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本当は理由をつけて杉本梨南を連れ出したかったというのが本音だった。
東堂のわけわからない言い分を聞かされているよりも、いやそれ以上に杉本が仲良くしているという不良女子の顔を眺めているのがいらいらするだけだった。
どう考えても、不釣合いに思えてしまう。
──杉本に気付かれたら、半殺しに遭うな。
わかっていても、感情が流れ出すのだ、しょうがない。
「立村先輩、どうしてまたわけのわからぬことをなさるのですか」
校門を離れ、いつもの校舎間にある森を潜り抜けながら杉本が尋ねてきた。
「本日の状況を鑑みれば、私が姿を消すべきところだとは思いますが、それでも立村先輩の言動は不可解です。今に始まったことではありません」
「悪かったな」
どうせ、今年の冬にかけて杉本をかっさらった時のことを指しているのだろう。
「でも、『今』は、納得しているだろ?」
「はい。あの場は東堂先輩と桜田さんをふたりにすべき場面と判断いたしました。南雲先輩がどうなさるのかまではわかりませんが」
──なぐちゃんはきっと、そのまま見送るだろうな。
南雲の性格は上総もだいたい熟知しているつもりだ。たぶん何もすまい。
──しかしだ。
上総はあらためて東堂の言動について首を傾げた。
「杉本、前から東堂の奴、あんな風にお前に文句を言ってきたのか?」
ほとんど上総には伝えてこなかったので驚いているのが現実でもある。杉本はしばらく黙った後、頷き、言葉を継いだ。
「はい。相当、私を誤解されてらっしゃるようです」
「言い返さなかったのか?」
「はい、時間の浪費ですから」
──なんで言わないんだよ。まったく。
青天の霹靂、とまでは言わないが、それでもやはり驚いたことは事実だ。何よりもあの杉本が、何も言い返さずに黙っていたこともまた信じ難いことである。
「生徒会グループが私に対してありもしない噂を触れ回っているのは知っています。だからこそ私は、軽蔑し無視すべきことだと考えておりました。わかる方がわかればそれ以上のことは求めません。桜田さんもそのおひとりです」
「だが、さ」
──東堂の一方的な態度はあれなんとかならないのか?
ぶつかった、巨木の枝を片手で叩きつつ上総は思った。
「杉本がすべて悪いと決め付けられているような言い方じゃないか。文句言うべきはお前の方だろう? ありもしない噂を盾にして、害虫のような言い方をされるのはちょっとな」
「しかたありません、私は所詮、この学校の害虫です」
さらりと杉本は述べた。上総は黙った。大きな瞳に揺れはなかった。その横顔を「害虫」を害虫と決め付けようとする何者かを、まとわりつく蚊と同じように思った。
「おちうど」に到着し、上総はいつものようにおかみさんへ挨拶をした。
「あら、かあさくん。お母さんとね今度また、上の部屋で会を行うことになったのよ」
何度か杉本を連れてきている場所だ。自然に受け入れられている。おかみさんは杉本にも軽く声をかけ、「お茶がよろしい?」と尋ねた。
「はい、それで結構です」
それだけ答えておけば、黙っていてもお汁粉かあんみつが出てくるはずだ。料金は要らない。そのことは説明してあるのだけれども、何度教えても杉本は財布を出そうとする。
「今度、お手伝い、してくれるわよね」
「まだ、聞いていないので」
言葉を濁した。また母から強引に呼び出されることがあれば、行かざるを得まい。以前は評議委員会の行事を盾に断ることもできたのだが、いかんせん「野に下りた」わが身。暇を持て余していることを知られている以上、言い返すこともできない。
すぐに席へ運ばれたあんみつを、杉本はじっと見下ろした。正面にいる上総を見返した。
「ここのあんみつは美味しいですね」
「そうだよな」
気のない返事を返しつつ、上総は冷たいお茶を一気に飲み乾した。
