流れ星
私はその場に尻餅をついた。
そのまま、目の前に、私の目の前に立った巨躯を見上げた私は、何故、とたった一言呟いた。
「ライザール、さん……!?」
両腕を広げ、盾の如くに私の前に立ちふさがった青年。
ライザール・アル=ジャンマールは、撃たれた場所に手をやり、うめき声を上げて崩れ落ちた。
ライザールがくずおれた先に――私を庇ったライザ―ルを驚愕の目で見つめている伯爵の姿があった。
「ライザール――」
何故だ、と伯爵の口が、そのように動いた。
そのまま、己が撃ってしまった最愛の人間を呆然と見つめた伯爵は――いまだ硝煙を上げたままの銃口をだらりと下に向けた。
「よくも――よくもォッ――!!」
瞬間、ライラが肩を抱えていたレオをその場に放り捨て、鬼神のような動きで地面を蹴った。
は――!? と伯爵が空を飛んだライラを見上げた瞬間、天に向かって大きく振り上げられたライラの右脚の踵が、ギロチンの刃のように伯爵の首筋に落ちた。
首の骨が粉砕されたのではないかという音が発し、ゲェッ! と伯爵が潰れた悲鳴を上げた。
踵落としの勢いそのままに顔面を地面に叩きつけた伯爵は、鼻先を地面にめり込ませて、ようやく完全に沈黙した。
「ライザールの、ノーマン先生とロレッタの、そして王都全員の、これが仇よ! そこで死んでろ、このクソッタレのドクズ野郎ッ!!」
肩で息をし、とっておきの罵声をひとつ浴びせて――ライラはライザールの側にしゃがみ込んで、胸に穴が空いた服を脱がせ始めた。
一瞬、顔をしかめて目を開けたライザールが呻いた。
「ライラ――いい、もう構ってくれるな。俺にそんな価値は……」
「もう黙って、傷に障るわ。私は医者だからあなたを助けるだけよ」
それ以上はもう何も言わないというように、ライラは如何にも医者らしい手捌きでライザールの身体を検めてゆく。
そのライラの横顔を目だけで見つめたライザールは、成長した妹を眩しいもののように見つめ、目を細めた。
「お前――すっかり立派な医者になったんだな。父さんや、母さんと同じ――」
その一言に一瞬だけ、ライラの手付きが止まったけれど、すぐにライラは治療行為を再開した。
ややあって、私もライザールの側にしゃがみ込んだ。
「ライザールさん、ライザールさん! お気を確かに……!」
私がそのボロボロの手を握ってやると、ライザールが私を見上げた。
どうして、どうしてなのだ。どうしてこの青年は私を庇ったのだろう。
しばらく私の顔をしげしげと見つめたライザールが――フッ、と安堵したかのように笑った。
え? とその笑顔に胸を突かれたように感じた、その瞬間だった。
「申し訳ない、アリシア様。俺は――またあなたに救われてしまったようだ」
私は、その言葉に息を呑んだ。
ああ、と目を閉じてがっくりと後頭部を地面に押し付けたライザールは、そう呟いた。
「できれば、できればこれだけは、無傷でお返ししたかったのに――」
どういう意味だろう。私がその言葉に戸惑う視線でライザールを見つめた、その時だった。
はっ、と、兄の傷を検めていたライラの手が止まった。
「これは――?」
私がライラを見ると、ライラは震える手で、ライザールの服の胸ポケットに入っていたものを取り上げた。
おそらくはさっきの鉛玉が貫通したのだろう。
真ん中に大きく穴の空いた、それは銀とサファイヤで出来た星のブローチだった。
すっかりボロボロになり、擦り切れ、くすんではいたけれど――。
それは紛れもなく、私があのときノエルからもらい、あのとき貧民に与えた、あの宝物のブローチだった。
「傷は――浅いみたい。多分このブローチが、鉛玉の威力を減殺したんだわ……」
ライラの言葉に、ライザールが私から視線を外した。
私は信じられない思いで、ライザールを、そしてライラを見た。
どうしてあなたがこれを――? 私が視線で問うと、ライザールが口を開いた。
