やカネの繋がりは残り続けるだろう。それはわかっておるね?」
辺境伯は椅子の上で上半身を逸らし、腹の上で手を組んだ。
「それに、農業協同ギルドに加入した彼らが組織的に強訴や一揆を起こしたら、これは単に農民の反乱という性質のものだけではなくなる。一旦は金の首輪をくれてやった飼い犬に手を噛まれたことになる。反乱そのものもだが、これが他に聞こえればまずい。非常にまずい。組織化させておきながら、その領民に反乱を起こされれば、我がハノーヴァー家の威信は地に落ちる。ハノーヴァー辺境伯家に領主の資格なし、王家からもそう断じられる可能性は大いにあるのだ」
あらかたの疑問点や指摘を終えた辺境伯は、そこで私を見つめ直した。
「これらの危険性について、君はどう考える? 安心したまえ、詰問したいわけではない。純粋に君がどう考えているのか訊きたいのだ」
確かに、その時の辺境伯の声には、何を馬鹿なことを言い出すのだ、というような意思は感じられなかった。
さぁ答えてみろ、というように前屈みになり、机の上で手を組んだ辺境伯に、私は慎重に最初のカードを切った。
「確かに、そこは何度も何度も考えました。懸念がないわけじゃないことはわかっております。ですが、私がこの農業協同ギルドの設立で本当に成し遂げたいことは、農民の平和的な組織化なのです」
「ほう? どういう意味かね?」
そう、農民の平和的な組織化。これこそが最も辺境伯の関心を引く話題であるはずだった。
私がこの資料を作成しながら考えた突破口がこれだった。
「元々ギルドというものは、横暴な支配者の専制に対し、人々が団結して対抗することを目的としたものでしょう。個では弱くとも、団結すれば物凄い力を発揮できる……人々は生まれついてそれを知っているものです。王都には石工や加工食品ギルドなどだけでなく、娼婦のギルドまで存在する。ですが、農民階層にはいまだにそれがない。力を持つ余地がなかったからです」
私は舌先で唇を湿らせて、続きを口にした。
「かつて農奴と呼ばれ、我々貴族の荘園で半奴隷的な労働に従事していた人々は、そもそも団結して何かを為すことなど考える暇もない有様でした。許された自由がないからです。彼らには転職や転居の自由もなく、婚姻にすら領主の許可が必要だった。ですが、今はどうです? 数百年前の黒死病の大流行、そして七年前の飢饉で、我が国の農村は壊滅的な打撃を被った。人口減少という災害によって、そして貨幣制度の発達という進歩によって、既に形骸化しつつあった我が国の荘園制は決定的に崩壊した――」
何が言いたい、というように、辺境伯の眼光が鋭くなる。
私は、意を決して言った。
「今の農民には自由があるのです。荘園制が崩壊し、自作農が増えたこと、労働力人口の減少による食糧価格高騰で、農民たちには金銭的、経済的な余裕も出てきている。つまり彼らは個でも力を持ち始めているのです。生活に余裕が生じた彼ら農民は次に何を考えるでしょうか。答えは簡単、さらなる自由と、その図体に相応の発言力と権利の獲得でしょう」
辺境伯の表情が、そこで初めて変化した。眉間にわずかに皺が寄り、私が言ったことの意味を逡巡するような気配があった。
その隙を逃さず、私は続けた。
「何が言いたいかというと、この状況下では、彼ら農民は遠からず団結を始めるということです。ただでさえ人口が減り、かつて出来ていたことも出来なくなっている。だったら組織化して自らの生活を防衛しようとするのは賢い選択ですし、自明のことです。我々貴族にとっても農民は財源であり貴重な労働力です。それが物理的に減少した今、我々領主だって以前のように頭ごなしの抑圧はしたくでもできない、そうでしょう?」
少し失礼な言い方かとも思ったが、ここで余計な腹芸はしたくなかった。
私はストレートに、今後の見通しと、それによる懸念を語った。
「農民たちが団結し始めるのが時間の問題だという前提でお話します。我々領主の側が懸念すべきなのは、この組織化が見えないところで行われることです。一種の秘密結社、闇の同盟のような形で連帯されれば、これは非常に厄介です。それに加え――」
私はそこで言葉を区切った。
「この上最悪なのは、その組織化・団結が、各種の反体制思想、無政府思想などの危険思想を根本原理、スローガンとして行われてしまうことです。そうなればこれはもはや農民のためのギルドでもなんでもない。農村が反社会的思想、テロ組織の温床となってしまう。こんなものが農村に侵入することを許してしまうぐらいなら――」
「飼い主の側から首輪をくれてやった方がまだ得だ、とな」
辺境伯は確実に何かを納得しつつある声で、そう言った。
よかった、辺境伯が頑迷で保守的な人であるなら、この危険性は一顧だにしてくれなかっただろう。
「その通りです。この農業協同ギルドの設立が上から行われるということは、我々貴族にとっても大いに利益のあることなのです。少しでもいい、この組織の運営にハノーヴァー辺境伯家が関わるならば、彼らだってちゃんと頭の中でそろばんを弾くでしょう。敵対的な組織にするか、和平的な組織にするか、どちらがいいかは彼らにだってわかりきったことでしょう。それに――」
辺境伯は何度も頷き、何かを考えるようにこめかみに指を添えた。
「それに、今後はどの国のどの領地でも、組織化しようとする農民と領主の対立が激化してゆく時代になると、私は考えます。ここで我がハノーヴァー領が農民の平和的な組織化に成功し、官民融和のモデルケースとなればどうです? それだけではない、この農業協同ギルドの成果が上がり、我が領地の農村がいち早く飢饉の影響を脱することができれば、農業協同ギルドの創設に参加したハノーヴァー家の名声、そして農業協同ギルドの有効性は国内外に知れ渡ることになる――」
アリシア――というロランの声が耳に聞こえた。ちら、と横を見ると、ロランが何だか尊敬するような視線で私を見ていた。
私はその視線にウインクで答えると、辺境伯に向き直った。
「時代は変わる。それに合わせて農村も変わる。ならば貴族たちも変化しなければならない。対立せず、恨み合わず、共に手を取り合った繁栄。【未来を共に耕す】、それが私の理念――そして、農業協同ギルド創設の理念です」
ふむ、と、辺境伯が唸った。
再び、しばらく何かを考える無言の間があって――私を見つめていた鷹の目が、今度はロランに移された。
「ロラン」
「は、は――なんです、父上?」
多少慌てたように答えたロランに向かって――。
辺境伯は強面を緩ませ、目尻に皺を寄せ、低い声で笑った。
「喜べ、息子よ。お前の妻となる人は、どうやらこの国一番の賢姫であるらしいぞ」
――それは、私が初めて見た、辺境伯の本当の笑顔だった。
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。





