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南雲から、三頭対談……とは勝手に上総が名づけたもの……の延期を申し入れられたのは帰り際だった。
「りっちゃん、悪い! これから規律委員会がらみでちょいと呼び出されちまってさあ。なんだよって感じなんだけど、次、必ず埋め合わせするからさ、ごめんごめん!」
「それは大変だな」
委員会活動がいくらおなざりのものになったとはいえ、いろいろと面倒なことがあるのは上総も熟知している。規律委員会がらみとなれば、当然東堂もいるだろう。それは仕方ない。残念だが、
「できるだけ早めに予定を組んでおきたいけどさ、いいかな」
「もちろんだって。明日やろっか、りっちゃんの都合はいかに?」
帰宅部オンリーの上総には特に予定などない。
「じゃあ、この埋め合わせはちゃんと、ポテトチップス一袋用意しとくんで、そこんとこよろしく! ごめん」
相変わらず形の崩れないきつねっぽい髪型をなびかせながら、南雲は階段を勢いよく駆け上がっていった。
特に用事もないのでさっさと家に戻り、早めに夕食を済ませた。
風呂に入ろうとして、湯船の蛇口をひねろうとし、ふと手が止まった。
──もう、限界だな。
この一週間、誰かに要求されたわけでもないのに自分ひとりで守っているひとつの「禁忌」。どうも今夜が限度らしい。
──寝ている間にしでかしたら、洗濯するのも面倒だしな。
それに、ひとつの疑問もある。
──本当に、あれを我慢していたら、背が伸びるんだろうか?
雑誌やスケベ話レベルの噂を、思いっきり信じてしまった上総の一週間。自分でも馬鹿だと思う。女子がダイエットに燃えるのと同じニュアンスで、上総はこの一週間、わが身に禁欲生活を強いていた。
──ちっとも伸びる気配ないだろ? 嘘つけ!
風呂はまた後で焚こう。まずは、この悶々たる精神状態をすっきりさせるのが先決だ。
上総は部屋に戻り、デニムの半そでシャツと黒ぶちのガラス入りめがねを用意した。いわゆる「伊達めがね」だ。これをかけると貴史や美里ででもそれが上総だと気づかない。変装するにはうってつけの小道具だった。
財布もしっかり持ち、生徒手帳はもちろん置いていく。
何よりも忘れてはならないのは、シャツの裾をふわりとベルトとチャックにかかるくらい長く出すことだった。たぶん人前でみっともない真似はさらさないと思うのだが、男子の自然現象をコントロールするのはやはり、難しい。一週間我慢しつづけた分、猛烈に「溜まっている」のは感覚でもよくわかる。健康な十五歳の男子には、やはり苛酷だった。
──効果がないんだったら、さっさとやめよう。こんなことは!
こういう時本条先輩がいれば、「夜、抜きすぎると背が伸びなくなる」という俗説が本当なのか聞くこともできるのだがそうもいかない。背丈が165センチから一切伸びなくなった上総にとって、この問題は切実なことなのだ。背丈に悩む必要のない貴史や南雲にもそんなこと相談できるわけがない。結局、自分で試すしかないわけだ。
風呂場であやうく手が動いてしまいそうになるのを必死に堪えるのも、限界に近い。
こうなったらやけだ。
──思いっきり好みの本を買ってきて、一晩中やりたいだけやってやる! どうせ俺は背が伸びないんだし、なにやったって無駄なんだって!