「三年、三年かかりました。王都を駆けずり回り、あなたにお借りしたこのブローチを再び買い戻すまで、それだけかかった――。俺は、俺は、あの時これを施してくれたあなたの顔を、あなたのあの時の慈愛を忘れたことは……ただの一度もありませんでした」
ライザールの表情が穏やかなものになった。
終始一貫していた仏頂面が緩んだその下にあったのは、年齢相応の、柔らかい表情と口調だった。
「何度、あなたのところへ……これを返しに行こうとしたかわかりません。だが俺にはできなかった。人の道を踏み外した自分を、あなたに見られるのがたまらなく怖かった――。あなたには、あなただけには見せられない姿だと――」
苦しい息の下でそう告白したライザールは、瞑目したまま静かに涙を流し始めた。
「しかし俺は、俺はまた……あなたの優しさに救われてしまった。大恩あるあなたすら殺そうとした俺なのに――。あなたや俺の妹が、そしてその仲間たちが、俺をこの地獄から救ってくれた。そして今度は、俺の命まで――」
涙を流す自分を見られたくなかったのか、ライザールは右手で両目を覆った。
「俺は、俺という人間は――何度も何度もあなたに救われてしまう。いつまで経っても、何者になろうとも、あなたに恩を返し切ることができない。ちくしょう、俺はいつまでもあのときと同じ、何も出来ない貧民のままだ――!」
己の無力を嘆くかのように、ライザールの涙は止まることがなかった。
ライザールの告白に、しん、と、周囲に痛ましい沈黙が流れた。
真面目すぎた、誇り高すぎたが故に人の道を踏み外し、長い長い暗闇を歩くことになってしまった、この異教徒の悲しい青年。
絶えることなく続く嗚咽を聞いていると、一度は殺されかけた怨念も吹き飛び、辛かったんだな――と思うことしか出来なかった。
私はライザールの手を両手で握った。
「もういいんです、ライザールさん」
私は静かに、きっとただならぬ道であっただろう彼の苦難の何年かを労った。
「もうあのときのことは気にしなくてもいい。あなたが傷を癒やし、ちゃんと人間に戻ること……それこそが私の願いです。そして、それはライラさんの願いでもある」
ね? とライラに目配せすると、ぷい、とライラは顔を逸らした。
わだかまるものはまだあるけれど、きっと彼女だってそう願っている。
その確信とともに、私はライザールに語りかけた。
「あなたはもう自由になっていい、もう十分に苦しんだ。私からも、過去からもです。あの冷たい路地やこの農場を出ていって、お日様のある広い世界に歩いていってください。ね?」
そう言うと、ライザールは何度も何度も頷き、私の手を握った。
彼の中の地獄がやっと終わった――その事がわかった私は、ようやく安堵のため息をついた。
「こっ、これは――!?」
と――そのとき。
聞き覚えのある青年の声が聞こえ、私はあっと声を上げた。
金髪でひょろりと背の高い青年――ユリアン・クレイドル王太子が、随分慌てた様子で馬車を飛び出し、きょろきょろと辺りを振り返っている。
おお、あんなに動揺する彼の姿は初めて見たな、などと思っていた私は、続いて馬車から降りてきた人物に、ぎゅっと心臓を握り潰されるような衝撃を受けた。
不安そうに辺りの様子を窺い、ユリアン王太子の背中にひっついたままの小柄。
それはどこからどう見ても、私の妹であるノエルの姿だった。
「アリシア」
と――ロランに肩を叩かれ、私は顔を上げた。
大丈夫だよ、と表情だけでそう言っているロランに、私は少し沈黙して、覚悟を決めた。
「ライラ、そのブローチを貸してくれ」
ロランの言葉に、ライラは無言でロランの手にブローチを乗せた。
そのままロランに肩を抱かれ、私は一歩、また一歩と、妹に近づいていった。
「ユリアン殿下、王太子妃殿下!」
ロランの声に、ぎょっとユリアン王子とノエルが振り向いた。
あっ、の一言のまま固まった二人に、私たちはゆっくりと近づいた。
「ハノーヴァー卿――!? それにアリシアも、どうしてこんなところに……!?」
「いや、どうして、と問われましても……正直、僕らもどこからどう説明したらよいのかわからないのですがね……」
