聖女様はべと病と戦っていた
それから一週間。
私は図書館の資料を読みながら、ハノーヴァー領の状態についての知識を仕入れた。
まず最初に、この地の農の歴史からだ。
ハノーヴァー辺境伯がこの地を治めるようになって約100年、この土地は数年おきに、不作と、悲惨な飢饉とを繰り返してきたようだ。
ロランも言っていた通り、この地は夏になると、隣国のヴェルカの東に位置する海から湿潤な風が吹き込み、それが山脈で冷やされることによって冷涼な風となる。
そのせいで夏場も7月頃までは容易に気温が上がらず、夏や秋に収穫する麦や夏野菜などの作物はどうしても不作になる傾向があるようだ。
そのせいか、他の地域の農業ではメインとなる大麦や小麦の作付けはあまり多くなく、主食はもっぱら寒さに強いカブやカボチャ、ソバなどが多いらしい。
私は更に資料を読み進めた。
そんな天候的・地理的不利益が重なるハノーヴァー領の経営を支えるものは、北東部の山岳地帯から採れる豊富な鉱山資源、そしてやはり私の予想通り、葡萄と、それを原料としたワインであるらしい。
確かに、ハノーヴァー産のワインと言えば、王都で開かれる舞踏会や晩餐会でも最高級品として扱われる逸品だ。
ハノーヴァー領は山岳地帯ではあるものの、反対に降雨量はそれほど多くはなく、山に周囲を囲まれた盆地であるため、昼夜の寒暖差も厳しい。
そのため寒暖差が美味しさの秘訣である葡萄はよく育ち、それがハノーヴァー産のワインの製造を支えているようだ。
確かに、ここまで山間僻地である割には、ハノーヴァー領は王都でもそこそこ存在感のある地方だ。
それはハノーヴァーの農民の多くが換金効率の高いワイン用の葡萄を生産しているからだと思われた。
慢性的な不作が続いているとは言え、ここハノーヴァーの農民たちがそこまで決定的に追い詰められていないのは、ひとえにワインの存在があるからのようだ。
だが――私は更に資料を読み進めていくうちに暗澹とした気分になった。
それは葡萄の病害の歴史を記した資料を読んだときだった。
確かにこの地方が葡萄の一大産地であることは間違いない。
だが、それは同時に、病害に苦しめられる歴史でもあるようだ。
私の目が、あるページで止まった。
それは葡萄の果実と葉をスケッチしたものだった。
白く腐れたようになった果実と、痣のように葉面を侵食した病害を記したスケッチだった。
「べと病か……」
私は思わずひとりごちていた。
そう、大概の農家にとって大敵である、代表的な病害だった。
この病は秋に長雨が続くと発生しやすい病害で、多くの野菜や果実に発生する場合がある。
特に秋雨が多く、カボチャやカブ等の救荒食料など、べと病が発生しやすい作物の作付けが多いここハノーヴァー領では、その被害は壊滅的なものになりやすいらしい。
秋雨をきっかけに好発するということは、その収穫直前に作物がダメになってしまうため、それだけ不作や飢饉になりやすくもなる。
この地方の飢饉の歴史は、天候との戦いであるのと同時に、このべと病との戦いでもあるようだった。
五年、聖女様からありとあらゆる農の知識と、飢饉への備えを叩き込まれた私の頭の中には、べと病に対する知識がないではない。
あらゆる作物に発生する上、一度発生してしまったら先代の聖女様と言えど決定的な対策が打てなかった、聖女の宿敵でもある。
ハノーヴァー領でのべと病をどう抑えているのか調べてみたが、祈りを捧げるとか、虫やらいの祭りをするとか、その程度のようだ。
べと病の病原体は落葉の中で越冬するため、その落ち葉を掻いたり、圃場の風通しを良くしたりすることで、ある程度は防げるらしいことは経験的に知られてはいた。
実際、先代の聖女様もそう指導していたし、それである程度病害の発生が抑えられた地域も、あるにはある。
だが、長雨と低温が続き、べと病が好発しやすい環境のこのハノーヴァーでは、それが根本的な解決にはなりはしないだろう。
なにか方法はないものか――。
思い悩む私が本のページをめくった時。
ひらりと、一枚のメモが本の間からこぼれ落ちた。
なんだろう……そのメモを拾い上げた私は、あっと声を上げた。
『昨年のべと病の大発生についての覚書』
乱雑な文字でそう書かれたメモの筆跡を見て、驚いた。
それは紛れもなく、先代の聖女様の筆跡だった。
私はその覚書の内容を読んでみたが、その年ハノーヴァー領に広がったべと病と、それによって起こった大凶作に対する聖女様の苦悩がびっしりと綴られていた。
日付を見ると、実に数十年前――逆算するに、聖女様が十五歳頃、まだ聖女として召し上げられる前の覚書であるようだ。
「聖女様……」
私は三年ぶりに聖女様と再会したような気持ちになった。
そして、まだ若かった彼女が感じた苦悩に、深く心を打たれた。
メモには、葡萄が空前の不作となったことにより、一家離散した農民や、王都に身売りせざるを得なくなった娘の話などが、実にリアルに描かれている。
もう二度とこんなことを繰り返してはならない、という悲壮な決意と共に締め括られた覚書を見ていると、胸が締め付けられた。
このときの不作の経験が、知識の聖女・エヴリンを作ったのかも知れない――私はなんとなくそう思い至った。
祈りよりも知識を求め、嘆くよりも行動を選択した聖女様は、祈り、象徴であるだけの歴代の聖女とは異質な存在だった。
だが、その知識や行動のお陰で、七年前の飢饉で救われた農民たちは多い。
聖女様があのように行動し、実践するようになったその原点を――私はその覚書に見ていた。
不意に、聖女様の懐かしい声が頭に響いた。
『アリシア、私の最期のお願いを聞いて――』
苦しい聖女様の声とともに、私の脳裏に、ある思い出がよぎった。
「面白そう」
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