似合わない展開
スコットが帰ってから約半月の間、私は構想の鬼と化していた。
濃い目に入れてもらった紅茶を啜りながら、夜も寝ずに食事も取らずに、眠気が来れば氷水を頭からかぶって――というのはもちろん嘘だけれど、とにかく、食事と湯浴みと、まだ続いていたレオとのランニングの時間以外の殆どを、私は色んな書物や資料と睨めっこし、来るべき農業協同ギルド設立の骨子を練る時間に充てていた。
実にひと月あまりになってしまった王都滞在が、どちらかと言えば知的刺激の少ない生活で、脳みそが多少暇を持て余していたこともあるだろう。
けれど、それだけではなかった。私は多分、単純に自信がついたのだ。このハノーヴァーに医者も呼べて、妹とも多少は仲直りできて、ロランとも少しは婚約者らしいことも出来た。
何より激動のこのひと月、私はどんな死の危険が迫っても――結局のところ、死ななかった。死なないでハノーヴァーに帰ってくることが出来たのだ。
今の私は殺したって殺せない、殺せるもんですかという妙な自信は、徐々に私が立ち上げるべき農業協同ギルドへの自信に変わっていっていたのである。
ガリガリ――と、私の握ったペンの先端が、物凄い音を立ててノートの紙面と擦れ合う。
農業協同ギルド創設の骨子は実にノート三冊分を数えていて、いよいよここから要旨をまとめる段になっていた。
今日ももう、五時間以上は机に齧り付き、農業協同ギルドの構想を練っている。肩も腕もパンパンだったけれど、何故か集中力だけは途切れることがなかった。
そのときの私は、何故かあまりロランと会いたがらなくなっていた。
もちろん彼のことが嫌いになったわけではないのだけれど、なんというか、触れ合いたくなかったのだ。
ロランの方も、たまに私の私室のドアを空け、鬼気迫る感じで机に齧りついている私をそっと後ろから眺め、何かを確かめてそっと去っていく、そんな感じになっていた。
多分――そのときの私は、ロランに甘えてしまうことを自分に禁じていたのだろうと思う。
私が疲れて弱音の一言でも吐けば、きっとロランは私を心配するような言葉を言っただろう。
もう少しちゃんと休んだら? 今度気晴らしに散歩にでも行こうよ、そんなことを言い出したに違いない。
そんな事を言われれば、今は私の方もついつい頷いてしまう自信があった。私たちは確実に、お互いがお互いをどう思っているのか、知り抜いていた。
だからこそ、私は彼に甘えたくなかった。甘えるわけにはいかなかった。
この農業協同ギルド創設が、十八歳の年端もゆかぬ貴族令嬢のお遊びとして捉えられることだけは絶対に避けたかった。
少しでも実現不可能な部分、現実と乖離した部分があれば、この構想を聞く人は二度と私たちの話を聞いてくれなくなる。
所詮は貴族の小娘が机上で考えた夢物語、安寧と飽食に浸りきった脳みそが紡ぎ出した絵空事――そのように捉えられれば、今まで積み上げてきたものまで軽んじられ、破壊されてしまう。
これが貴族令嬢のお遊びに終わるのか、それとも本当に世の中を変え得るものになるのかは、今この時にかかっていた。
だからこそ、私は私にとって最大の癒やしであるロランという存在を物理的に切り離し、まるで孤高の教会で独り禁欲生活に励む修道女のように暮らすしかなかったのだ。
大体の構想を纏めきった私は、ペンを紙面に放り出し、んーっと背伸びをした。
この半月の間、耐えずペンを握り続けた手はボロボロで、ペンダコは数回りも大きくなっていた。
日々のランニングで体力がついたこともあるのだろうけれど、肉体的な疲れはあまり感じない。けれど、目や肩の疲労だけはどうしようもなかった。
しばらくポキポキと首を鳴らし、手を握ったり開いたりして、血中に少しでも疲労物質が流れていってくれることを祈った。
私はふと、窓の外に広がるハノーヴァーの雄大な山々を見渡した。
もう夏は完全に行き去り、本格的な秋に入ろうとしていた。
この雄大な大地も、あと数ヶ月もすれば雪の下だ。
ハノーヴァーの豪雪は有名で、多い時には数メートルも雪が積もるという。
それ故、冬のハノーヴァーの大地は雪のせいで全てが原始状態に還り、人も外で遊ばなくなる。
せめて初雪が降るまでには、この農業協同ギルドの骨子を纏めなければならない。
纏めて、周囲の村々を周り、人々を説得して、最初のギルド員を獲得するところまで、欲を言えばやりたかった。
女神様、そして先代の聖女様。願わくば、もう少しだけ冬の到来を遅らせてください。
冬という季節は凍てつく季節、いわば守りに入る時期で、新たな発想を受け入れるには少々辛い季節です。
どうかこのギルドが天からの福音であると皆が安心できるよう、少しでも短い秋を長くしてください――。
「おーい、アリシア!」
不意に――ロランの声が下から聞こえて、私はハッとした。
椅子から立ち上がり、窓を開けて顔を突き出すと、そこにはロランとレオ、ライラが立っていた。
三人の足元には、巨大な木の一枚板があった。一体あの板はなんだろう? 私が視線で問うと、ロランが合図し、三人はその一枚板を頭上に持ち上げた。
その一枚板には大きく文字が掘られていて、豪華なことに、金箔が貼られていた。
その板に書かれた文字を、私は口に出して読んだ。
【テッド・ノーマン記念医院】
文字は、そう書いてあった。
テッド・ノーマン医師の慈愛ある横顔を思い出した私が微笑むと、いい名前でしょう? というようにライラも笑った。それに釣られるようにして、ロランもレオも自慢気に笑った。