苦笑したロランに追従するように、私も苦笑いを浮かべた。
へへへ、と笑い続けるしかない私たちに、ユリアン王子とノエルが顔を見合わせる。
「ユリアン殿下」
「な、なんだい?」
「今、王都を震撼させている病魔の正体はこれです」
私は、手に握っていた魔女の霊薬の試薬を示した。
それから、長い長い説明の時間があった。
マンシュ伯爵がこの砒素毒で王都の食糧を汚染していたこと。
ここで多数の貧民たちが虐待され、病魔に蝕まれていたこと。
王都を苛む病魔がおそらくは急性砒素中毒であろうこと。
そして真実に気づいた私や黒斑病関係者を、伯爵が拉致監禁し、口封じをしようとしていたこと。
そしてこの場で反乱を起こし、マンシュ伯爵の軍と戦ったこと。
そこに「偶然」通りかかった冒険者ギルドの冒険者たちが加勢してくれたこと――。
すべてを説明し終わると、ユリアン王子が愕然と肩を落とした。
「まさか、まさかマンシュ伯爵が黒幕だったというのか……!」
やり手貴族として王家の覚えもめでたかったマンシュ伯爵が、一種の国崩しに近いようなことを実行に移した事実。
その事実は他人から聞いたところですべて信用できるわけではないだろうが、この廃墟と化した農場と、痩せて血色の悪い貧民たちがこれだけ居並んでいるのを見れば、陰謀を信じるに足る十分なリアリティがあっただろう。
ああ、と悲嘆の声を上げ、ユリアン王子は平手で顔を拭った。
「マンシュ家だけでこんな大それた事が出来たとは思えないな……おそらく伯爵は宮殿内の人間や食料供給関係の商人も買収していたかもしれない。これは大掛かりなドブ浚いになるぞ。全容が見えるまで何年かかるものかわかったものではないな……」
「あはは……そうなりますかね。とにかく、これが私たちの知り得た事実の全てですわ。伯爵や関係者の処遇は王国にお任せいたしますわ」
私が言うと、ユリアン王子がじろりと私を見た。
えっ、とその目に驚くと、ユリアン王子は呆れ顔で頭を掻いた。
「ああもう、アリシア……なんだって君はこんな危ないことに首を突っ込むんだ? なんで常に君が中心にいるんだよ。一ヶ月前はあの夜会で、今回はこの農場でだ。君は常に首謀者か仕掛け人か中心人物かのどれかだ。君ってそんなトラブルメーカーだったのかい?」
「トラブルメーカーって……」
私は元婚約者の気易さで遠慮なく口を尖らせた。
「この農場に関しては私は立派な被害者ですわよ。そりゃあの爆発は私の発案でしたけど……お小言でなくお褒めの言葉が先ではないのですか?」
「あの爆発も君が起こしたのか!?」
あっさり言った私の言葉に、ユリアン王子だけでなく、ノエルも仰天した。
「正気か君は!? 一歩間違えればもろともに消し飛んでたんだぞ! それこそ証拠も何もあったもんじゃないじゃないか! どうして砒素中毒だとわかった時点で宮殿に届けなかったんだよ!」
「いや、それはまぁ、事実をこの目で確認しないうちは、といいますか、多少冒険してみたくなったというか……」
「へ? ああもう、わかったわかったよ、もう……君のそれは使命感や責任感じゃなくて単なる性格だって、そういうことだろ?」
ユリアン王子は理解を諦めたような顔で私の言葉を遮った。
それから王太子らしい振る舞いで、その場に居並んだ冒険者たちに言った。
「とにかく……皆の者! 余はユリアン・クレイドル王太子である! この場に加勢したというギルドの代表者は誰か!?」
よく通る声でそう号令したユリアン王子に、ダッドがのしのしと走り出してきて畏まった。
その人間離れした巨体に、うわっ、と一歩退いたユリアン王子は、それでも一瞬後には冷静な王子の顔に戻った。
「そっ、そなたが代表か、てっきりオークかなにかかと……ゴホン。そなたらが我が股肱の臣であるアリシア・ハーパー、並びにロラン・ハノーヴァー両者の救出に協力してくれたそうだな!」
は、と殊勝な態度でダッドは応じた。
王子は一層高々と声を張り上げる。