「食べれば」
「はい」
喉もとに冷たい感覚が走ると同時に、上総の頭の中ではいくつかの言葉が回転した。
──さて、何から始めたらいいんだ。
尋ねるべきことはたくさんある。まずは杉本自身の問題と、東堂の彼女の問題とだ。
まず杉本が巻き込まれたのかしでかしたのかわからない、例の「修学旅行おねしょ事件」だが、これはあんみつを食べ終えるまで待ったほうがよさそうだ。まずくなる。
そして東堂の彼女についてだが、これも美里のからみもあるので口に出すのは難しい。
杉本がかつて「親友」と信じていた佐賀はるみに関してはすでに幻だったのだと判明している。同時に桜田という不良女子が杉本とくっつきあうようになり、周囲では高校内も含め「やっぱりね、あのレベル同士がつりあっているのよ」と見られているのもまた確かだ。
おそらくだが東堂は、自分のいとおしい彼女が、嫌われ者の杉本梨南と同等の扱いをされるのが耐えられなかったのだろう。もちろん上総が三年間同じクラスであり、かつ杉本を可愛がっていることを知らないことはないだろう。上総も、
──知らない奴と売春行為なんかやらかしている女子なんかと同等に、杉本を見てほしくない。
という本音が隠れているのも事実。できればもっと、何事もない女子と仲良くしてほしいという身勝手な願望はある。
ただし、そんなことを口にしたら最後だともよくよく理解しているつもりだ。
ところが東堂は、そこまで全く考えることもなく、よりによって上総の付き添いがある中で、はっきりと「桜田と別れて欲しい」と言い放ったわけだ。ずいぶんなやり方である。
──てっきり俺が泣き崩れた杉本の面倒を見るとでも思ったんだろうか。
「おちうど」の美味しいお菓子を口にしながら上総は、ゆっくりと頭の中を整理した。
──あの場でもっと早くそこにたどり着いていたら。
きっと東堂を目の前にして罵倒していたかもしれない。そこまでの根性はなかったかもしれないが、一言二言は皮肉をぶつけていただろう。むしろそこまで気がつかなかったのが、杉本にとっても運がよかったのかもしれない。
どちらにしても、東堂とは南雲を挟まずに話をもちかけたほうがいいような気がしてきた。美里のことも今回は全く持ち出すことができなかったし、なによりも。
──なぐちゃんには悪いことしたな。
取り残されて、「あらら」とか言いながら場を持たせようとする南雲のことにようやく思いあたった。今度南雲には、ジュース一本おごろうと決めた。
あんみつがだいぶ杉本の口に運ばれたのを確認し、上総は声をかけた。
「杉本、あのさ。少しだけ、いいか」
「何がですか」
「なんか凄い噂流れてるよな」
いつかはきちんと話をすべきことだ。イエスかノーかはともかくとして。
杉本もさっきは桜田に対してその件に関する感謝の意を示していた。緊張はする。でも持ちかけてすぐ、あんみつをばら撒かれることはないだろう。
思った通り杉本は、まずガラスの器をテーブルに置き、正面から答えた。
「なんでも、私が修学旅行中粗相をしたとかいう噂がありますね」
表情が全く変わらなかった。他人事のようだった。
「どうなの、それ」
何事もない顔をしたほうがよさそうだ。上総はまだ皿に残っている冷たい羊羹を一口でほうばった。杉本の返事はやはり、あっさりしていた。
「まさか」
「でもお前、全然言い返してないんだろう」
「ばかばかしくて、話す気にもなれません」
「どうして言い返さないんだ?」
自分の問題が取り上げられているのに、動揺ひとつしない杉本。
──どうみてもこれは、杉本が無罪だろう。
ふだんの自分ならそう感じるだろう。上総は奥歯で何度も羊羹をかみ締めながら思った。杉本は決して嘘の言える子ではない。少しでも心に引っかかるものがあれば、顔に出る。
──だが、俺は現場を確認したわけじゃない。
──明確な証拠ってないのか?
