手負いの獣
既に暗くなりかけている街を走りながら、私は延々と考えていた。
これがもし、ロレッタの洞察の通り、そして私の想像している通りなら――私たちはよかれと思ってとんでもないことをしでかしたことになる。
お願いだから予想が外れて――。そう強く念じながら、私は商業地区を駆け抜けた。
しばらく走り続けて――息が切れ、汗が吹き出し、膝が笑いかけたところで、救貧院の墓石のような影が向こうに見えてきた。
王都滞在中、もう何度訪れたかわからない救貧院は、昼間の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返り、夜を迎えようとしていた。
私はその聖堂のような佇まいを見上げ、息を整え、毒のように苦く感じる唾をごくっと飲み込んだ。
そのまま、テントで埋め尽くされている庭をのしのしと歩き始める。
ルーカスの元に案内してもらうために、誰か人に会わなければならない。
ふと――テントから出てきた、若い女性が、疲れ果てたように溜め息をついた。
ため息をついてから――こちらにやってくる私の姿を見て、女性は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。
「あの、こちらは一般人は現在立ち入り禁止で……」
「アリシア・ハーパーと申します。ハーパー公爵の長女で、元聖女候補者です。私のことをご存知ですか?」
私は初っ端から身分と立場を明かした。
時間も惜しかったし、少なくとも何の関わり合いもない一般人ではないことを明示する必要もあった。
ハーパー公爵、元聖女候補者、そのどちらの方が効いたのかはわからなかったが、若い女性は「は!? え!?」と素っ頓狂な声を発した。
「あ、あの……」
「昼間にこちらに搬送されてきたルーカス・ファレルさんに至急面会したいんです。ご案内をお願いできますか?」
「る、ルーカス、ルーカス……あ、ああ」
とんとんと畳み掛けると、女性は何だか気の毒そうな表情を浮かべた。
「ルーカスさん、というお名前なのかは存じませんが……それは昼間、こちらに搬送されてきた、痩せこけた男性のことでしょうか」
「はい、その通りです」
「あの、なんと申し上げればよいか……彼と面会するのは、その、おすすめいたしません」
女性は首を振った。
「何しろ酷く錯乱しているものですから……何かに怯えて悲鳴を上げるので、こちらではなく院内の一室に入っております。自傷行為に走らないように常に見張りがついているぐらいで……」
「彼の状態についてはよくわかっています。それでも至急話を聞かねばならないことがあります」
私は委細構わないという口調で詰め寄った。
「でも……」と煮え切らない返事を返そうとした女性の目を、ありったけの眼力を込めて見た。
ほとほと困り果てた、というような表情で、女性はため息をついた。
「……まともに話が出来るとは思えませんが」
女性は踵を返すと、ついてこい、というように私を見た。
私はなるだけの覚悟を固めて、女性の後に続いた。
◆
自分でも何年ぶりに立ち入るかわからない救貧院の中は、相変わらず、薄暗くて、肌寒くて、そして、なにか饐えたような匂いがした。
薬の匂い、食べ物の匂い、そして貧しさと飢え、そしてそれとすぐ近くにある死が放つ、異様な匂い――。
何度嗅いでも慣れることのない臭いだったけれど、正直全く嫌なことに――この臭いには不思議と馴染みがあった。
どこで嗅いだ臭いだったかな、と考えた私の脳裏に、七年前の大飢饉のときの修羅の光景がまざまざと広がった。
ごくっ、と喉が鳴った。
私は今、あまりに多くの生が否定されつつある空間に立ち入っているのだ。
死神があちこちに屯し、一人でも多くの命を刈り取ってやろうと目を光らせる、地獄と皮一枚で隔てられた空間。
できれば金輪際、もう二度と分け入って行きたくはなかった空間だった。
嫌な震えを必死に制してしばらく歩くと、女性はある部屋の前に来た。
同じく疲れ果てたような表情の年嵩の男性が、ドアの前に置かれた椅子に前傾姿勢で座っていた。
さっきこの女性が言っていた、自傷行為を防止するための見張りだろう。
男性が、顔を上げた。
「患者に面会です」
「面会――?」
冗談だろう、というように、男性は女性と、そしてその背後にいる私を見た。
男性が、少し慌てたのが雰囲気でわかった。
「も、もしやあなたは、あ、いえ、貴方様は――!」
私に見覚えがあったのだろう。男性が立ち上がった瞬間だった。
椅子が倒れ、派手な音を発して床に転がった。
「ひいいいいいっ!!」
途端に――ドアの向こうから悲鳴が聞こえた。
あ、とその場の全員の視線がドアに集中する。
「や、やめてくれ! あっちに行ってくれ! お、俺は何も知らないぞ! 頼む、俺を放っておいてくれ――!」
まるで振り絞るかのような悲鳴、否、懇願の声がビリビリと薄暗い廊下を震わせた。
