視えるひと
ギィン、ギィン……! という剣撃の音だけが連続する農場に、突如として誰かの歓声が聞こえた。
はっ、とその場の全員が虚空を見上げたとき――「レオ兄ぃの勝ちだ!」というシェリーの元気いっぱいの声が聞こえ、マンシュ伯爵が目を見開いた。
「馬鹿な――! ライザールが、ライザールがやられたというのか……!」
「これであなたは丸裸ですね、伯爵」
ロランのその言葉に、伯爵は顔を歪めた。
「彼を信頼していたんでしょう? 見ていればわかります。彼はあなたの分身……いや、それ以上だった。彼がやられればあなたの戦力は半減したも同然だ」
ギリギリ……と、細かな音が聞こえ、私は音の出どころを目で探した。
なんと、それは伯爵の奥歯が立てている歯ぎしりの音だった。
「さぁ、残りはあなただけだ。決着をつけましょうか」
「この小倅が――! 貴様などに私が否定できるものか!」
伯爵が鋭く剣を振り抜き、ロランの側頭を狙った。
まるで手品のように剣の峰でその一撃を止めたロランに、伯爵が両眼をこぼれ落ちんばかりに見開いて踏み込む。
刃と刃が擦れ合う音に、ロランの顔が歪んだ。
「何故この農場を騒がせる!? 貴様だって領主の一族だろう。正義ごっこがしたいなら領地に帰っていくらでもやればよい! 何故我々と関わり合いになろうとするのだ!」
「生憎、あなたのような外道を捨て置くことなど到底出来ない……! 僕が無視したとしても、僕の婚約者はそう願わないでしょうから……!」
「愚かな! その小娘に毒されたか!」
伯爵がまた一歩踏み込んだ。常軌を逸した剣圧に圧され、ッ――!? とロランが身を捩り、危うく剣撃を躱す。
一瞬前までロランの顔があった部分を伯爵の剣が通り過ぎ、ロランの頬をかすめた。たら……と傷から流れ落ちた血の一滴に、私は悲鳴をあげた。
「何が聖女だ、何が祈りだ! そんなもの、そうしていれば世過ぎができる愚か者どもの作り出した幻だ! それこそがまやかしなのだ!」
伯爵は大声で喚き立てた。
「聖女など単なるお飾り、この世の無知蒙昧どもの象徴に過ぎん! その祈りで雨を降らせることも、その力で飢えを癒やすことも出来はしない! その存在を恨んでこそ、唾棄すべきものと考えてこその人間だ!」
聖女はお飾り――それは確かに、私の両親が、そして多少学のある貴族ならそう考えて然るべきことだったはずだ。
人間の叡智や意志を信奉している伯爵にとっては、聖女とは殊更に憎むべき存在であるに違いなかった。
事実、剣の鋒を真っ直ぐにロランに向け、伯爵はなおも喚いた。
「私は意志の信奉者――聖女などという存在には端から頼りはしない! 人間が求めるべきは力と叡智だ! それを求める意志こそが人間の真価なのだ!」
言っていることの内容はさておき、その声はどう考えても狂人のそれだった。
明らかに平常心を欠いている伯爵は、ゆっくりと剣を構え直したロランをせせら笑った。
「貴様だって本当は信じてはおらんのだろう! 多少知識や意志があっても、その娘が何かを成し遂げるなど、やはりまともな頭をしておれば信じられるわけがなかったのだ! その小娘は聖女などではない! やはり聖女などこの世のどこにもいはしなかったのだ! 違うか、ロラン・ハノーヴァー!」
やはり? やはりとはなんだ? どういう意味だろう。
なんだか妙だ――伯爵の言葉に、私は少し疑念を覚えた。
違和感を感じたのはロランも同じだったらしく、ふぅ、と疲れたようにため息をついたロランが、静かに口を開いた。
「随分、躍起になって聖女を否定するんですね――」
その一言に、伯爵が酷薄な笑みを消した。
その指摘が心底意外だったとでもいうような表情の変化に、私の中の疑念が確信に変わった。
「伯爵、あなたは内心では救われたいのではないですか? その聖女と呼ばれる存在に――いや、誰でもいいから、今の自分を救ってほしい……そうなのでは?」
伯爵の目が、ほんの少し泳いだ気がした。
体裁を取り繕い続けることに慣れ切っているらしい伯爵にしてみれば、それは重大な変化の兆候に違いなかった。
「伯爵、さっきから聞いていれば、随分あなたは意志、意志と口にする。しかし聞きます。それは本当にあなたの意志なのですか?」
「な、何――?」
「あなたは別に意志を信奉してるわけじゃない。むしろ何かに怯え、恐れているように見える。だから自分を救ってくれない聖女を憎む。何かに没頭してそれを見ないようにしている。実はそうなのではないですか?」
「だ、黙れ! 貴様に何がわかる!?」
「あなたが怯えているのは、あなたが恐れているのは――おそらく」
ちら、と、ロランが伯爵の背後に視線を移した。
「今もあなたの背後――すぐそこにいる弟君だ。違いますか?」
えっ? と、私はロランを見た。
そう言われた伯爵から一瞬、まるで作り物の人形のように表情が消えたと思った次の瞬間――。
激しい――この男の平常から考えれば、異常とも言えるほどの動揺が発した。
「な――」
「図星、のようですね。あなたは単純に怖いんだ。優しかった弟君を手に掛けたそのとき、あなたは弟君の亡霊に取り憑かれたんです。アリシアに興味を持ったのもそのせいなのですか? 自分以外には見えないはずの亡霊も、聖女なら見える、祓えるかも知れないと思った……そういうことなのですか?」
伯爵は、声も上げずに顔を強張らせた。
私は激しい動揺を見せる伯爵の背後を見た。
やはり――そこには誰もいはしない。
だがロランの視線は伯爵の背後に注がれたままだ。
その表情は、その目は、単純な揺さぶりや芝居ではないものに見えた。
一体、一体、ロラン様には何が見えているの――?