今回、上総が「おちうど」に杉本を連れてきたのは、その明確な証拠を手に入れたかったからだった。どう考えても、自分ひとりの考えだけでは堂堂巡りになるばかり。それよりは当事者たる杉本に事情をすべて説明してもらい、そこから納得すべき答えを見出したかった。
それに、
──万が一、それが、事実だったとしたら。
そのこともじっくり考えた。可能性がゼロではない。
杉本の性格上、あまりにも衝撃が大きすぎた場合、無意識のうちに防禦体制をとってしまうところがある。以前、水鳥中学生徒会を訪問した際、佐賀はるみとのトラブルが原因で体調を崩し、保健室ならぬ用務員室のお世話になったことがある。理由は深く聞かなかったがいろいろとあったのだろう。杉本も誇り高い女子ゆえに、決して口には出さなかった。
あまりにも自分の理解できる以上の出来事がもし、起こってしまった場合、全くないとは考えられないだろう。ふとんを押入れに隠してしまう可能性だってある。知らない女子に押し付けてなんとかしようと考えなくもない。そう考える可能性すら、すべて否定することは、かえって杉本自身を拒絶することのように思えてならなかった。
・誰かの失敗をかばって、あえて知らん振りを決め込んでいる。
・女子特有の体調の変化で、緊急事態が起きてしまいショックのあまり。
・単純に……ジュースやお茶の飲みすぎで翌朝失敗してしまった。
・他の生徒にいやがらせされて、つまらぬ意地を張ってしまった。
可能性としてはこのあたりだろうか。
──さて、どうやって伝えればいいだろう。
上総はゆっくり練った。のこりのあんみつを杉本がひとつぶひとつぶ運んでいった。
小首を傾げてまた答えた。
「私が真実を知ってますから、他の狂った連中に何を思われても、全く気になりません」
「そうか、真実か」
「当たり前のことです。第一、証拠があるのでしょうか。すでに時間が経ってますので物質的証拠を挙げることはむずかしく、しかも事件現場は船でいかざるをえない場所です。本当でしたら私が直接、旅館の方に事情聴取して、真相を明らかにしたいのですが」
黙っていたら杉本の方から行動を開始するかもしれない。これはまずい。
「あのさ、杉本、聞いてくれるか」
「おちうど」のおかみさんが冷たい番茶をグラスで運んできてくれた。おかわりだ。
「俺も杉本の話は聞いているんだ、だからさ」
「確認したいわけですか、私がそんな無責任なことをしたのかと」
「いや、確認したって本当のことはわからないだろ」
「立村先輩は私のことを疑っているのですか!」
「疑うもなにも、俺は杉本がそうしてないという証拠を見せてもらってないから」
「先輩、そういう下品な趣味をお持ちだったのですか!」
甲高い声に首を振って否定するが、なかなかそれも難しい。言わねばならないから。
「そういうわけじゃない。俺が言いたいのは、杉本を信じることと、無実だと判断を下すのとは全く別だってことなんだ。イエスかノーか、それは俺にとってどうでもいいんだって」
「失礼すぎます。私が仮に、そのような失敗をしたとして、先生たちにも伝えず、旅館の方々へクリーニング代を払わずに犯罪者のような言動をするとお思いですか!」
──やはりそうだよ、杉本の奴、布団に地図描いたってことよか、それを隠すという責任回避ってとこに憤っているというわけだ。やはり、九十九パーセント、無実だろ。
そこまで言うのなら信じたい気もするのだが、やはりどうしてもひっかかる。
事実関係を百パーセントつかんでいないからなおのこと。
杉本梨南というのがとてつもなく頭の働く女子だとは上総も重々承知しているのだが、万が一の可能性として、自分のしたことを受け入れられないだけということも考えれられなくはない。命がけで嘘を言いつづけようと覚悟をしたとすれば、この対応も不思議ではない。もう居場所を失いたくがないために、すべてを嘘で固めてしまおうと心に決めた可能性だってある。
そこまで辿り付いた瞬間、上総の中で何かが疼いた。
──そうだ、すべてを嘘で固めてしまおうとする可能性。
ある、確かに自分にも、あった。なぜ忘れてしまっていたのだろう?