「ここにいる両名に代わり、そして我が父である国王陛下に代わり、余から礼を述べさせてもらおう! 我が王国への惜しみない献身、嬉しく思うぞ! この言葉を賜る栄誉、孫子の代までそなたらの誇りと為すがよい!」
その言葉に、ぐわっとダッドが顔を上げた。
ぎょっとユリアン王子が一歩退いた途端、うおおおおおお! とダッドが両の拳を突き上げて振り返る。
「おいてめぇら、今の言葉聞いたか! 王子様が俺たちに感謝してくれてるってよ!」
おう! と、その場にいた二十名ほどの冒険者たちが色めき立った。
ダッドはその強面に似合わないえびす顔で小躍りした。
「こりゃあ最高の名誉だぜ、お前らやったな! これで俺たちの名声は地の果てまで届くぜぇ! 今晩は酒盛りだ、王都中の酒樽を空にするまで終わんねぇぞ!」
わああああっ、と、ダッドの息子や娘たちが快哉を叫んで集まってきた。
「やったなオヤジ! これで公衆便所の裏から事務所を移転できるな!」
「おいみんな、みんなでオヤジを胴上げだ!」
「無理だろ! 俺たちだけじゃ人手が足りねぇ!」
「おい農場の皆、何をボケッとしてんだ! あんたらも手伝え、胴上げだ!」
「よっしゃあ加勢しようじゃねぇか! 行くぜオークのおっさん!」
「わーっしょい! わーっしょい! わーっしょい!」
その掛け声とともに、ダッドの巨体がふわりと浮き、まことに賑やかな胴上げが始まった。
その猛烈なはしゃぎぶりをわけがわからんというように眺めてから、ユリアン王子は大きな大きなため息をついた。
「まぁどうやら、ここでの騒ぎは一件落着、ということでいいようだな……いや、いいのか?」
「いいんじゃないですかね」
ダッドたちを見ながら適当な返事を返した私は、そこで背後を振り返り、ライラに目だけで合図した。
ライラは少しおっかなびっくりというような歩調で歩いてきて、王子の前で畏まった。
「おお、そなたはノーマン医師の……!」
「お久しぶりです、王太子殿下。ノーマン医師の助手をしております、ライラ・アル=ジャンマールと申します」
「そなたも災難であったな。暴徒に医院を焼き討ちされただけでなく、この農場で危うく口を封じられるところであったと聞いている」
ユリアン王子は気の毒そうにライラの境遇を労い、よし、と声を上げた。
「今時の厄災について、そなたとその師の献身、真に感じるものがある。そこでどうだ、その褒美として、そなたらにはクレイドル王家より新しい医院の建設を与えようと思うが――どうであろうかな」
その願ってもない申し出に、パッとライラが顔を上げた。
「ほ――本当でございますか!?」
「ああ、なによりも貧民街にはそなたらが必要だと、余も思うのでな。黒幕は潰えても病の患者まで消えるわけではない。そなたらの力は王都を癒やすために必要だと、明確に判断できる。どうだ?」
ライラは感極まったように頭を下げた。
「もったいないお言葉、真に恐縮でございます! きっと師も同じように言うでしょう! 有難き幸せにございます、王太子殿下――!」
それ以後、ライラは肩を震わせて沈黙してしまった。
これでいいかい? というように私とロランを見たユリアン王子に、私は大きく頷いた。
ユリアン王子は頭を掻き、私に顔を寄せてボソボソと耳打ちした。
「言っておくが、これで君たちとの貸し借りはナシだぞ。王家がハノーヴァー辺境伯家に借りがあるなんて想像しただけでもおっかないんだからな。全く、他の貴族に知られたらまた笑われる――」
「いいえ殿下。真に慈悲深い話だとして殿下の名声が国中に轟きますわよ。王家にも利益はある行いと存じますが」
「ふん、言うようになったな、君も。そういうところ、もうすっかりハノーヴァー家の人間だ――」
とっておきの憎まれ口を叩いて、さて、とユリアン王子は顔を上げた。
「後始末は明日以降だ。近衛兵に宴の始末を任せてもう僕らは帰る。なんだか疲れてしまった。君たちも疲れてるだろうから今日のところはゆっくり休みなよ――ノエル、行こう」
なんだか、この几帳面な王子にしては随分投げやりな台詞とともに、ユリアン王子はくるりと踵を返した。