「も、もう殴らないでくれ! 次からはちゃんとするから! 頼む、いや、お願いします! お願いします、お願いします、どうか、どうかお慈悲を……! あああ……!」
最後は涙声になった声に、ハァ、と男性が溜め息をついた。
「お久しぶりです、アリシア・ハーパー様――ですが、面会は不可能です。救貧院として許可できない」
ある程度その権限も持っているのだろう男性は、私の目を見つめた。
「この通り、患者は酷く錯乱しております。この状態では何をしでかすかわからない。実際、私も既に何度か危ない目に遭っている。とても貴族令嬢である貴方様に会わせられる状態にはないのです」
男性は静かに、私の翻意を促すように言い聞かせた。
「追い詰められた人間の行動や力には常軌を逸したものがある。たとえ金網越しであっても、それを歯で食いちぎって逃げようとするものさえいる。その様はまさに獣より獣――。悪いことは言いません、どうぞお引取り下さい」
「わかっています。危険であることも全て」
言うだけ言って視線を逸らそうとしていた男性が、驚いたように私を見つめ直した。
「ですが、絶対に彼に話を聞かねばならない事情があるのです。短い時間でもいい、とにかく彼に会わせてください」
「無理だ、と申し上げたはずです」
取りつく島もなく、男性は首を振った。
「いいですか、貴方様が今、どんな事情を抱えていらっしゃるのかはわからない。それでも諦めてもらう他ない。彼のためにもよくない。きっと彼はなにか余程恐ろしい目に遭ったのでしょう。そんな状態の人間は、あったことを人に話すだけで非常な負担になる」
ぐっ――と私は唇を噛んだ。
それはその通りだ。私だって、彼に負担をかけることはわかっていた。
「彼の神経は今、極度に緊張した状態にある。伸び切った綱のようなものだ。少し負荷をかけるだけでちぎれてしまうかも知れない。わかりますね? 見守ること、そっとしておくことだけが最善の治療法だと――」
「彼はこの奇病の出処を知っている可能性があるんです!」
私が思わず大声を発すると、男性も、そして女性もはっと息を呑んだ。
しばらく待ってみたけれど――ルーカスは怯えず、落ち着いたままだった。
やはり――私はほんの少し、あることを確信した。
王都の町中で彼を発見した時、彼は明らかに私のことをはっきりと認識していた。
彼と顔見知りである私なら、話を聞き出せる可能性はゼロではない。
私は言い張った。
「これは元聖女候補者としての言葉です。今となっては何の意味もないことなのかも知れませんが――それでも、私はこの状況を看過することはできません。一人の人間としても」
お願い、と念じながら、私は男性を見つめた。
「彼に負担をかけるかもしれない、私も危険な目に遭うかもしれない。それでも、ほんの少しでいい、今の事態を解決するためのチャンスをいただけませんか? お願いします――!」
私は頭を下げた。
一瞬、男性だけでなく、女性も狼狽えたのがわかったけれど――私は顔を上げなかった。
許可をくれるまでこの頭を下げ続けるぞ、という無言の圧力を含ませて沈黙すると、男性が短く嘆息した。
「――わかりました。顔をお上げ下さい」
私は頭を上げた。
「いいですか、十分だけ、十分間だけです。決して部屋の中に深く立ち入ったり、彼に触れたりはしないでください。掴みかかられたり、飛びかかられたりしたら――その時は、遠慮も手加減もしてはなりません。わかりますね?」
男性は私に覚悟を刷り込むように言った。
「相手はもはや手負いの獣です。いよいよの時は話し合いなど試みず、ご自分の身を護ることを第一に考えなさい。目を突いてもいい、噛みついてもいい、首を絞めてもいい、とにかく……必死になって抵抗なさい」
「寮長、それは――!」
あまりに不穏すぎる言葉に、女性が慌てた。
寮長、と呼ばれた男性は若い女性を見つめた。
「よい、全責任は私が持つ。――アリシア様、これははっきりと言っておきますが、これを私が許可するのはあなたの熱意に絆されたためではない。この奇病の撲滅のためにそうする必要があるという、あなたの言葉を信用するからです。私は今、この患者の命と、それによって救われるかもしれない、大勢の命を天秤にかける決断をしたのです――その意味がわかりますね?」
はっきりと言い切った男性に、私は頷いた。
男性は暫く無言で私を見つめた後――最早何も迷うことはなく、ドアにかかっていた外鍵を外した。
「ルーカスさん、面会です」
男性がそれだけ言うと、「め、面会……?」という、ルーカスの小さな声が聞こえた。
最小限だけ開かれたドアの隙間から、私は手負いの獣が待つ、狭い檻の中へと入り込んだ。
「面白そう」
「続きが気になる」
「がんばれ農協聖女」
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何卒よろしくお願い致します。