小学校の修学旅行前のこと。
──俺も似たようなこと考えたじゃないか。
上総はゆっくりと目を閉じた。杉本とかつての自分を重ね合わせた。
──逃げるためなら、手段を選ばないのは俺も同じことだ。たとえプライドをずたずたにしても、目的を達するためならどんなこともするのは、俺だって同じだ。
素早く上総は決断した。
杉本があんみつをすべて片付けるまで待った。
事実関係どうこうは関係ない。杉本梨南がこれから先、たとえ自分の「真」を曲げざるを得なかったとしても、上総は味方でいるという約束。中学二年の初夏、杉本の前で教室の中で告げた言葉だった。
──でも、俺は杉本のことを嫌いにはならないよ。行こうか。
どちらが真実なのか、そんなのはどうでもいい。
ただ自分は、何時であっても、杉本梨南の味方であることを。
「今、俺が話すこと、絶対他の奴には言うなよ」
前置きして続けた。
「約束はします」
あっさり答えられて一安心だ。上総は声を潜めた。
「俺は、小学校の修学旅行、行ってないんだ」
「そうですか」
「何でだと思う?」
「いじめられたからですか」
さらに声を小さくし、やはり落ち着かなくて耳を持ってくるよう身振りで指示した。素直に杉本は窓際を向き、こぶりの耳をしっかり向けた。
深呼吸して、息を止める。上総はかすれた声で囁いた。
「修学旅行前日の夜に、あれ、やらかしたんだ、その、つまりさ」
「おふとんに、まさか」
「そう、いわゆる、その、地図というか」
杉本の顔を見るのが正直怖かった。俯き加減で話を進めざるをえない。
覚悟して話し始めたはずなのに、まだ上総の中では四年前の出来事が時効になっていない。
杉本の顔なんか見られない。
前後で知らない年配の女性客が話しこんでいるのが聞こえる。たぶん、こちらの話には関心持たれていないはずだと信じたい。
「杉本も知っている通り、俺は小学校六年の頃、かなりいろいろあって、今思えば精神的にやられてたんだと思う。でも、修学旅行は義務でいかなくてはならないし、かなりしんどかったんだ。それまでは、というよりも、そういう失敗は、本当に全くなかったんだ。これは本当なんだ。だけど、よりによって修学旅行前の日に、なんか変だと思って目が覚めて、青ざめた。今でもあの時のことははっきり覚えてる」
「そうでしたか」
低い声で杉本が答える。
──頼むから軽蔑の眼差しを投げないで欲しい。
下から顔色をうかがうと冷たい視線でにらみつけてきた。
「言っとくけど、本当にこれが、最初で最後だったんだ」
「強調しなくてもわかります」
「ただ、やっぱりあの時は、人生終わったと思ってさ。しかたないから親を起こして、かくかくしかじかと説明して、その後で後始末してもらって」
「六年生だというのに、自分で出来なかったわけですか、後始末くらい! 事そのものよりも私は、立村先輩のその幼さに呆れます」
──やっぱり、呆れられたかよ。
人生、目の前、真っ暗とはこのことだ。
もう顔を覗き込む度胸などない。しかたない、話しつづけるしかない。俯いたまま。
「まったくだよな。とにかく、その時に、親に泣きついた」
「泣きついたのですか?」
「そう。一度あることは二度やらかさないとも限らないと思ったんで、頼むから修学旅行休ませてくれって」
「……よくそんな情けない言い訳、聞いてくださいましたね」
──全くだ。あれだけは奇跡だと俺も思った。
上総は頷きながら、残りの羊羹を平らげた。味がしない。皿を見つめていたら、すぐに持っていかれてしまい、目のやりどころがなくなってしまった。
「杉本、俺が言いたいのはさ」
「立村先輩ならありえないこともないでしょう」
──何もそこまで言うことは。
自業自得なので何も言い返せない。