ずっと会話に参加していなかったノエルが、一度だけ私を見た。
「ノエル――」
私が呼びかけても、ノエルは無言だった。
無言のままだったけれど――ノエルの目に一瞬だけ、私を憐れむかのような視線が注がれた。
でもそれも一瞬のこと、ノエルはすぐに眉間に皺を寄せ、私から視線を逸らしてしまった。
それでも、私はなおも何かを言おうとノエルに呼びかけた。
「ノエル、あの――!」
それ以後、言葉が出てこなかった。
何をどう呼びかけていいのか、すっかりとわからなくなっていた。
この半年間で――否、とうの昔に千切れ、バラバラになってしまった何かが、私にそれ以上の言葉を紡がせることを拒否させていた。
もう、私たちは姉妹ではないのかもしれない――。
その恐怖に言葉を失って俯くと、ノエルも同じように思っているのか、無言でユリアン王子の背中を追おうとする。
「王太子妃様!」
不意にロランが発した大声に、ノエルが立ち止まった。
まごついている私を置いて、ロランが歩み寄ると、ノエルが不審そうに振り返った。
「王太子妃様――いや、聖女様。これを」
ロランが、掌に乗せたものをノエルに向かって示した。
何だ? と不審げに視線を落としたノエルの表情が――驚愕に凍りついた。
ロランの掌に乗っているもの――。
数年前、私がライラたちに貸し与えたもの。
ノエルが私にくれ、私が手放し、そして今再び私たちのところに帰ってきた宝物。
銀とサファイヤで作られた、星型のブローチだった。
「どうしてあなたがこれを――!?」
ノエルが愕然とロランを見上げた。
ロランは少し気遣わしげな表情で言った。
「この星型のブローチは、そこに居りますライラ兄妹に貸し与えられていたものです。数年前、彼女は重い病を患い、明日をも知れぬ身で王都を彷徨っていたそうです」
そうだよな? というようにロランがライラに目配せすると、ライラが目に涙を浮かべたまま、何度も何度も頷いた。
「あなたが――あなたが、あのときの――!?」
「そうです。彼女はこのブローチのお陰で一命をとりとめた。そして今や医師として、多くの患者を救う人になっております。これはその後、彼女の兄である人が必死になって買い戻し、手元に残していたものです」
ノエルの目が、驚きで揺れた。
今度はロランの目が私を向き――私は罪悪感に俯いた。
「アリシアはね、このブローチの価値を忘れていたわけじゃない。むしろ逆なのです。重い病から自分の命を救ってくれたこのブローチの魔法を、あなた方姉妹の宝物だったこれを、同じく病に苦しむ兄妹に貸し与えたのです。きっと病が癒えたら返しに来てください――アリシアはそう、彼女たちと約束していたんだそうです」
ノエルが私を見た。
私はその目を正面から見ることが出来ず、顔を俯向けたままだった。
絶句しているノエルに、ロランは少し迷ったような表情になった。
「そして今、このブローチは再びその兄妹を救った。伯爵家の家令として、ここで虐待されていた貧民たちを庇い護っていた男を、悪魔の凶弾から救った。この傷がそうです。彼女たち兄妹は何度も何度もこのブローチに救われていた……」
信じられない、というように、ノエルがロランを見上げた。
ロランはしっかりと頷いた。
「このブローチは、あなたが姉であるアリシアを救おうと必死になってかけた魔法は、形を変え、多くの貧民たち、王都の民たちをもずっと癒やし続けていたのです。そして今、この地獄と化した農場をも解放した。人々を癒す不思議な魔法、その魔法を最初に使ったのは――聖女様、あなたなのですよ」
私が――。
ノエルの口が、そう動いた。
ロランはしばらく無言になった後、ノエルの手にブローチを置いた。
「約束は果たされた。彼女たちは立派に病を癒し、これをあなた方姉妹に返した。アリシアは決して人でなしになっていたわけじゃない。聖女様、どうかそれだけは――」
「言わなくてもわかりますわ」
不意に、ノエルが穏やかな声で言い、ロランの背後で小さくなっていた私を見つめた。