このセントラリア復興村に建設されることが決まったライラの新医院。
その建設予定地の方角からは、トンカントンカンというリズミカルな槌の音が絶えず聞こえ続けていた。
そう、私たちを取り巻く風景は、確実に変わりつつあったのだ。
◆
約半月に渡った戦いが終わったのは、とある満月の晩のことであった。
ガリッ、と、最後の文字を書き終えた私は、長く長くため息をついた。
終わった。とりあえず、農業協同ギルド設立の構想は、私の頭の中で完成を見た。
頭の中で、何回も何回も、不備がないか確認した。
実現不可能な部分はないか。負担が大きすぎる部分がないか。
王国の法律に抵触する箇所はないか。農民たちの反乱を誘発する思想はないか。
何度も何度も繰り返し繰り返し考えて、大丈夫だ、と私は結論した。
農業協同ギルド――世界を変えるかもしれないその構想の種は、その夜、ひっそりと、古ぼけた机の上で産声を上げた。
しばらく、私は何も言えずに、分厚い紙の束を見つめた。
月明かりに白く浮かび上がる表紙には、『農業協同ギルド設立の構想』とある。
最後の最後、私がそう書き記した時に脳裏に浮かんだのは、七年前のあの大飢饉のときの光景だった。
飢え、弱り、絶望し、それでもそう簡単には終わらない生の苦痛を嘆く人々――。
もう二度と、彼ら農民たちに、生きることが苦痛だなんて思ってほしくなかった。
否、少しでもその思いが軽減される手助けに、この農業協同ギルドがなってほしかった。
と――そのとき。
ドアがノックされる音が聞こえて、私は振り返った。
「アリシア、もう寝た?」
ロラン様、と、私はたった一言、呟いた。
それきり、言葉が続かなかった。
絶句してしまった私の沈黙を不審に思ったのか、許可を得ることなくドアが開かれた。
「アリシア、まだ起きていたのかい?」
随分遠慮がちに、ロランはそう言った。ただそれだけだった。もう寝なさいとも、進捗はどうかとも、訊ねなかった。
私は無言で机の上の紙の束を取り上げ、胸の前で持ち、ロランに示した。
ロランの目が――徐々に見開かれていった。
「アリシア、もしかして――!」
「えぇ。完成、完成しましたわ――農業協同ギルドの、設立構想……」
そのときにロランが浮かべた表情は、とても私には言い表せない表情だった。
驚きとも、喜びとも、なんとも言えない何かの感情が渦巻き――ロランは何だか恐れ慄いてしまったかのような表情で、いつまでもその紙の束を見つめた。
しばらく無言の対峙の中で――私はぼんやりと考えていた。
こういうとき、一組の心通じ合った男女なら、普通どうすべきなのか。
抱き合って喜びを分かち合うべきだろうか。
とりあえず事務的に今後の話をするべきだろうか。
この作業がどれだけ大変だったか訴えるべきだろうか。
もしくは――ただただ無言で手と手を取り合い、真っ直ぐ見つめ合って、そのまま唇と唇を――。
似合わん、と、誰かの野太い声が脳裏に響き渡って、私はその先の妄想を打ち消した。
そうだ、似合わない。というより、私たちにはなんだか似合ってしまってはいけない気がした。
これは私たちの二人の愛の結晶ではなく、あくまでも夢の第一歩、まだ中身の詰まっていない皮の部分なのだ。
多くの人のためであるこれを、私たちが個人的な一線を踏み越えるきっかけにしてしまうこと。
それは何だかとても失礼なことのように思えたし、第一、そんなことは私たちにはとても似合わないロマンスに思える。
私たちはいまだ土に汚れたニンジンと馬鈴薯でしかなく、一緒に皮を剥かれ、シチューになって溶け合ってしまうのは――まだ早い。
わけのわからない例え話を延々と頭の中に繰り返し、私はとても助平な衝動が行き去るのを待った。
衝動が落ち着き、多少平静を取り戻したところで――私はニッコリと微笑んだ。
「ロラン様」
「な――なんだい?」
ゴクリ、と、ロランの喉仏が動いた。
あ、この人も助平なことを考えてるな――と、ひと目でわかった。
わかってしまったことが嬉しくて、私はますます笑みを深くし、とてもいい声で言った。
「この書類に――サインをいただけますか?」
ふぇ? と、ロランは小動物のような鳴き声を発した。
この涼やかな青年の口からリスの鳴き声、もちろんとても情けなくて、そして、可愛らしかった。
「サインですわ、サイン。ハノーヴァーには余所者でしかない私のサインだけでは、皆さん納得しませんわ。領主の令息であるロラン様のサインが入って、この構想はいよいよ完成です。悪いですけど今、お願いできませんか?」
そう言われて、ロランが何だか明らかにガッカリした表情になった。
あぁ、と、何だか不貞腐れたような顔で視線を逸らし、ボリボリと頭を掻き毟ってから、ロランはそれでも一瞬後には何か思い直したらしかった。
私がペンを渡すと、ロランはサラサラと、自分の名前を表紙に書いた。
その横顔が、何だかお預けを食らった犬のように思えて、私はそっと、ロランの耳元に囁いた。
「私たちがそうなる時は、もっとロマンティックな場所と状況で、ね――?」
そう言った途端、ぐっ、と唸ったロランの顔が、あっという間に耳元まで真っ赤になった。
本当に、この人は不意打ちに弱いなぁ――何だか安心したような、笑いたくなるような、不思議な気持ちで、私は真っ赤になったロランの顔を見つめ続けた。
「面白そう」
「続きが気になる」
「頑張れ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。