「何度も言うようだけど、俺がしくじったのは、十五年生きて来て、本当に最初で最後だったんだってこと」
「しつこいくらい繰り返されてますが、そんなに強調されるのはなぜですか」
「だから、その夜目が覚めるまで、まさかその場でやっちまうなんて思ってなかったんだよ!」
もうやけっぱちで不良っぽい言葉を遣ってやる。
「絶対大丈夫だと思っていても、ある時全く予告もなしにしでかすって可能性は、全くないわけじゃないってこと、俺は言いたいんだって」
「確かに、『絶対』という言葉はありえません」
なぜかそのあたりだけ、納得顔で頷いた。
「俺が杉本を信じたい気持ちはあるけど、絶対にそういうことありえないってのは、そこのあたりが理由なんだ。杉本だって熱を出した日に、『杉本さんなら絶対に風邪を引かない』とか言われて決めつけられるのはいやだろ? それと同じだよ」
覚悟を決めて、顔を挙げてみる。
なんと杉本は、上総を真正面から見つめて、真剣な顔で頷いている。
──話は、伝わっている……。
人間性まで否定されてはいないようだ。安堵する。。
「例えがわかりにくいのはあやまる。とにかく俺は、杉本に対しての噂が事実であろうがなかろうがどうだっていい。どっちであっても、すべきことをまずしようか、って考えるだけだ。わかるか、その意味」
驚くことに杉本、恐ろしいほど素直に頷いた。
──繋がったよ……。
気付いていないわけではない。上総たちが卒業した後、杉本の置かれる状況は多々変化している。E組へ隔離されていたのが、学校方針も変わったのかB組に戻され、表面上はクラスとうまくやっていくように仕向けられている。もちろん上総がその状況をすべて知ることはできないが、なんとか杉本が生き残っていることだけは感じている。例の桜田という不良女子を含め、味方がゼロではないという現状は、救われているのだろうとも思う。
ただ、決して楽ではないはずだ。
先ほど東堂にいちゃもんつけられたように、杉本をできるだけ「関係のない存在」として遠ざけたいという動きがどこかかしこにあるのは自然だろう。
杉本もあれだけかしこい子だ。気付かないわけがない。
佐賀はるみや新井林健吾の天下となった青大附中で戦いを挑まないわけがない。
なのにだ。
なぜか、杉本の言葉や態度が、少しずつだがやわらかなものに変わってきている。ちょうど冬の風がゆっくりと春風に、また春の冷たい風がゆっくりと太陽に照らされて熱せられてきた初夏の風のように。
──関崎が同じ青潟大学附属高校の英語科にいるからかもしれないな。
かつての杉本だったら今の情けない上総の語りをあきれ果てた顔で見下し、
「立村先輩はきちんとおむつのトレーニングをされてこられたのですか! 情けない!」くらい罵りそうだ。織り込み済、覚悟の上だったのだが、妙にやんわりと交わされこちらが戸惑う。実は、何事も起こっていないのではないだろうか。上総がひとりあたふたしているだけで、杉本梨南自体は何一つ、動揺していないのではないだろうか?
穏やかに時を過ごしている。よい流れに、乗っている。
──そうさせたのは、俺じゃないんだな。
それだけが残念だった。
「立村先輩、私はおねしょをしてしまった人を責めているのではありません」
しばらく手をテーブルの下に置き、身体を一切動かさずに考えこむそぶりをしていたが、ふっと顔を挙げた。
「先輩のおっしゃる通り、『絶対にしない』ことはありえません。私も絶対に今後、同じ失敗をしないとは限りません。先輩の過去については今後、一切、責めたりしませんのでご安心ください。ただこれからはきちんと水分を寝る前二時間は控えることと、みみずに何かをされたり、火遊びなどは謹んでください」
──杉本、いったい何考えてるんだ。第一その、みみずってなんなんだ?