私は恐る恐る顔を上げ、私たちは私が視線を逸らすまでのほんの短い間、正面から見つめ合った。
「――ごめんなさい、ノエル。私、あなたがくれた宝物を――勝手に人に渡した。それをあなたが気にしていることも、私――」
「気づいてなかったって? 相変わらず鈍感ねぇ、お姉様は」
呆れた、と言いたげなノエルの言葉に、え? と私は顔を上げた。
「そういうところ、ホント小さい頃から変わらないわね。鈍感で、どんくさくて、鬱陶しくて、馬鹿で、本当に、本当に理解できないわ――」
苦笑顔で私を見つめたノエルに、私は思わず、呆気にとられてしまった。
くすくす……と、なんだか安堵したように笑ったノエルが、今度はロランを見た。
「前言撤回よ、お義兄様――いや、ロラン・ハノーヴァー。あなた、なかなか素敵な男の人だわ。ホント、アリシアにはもったいない男――」
なんだか、妙に熱っぽい視線と声だった。
そのうっとりとした表情のまま、ノエルがそっとロランの頬に触れようとした。
「だっ――ダメっ!」
思わず、私はロランの右腕を取り、力任せにノエルから引き剥がした。
うわっ!? とロランがたたらを踏むのにも構わず、私はロランの腕に顔を寄せ、大声で宣言した。
「これは、私のものっ! お姉ちゃんのものだから、ダメっ!!」
あ――と、叫んでしまってから驚いた。
その大声に、その言葉に、ユリアン王子すら振り返り、私を不思議そうに見つめた。
一瞬、キョトンとしたノエルが――一瞬後には声を上げて笑った。
その笑いに急激に顔が熱くなった私だったけれど、私はそれでもロランの腕を離さなかった。
この人だけはノエルにくれてやれない、これだけは絶対に、私のものだ。
私は実に数年ぶりに、このわがままな妹に対してはっきりと、自分の所有権を主張したのだった。
ひとしきり笑ったノエルは、目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、それから不意にしゃがみ込んだ。
これはもう、私には必要ない――そう言うかのように、ノエルはそっと、銀とサファイヤの星を地面に置いた。
「捨てるものがあれば、拾うものもある――そうでしょう?」
なんだか、私には意味のわからない言葉だった。
その言葉になんだかはっとしたようなロランを面白そうに見て、ノエルは静かに踵を返した。
「の、ノエル――!」
私がなにか言おうとしても、ノエルは振り返らなかった。
思わずその背中に向かって駆け出そうとすると、それをロランが静かに制した。
「いいよ、アリシア。聖女様はきっと納得したよ」
「でも、でも私、もっとちゃんと謝らないと――!」
「いい、言葉にしなくてもわかってる。君たちは家族じゃないか」
家族。
その言葉にはっとすると、ロランは私に向かって優しく微笑んだ。
「君の妹ならきっとわかるさ。自分たちはまた姉妹に戻れたんだって――僕なら、僕ならきっとそう思うよ」
ロランが、安心させるように私の頬を撫でた。
その温かさがなんだか心に沁みて、私の中で様々な感情がぐちゃぐちゃになって、涙が浮かんだ。
「ロラン様、私――」
「もういい、もう終わったよ。さぁアリシア、あのブローチをハノーヴァーに持って帰ろう。君たちの宝物なんだろ?」
私は、涙に滲んだ視界に、去ってゆくノエルと、銀のサファイヤとを視界に入れた。
とうに沈んだ太陽の、それでも消え残る光を浴びて、ブローチのサファイヤがきらきらと光った。
不意に――既に夜になっている空の向こうで、きらりと流れ星が尾を曳いて流れていった。
私の人生で最も長かった一日が、そうやって静かに暮れていこうとしていた。
くぅ~疲れました! これにて王都編は完結です!
実に30万字近くになってしまいました。
この物語もここで一区切りがついたかと思います。
如何でしたでしょうか。
「面白そう」
「続きが気になる」
「がんばれ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。