私が別の意味で恐ろしくなった時、ロランが一歩、伯爵との間合いを詰めた。
「きっ、貴様も、貴様にもまさか――!?」
伯爵が蒼白の顔で、ちらと背後を振り返った。
「ええ、視えますとも。何故、何故……と、そうあなたに問い続けているのもわかる。恐ろしい声で、あなたが寝ても醒めても、そう耳元で恨み声を上げるんだ」
それも――図星だったのだろう。
カタカタ……と、伯爵の握った剣が小さな音を立て始めた。
ロランが伯爵に視線を戻した。
「あなたの弟君は、こよなく愛し、こよなく尊敬したはずのあなたに殺された。あなたは弟君がその理由を聞きたがっているのだと思っている。だから何故、何故と問うてくるんだと思っているのでしょう? だからこそ、あなたは賭けを降りられない。弟君のその問いに答えられなくなるのが怖いからだ」
「や、やめろ――!」
伯爵が恐れ慄いたように一歩後退した。
まるで狼のような眼光を湛えたまま、ロランは開いた間合いをまた一歩詰めた。
伯爵はよたよたと後退し、顔を背けたり身を捩ったりして、ロランの眼光から逃れようとする。
「きっ、貴様には、何が視えている――!? や、やめろ、私を視るな! 私を覗くんじゃない!」
「安心してください。僕に視えるのは亡霊だけですから。あなたの本性、あなたの秘密など――僕には見えはしない」
たらり、たらりと――。
まるで毒を流し込むかのような口調で、ロランは一層声を低くした。
「いい事を教えてあげましょう、マンシュ伯爵。弟君の言う『何故』とはね、何故自分を殺したのか、という意味ではないのですよ」
ロランは、狼狽する伯爵を真っ直ぐに睨みつけた。
「弟君はね、あなたにこう問いたいんです。『何故、あなたは生きているんだ』とね――」
は――? と、一瞬呆気に取られたように気抜けしてから。
数瞬後には――冷や汗に塗れた伯爵の顔が、はっきりとわかるほどに、ガタガタと震え始めた。
「な、何故だ!? 何故貴様にそんなことがわかるッ!? きっ、貴様は一体何者だ!? 何故、何故この亡霊が……!?」
「視えるのか、ですか。それは簡単なことですよ――」
ロランが一歩、また一歩と踏み込み――徐々に歩調を早めて伯爵との間合いを詰めた。
ひぃ、と恐怖の表情で剣を構えた伯爵だったけれど、そうすると決めたらしいロランの足は止まらなかった。
瞬間、一層大きく踏み込んだロランが、憐れむような、自嘲するかのような笑みを浮かべたように――私には見えた。
「僕もあなたと同じ呪われた身――実の兄を殺した身ですから」
ロランの声で、そんな言葉が聞こえた気がした。
あ――! 伯爵が、短く悲鳴を上げた。
恐怖に震える伯爵がまた一歩後退しようとした、その瞬間だった。
ぶちゅっ、と、伯爵が何かを踏み潰した音が発し、あっ、と私は声を上げた。
そこに転がっていたのは、農場で生産されていたトマト。
そのトマトを踏んだことで伯爵の足が滑り――伯爵の身体が大きく後ろに傾いだ。
素早く、ロランの手が動いた。
腰に帯びていた剣の鞘のベルトを素早く払ったロランは、左手で鞘の端を掴むや、今まさに倒れ込もうとする伯爵の側頭を一撃した。
鋭い、邪悪な意志を断ち切るかのような音が、廃墟と化した温室を震わせた。
伯爵が仰向けに倒れ込んだときには、伯爵の意識は既に消失していた。
足を投げ出し、腕を広げ、顔には凍りついたかのような恐怖の表情を浮かべて――。
稀代の策謀家であり、【切り裂き魔】とその切れ者ぶりを畏れられた男は、自分の人生の成れの果ての――その中心に倒れた。
ふう、とロランがため息を吐き、剣を鞘に収めた。
剣の鍔が奏でた短い金属音が、この大騒ぎの終了を告げる音に聞こえた。
しばらく、何も言えずにその後姿を眺め続けた私を――やおらロランが振り返った。
その顔は汗にまみれていたけど、やることはやった安堵と開放感が浮かんでいた。
私はロランに駆け寄り、無言でその胸に額を押し当てた。
何も言えず、両手でその身体を抱き締めると、ロランの手が私の頭に回った。
怖かった。本当に、怖かった。
この人が殺されてしまうのではないかと、本当に怖かった。
私は全身でロランを感じ、いまだに恐怖に震えている身体に、ロランが生きているという事実を教えた。
教え込まないと――今すぐこの場にへたり込んで泣き喚きたくなってしまいそうだった。
「ロラン様――」
「ああ、僕は無事だよ」
「ロラン様、ロラン様――!」
「大丈夫、大丈夫だよアリシア。もう終わった。終わったんだよ――」
ロランも、そんな私に黙って付き合ってくれた。
どれだけ、そうしていただろう。
私が顔を離してロランの顔を見上げると、ロランは私の頬に貼り付いた髪を指で戻しながら、静かに微笑んだ。
「さぁ、勝負はついた。ハノーヴァーに帰ろうか、アリシア」
「面白そう」
「続きが気になる」
「がんばれ農協聖女」
そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。
何卒よろしくお願い致します。