言い訳できるわけもなく拝聴するしかない。
「ですが、私が許せないのは、隠すという行為です」
相変わらずしゃちほこばった口調で、ポニーテールをまっすぐたらしたまま杉本は続ける。
「弁償をする、先生に対処を相談する、などその場合にすべきことはたくさんあります。さらに、事前準備として学校側へ提出する書類などもあるはずです」
「書類?」
「はい。先輩たちの頃はなかったのですか? 修学旅行および宿泊研修前の提出書類で必ず、夜尿症の有無といった欄に丸をつけるところがあったはずです。仮に私が一度でもおねしょをしてることを自覚していたら、ためらうことなく『有』の欄につけたはずです。少しでも思い当たる節があれば、私は決して隠しません」
証拠になぜ自分が拘ったのか、そんなことすらばかばかしい。上総からふと、力が抜けた。
──証拠なんて知ったことか!
「わかった、ごめん。俺が悪かった」
上総は静かに頭を下げた。疑うも何もない。杉本は上総の助けなど必要のない、確かな力を備えている。自分ひとりですべてに立ち向かえる女子だ。余計なことに気を回した自分を恥じた。
当然罵倒されるかと思いきや、杉本はさらに冷静に答えた。
「いえ、立村先輩のおっしゃるのはごもっともです。私は自分がそういうことをしておりませんので、学校側が私に罪をなすりつけても、堂々と申し開きいたします。なんなら私は、その当事者とされている渋谷さんと話をつけます。ただし、渋谷さんも何かのトラブルに巻き込まれている恐れがあるので、もちろん注意いたします」
「渋谷? もしかしてそれ、生徒会の女子のことか?」
もうひとりの容疑者……もう上総の中では真犯人として認識されるべき女子……の名が、はっきりした。少し驚いた。確か渋谷といえば、やたらときんきん声で、当時生徒会長だった藤沖も扱い方を持て余していた、かなり切れ者の女子と聞いている。また、上総の過去を暴露した風見という女子とも仲良く、当然、佐賀はるみとも親しいはずだ。
その、渋谷が、なのか?
「はい、そのような話です。こちらには全く思い当たる節のない以上、当事者同士で話をすべきだと私は考えております」
「でも、そのトラブルってなんだ?」
だんだん上総の中で答えがつながってきたような気がする。
「はい、渋谷さんが今、生徒会から追い出されようとしているとかいないとか、いろいろな噂が飛び交っております。私でしたらそんなくだらないことで差別するほどくだらないことはないと思いますが、生徒会の者たちは幼いのですね。もちろん私に今までしてきたことを許す気はございません。殺したい気持ちも多いにあります。しかし、それと事情とは別ですので、まずは直接、一対一でどういうことなのかを問いただしたいと考えております。立村先輩、私の考えは間違っておりますか?」
あいかわらずしゃちほこばった口調。でもその奥に潜む弱さ。いやそれ以上に凛と真を持った杉本梨南の矜持。
──こうさせたのは、俺ではない、関崎なんだ。
激しく、ちりちりと心の奥で音がする。
──たった三ヶ月なのに、こんなに。
大人になっている。追いつかれるかもしれない。いや、越されるかもしれない。中学時代の、やみくもに戦いつづけて来ていた杉本ではない。勝ちを信じて、負けない戦を余裕もってかます、そういった強さだ。
今の杉本なら、仮にこの前の新歓合宿で上総が関崎に厳しくつっこまれたり、麻生先生にまた嫌がらせをされたとしても、佐賀はるみほどではないにしても冷静に交わすことができるような気がする。
堂々と、恐れることなく、自分の真実を武器に。
──俺は、杉本を心配する必要なんて、本当はなかったのかもしれない。
杉本をバス停まで送り、上総は自転車で家まで向かった。
さっき、杉本に語ったことは有る意味真実だ。
両親も上総が小学の修学旅行前に布団をびしょぬれにしてしまい、泣きながら訴えたのをしっかり見ているわけだし、「ある意味」事実である。
──だが。
上総しか知らない真実が隠れていることを、誰も知らない。
杉本にも言えない、本当のこと。
あれは、上総が修学旅行に行きたくないがために演じた、芝居だったということを。
何よりも嘘を嫌う杉本に、上総は大嘘を伝えてしまった。
修学旅行に行けば、かならず夜が来る。夜がくれば即、男子部屋で行われるのは
「お前、誰が好きなんだ?」
「お前、もうそろそろ毛、生えてるのか。むけてるのか。立つのか」
「女子風呂覗きに行こうぜ」
だいたいこのあたりの話題だ。学校なら必死に教室から逃げればいいが、密室ならば僕は逃げ場所がない。
リーダーの浜野は、どんなことがあっても上総を肉体解剖の材料にしたくてならないようで、前もって、
「立村、修学旅行ではちゃんと、見せるとこ見せろよ。わかったな」
とそれなりの宣戦布告をされていた。
どうやって逃げればよかったのだろう。
今思えば、もっと恥ずかしくないやりかただってあったのに。
小学生の浅知恵と言われればそれまでだ。
仮病をつかっても、あの母親が許してくれるわけもない。一発でばれる。いじめられていると訴えても「やりかえしなさいよ!」と怒鳴られるのがおち。
上総が一ヶ月悩み続けて結局選んだのが、それだった。
緑茶を選んで真夜中やかんでお湯を沸かし、何杯か出がらしになるまで急須で煮出し、布団と寝間着に注意深くかけた。どうせベットは自分で使うものだから、決して汚したくなかった。お茶なら汚くないし、自分だけわかっていればそれ以降使っても気持ち悪くはない。ただ、お茶の香りだけがやたらと漂い、ばれるんじゃないかと冷や汗ものではあった。
あっさり母は、修学旅行への欠席を認めてくれた。
その間、ひたすら自宅学習をさせられたが、浜野たちにすっぱだかにされる恐怖に比べたらたいしたことではない。もっともその後、
「上総、もしまたおねしょなんてやらかしたら、あんたにお灸据えるからね! どこに据えるかは、わかってるでしょうね!」
しっかり脅されてはいた。もちろん、そのようなことはない。冗談じゃない。
どこかでわかっていた。
上総が知られたくなかったのは、六年にもなっていきなり布団に大きな世界地図を描いてしまい泣きじゃくる過去の自分でなく、「いやなことを回避するためなら、どんな汚い手でも使い、立ち向かうことなく逃げ続ける自分」なのだということを。
杉本に物語った小学校六年の上総は、臆病者のまま、今だ変わっちゃいない。
布団を隠して旅館を後にした誰かと、同じ事をしている上総が、四年後の今もそこにいる。
──杉本には決して、知られたくない。
上総は鞄から、霧島に渡すつもりだった問題集もどきの「キャリアOL写真集」を取り出した。机の上に置いた。曇り空がやがて細かい雨として降り注ぎ、外の草木が濡れていた。
──生徒会か。
霧島は確か、生徒会副会長のはず。次期生徒会長を狙っているとも聞いている。本来の上総ならばためらうことなく、写真集の縁を利用して渋谷の件を霧島に確認するだろう。杉本のために、何かをしなくてはとも思うだろう、しかし。
──そんなことをしようと考えること自体、杉本の能力を馬鹿にしていることになる。それに霧島だって、あんな場面を見られたことなんて思い出したくもないだろう。
野に下りたまま、杉本を支えることは、いくらでもできる。
──東堂のように彼女がひとりでは何もできないと決め付けてかばうのではなくて、杉本の力をすべて認める形で応援することがベストだ。
もちろん、誰かに刃向かわれた時には、全力で守る覚悟を用意してはいるけれど。
むしろ、心配せねばならないのは美里の方かもしれない。どちらにしても東堂とは早く話をつけようと決めた。こちらはいざとなったら貴史の力添えが必要かもしれない。
──清坂氏は、俺が思っているよりもはるかに弱いのかもしれない。杉本よりもはるかに。
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