禁欲生活は、無意識のうちに上総を狂暴にしているような気もしていた。自分でもこれはまずいと思う。人さまに迷惑かけないうちに、気持ちよく果てようと決めた。
夜の七時過ぎ、藍色の空に丸いお月さまが浮かんでいた。自転車で駅前まで漕ぐつもりでいた。いわゆる「実用本」と呼ばれるグラビア雑誌なら近所のコンビニにも並んでいるのだが、さすがに知り合いと顔を合わせる可能性のある場所で買う気はしない。また、正直なところ上総の好みとして、ただ明るい可愛いだけのグラビアアイドルでは気持ちよく……というのが感じられなかったのも一因だった。好みがうるさい性格なのだ。
──少し年上に見えて、ほっそりしていて、上品な感じで、静かそうに見えるタイプ。
この好みは性に目覚めてからほとんど変わらない。
また、そういう女性の載っている雑誌はあまりない。写真集が中心となる。
上総も最近はこっそり、知り合いと顔を合わせないであろう書店を選び手に入れるようにしていた。やはり見られるのは恥ずかしい。男子ならまだしも、女子と顔を合わせた日にはもう二度と学校に通えなくなるんじゃないかと思うくらいだ。
──また、変な趣向の写真集じゃないといいんだけどな。
一度、ものすごく好みの女性モデルの写真集を入手したことがあった。顔もスタイルも雰囲気もぴったり、上総好みだったのだが唯一その写真集のテーマが、叩いたり吊るしたり縛ったりという、どう考えても拷問としか思えない内容だったのが誤算だった。もちろん壮絶なシーンだけではないので活用させてもらったが、やはり、後で、苦いものが残る。
──自然に、何も着てなくて、自然に、寝ているだけでもいいんだけどな。
まずい、こんなことを外で考えるようになっていること自体、禁欲で気が触れそうになっている証拠だ。やはり早く、自分で処理してすっきりした方がいい。鼻血ふいてぶっ倒れたり、布団の中であわやおねしょかとどっきりしたりするよりは、何千倍もましだ。
夜はやはり冷えた。こいでいるうちに自然と汗が流れてくるものの、やはり触れる風は冷たかった。すっかり黒空にネオンの漂う青潟駅に到着し、上総が向かったのは深夜まで開いているビル地下の古本屋だった。知る人ぞ知る、ここはグラビア写真集および十八歳未満お断りの雑誌がてんこもりの名店なのだ。本条先輩に教えてもらった。もちろん、十八歳未満お断り……のはずなのだが、よくよく見るとアニメ雑誌とか一般書などもおかざり程度に備えられている。ということは、そのあたりの健全な本を買いにきてたまたまひょいとみたら、年齢制限の雑誌がいっぱい……ということでごまかしもきくというわけだ。
まさかとは思うが、捕まることはないだろう。階段をゆっくり降りていき、ガラス戸に大量のピンクチラシが張り巡らされた戸口をそっとあけた。八時過ぎだと来店者のほとんどはサラリーマンらしい男性客が中心だった。背広にネクタイ。中にはTシャツとジーンズの学生っぽい風情の人もいる。幸い青大附属の関係者と顔を合わせたことは今日までなかった。
棚にだいたいふたりぐらい張り付き、ぺらぺら雑誌をめくっている。
特に何かというわけでもなく、時間つぶしといった感じか。
がっつくように見入っている奴は見かけなかった。
──少しゆっくり見られそうだな。
学生の多い古本屋だとそうはいかない。まかり間違っても学校近くの「みつや書店」でエロ本調達など考えることはできない。関崎は古本整理しながら、やはりエロ本の一冊か二冊、覗き込むことなどあるのだろうか。
ぱらぱら、興味があるなし関係なく手にとり眺めていく。この古本屋でありがたいのは、写真集にカバーがほとんど掛かっていないことだった。ある程度中を見て選べるわけだ。結構新刊書店の場合、表紙でひっかかって買ったはいいが、開いてみてげんなりというパターンが多々ある。たとえば上総の場合だと、清楚なワンピース姿の旅姿写真に心惹かれて購入したら、中は真っ赤なビキニ姿オンリーだったことがあった。かなり高い買い物だっただけにあの時は後悔した。なお、その本は高校に入ってから貴史にただで譲った。感謝されたのは言うまでもない。
まず、よさそうな写真集を手に取ってみた。
表紙はもとより、ページの中もチェックする。妙な汚れや手垢ができるだけついていないものを選ぶのは本音。本当なら新刊を買いたい。他人の欲望がくっついている古本を手にしたくはないのだが、そこが高校生経済の哀しいところ。切迫感と価格は比例してしまう。
めくってみても、ずんと激しくそそられるものは感じなかった。
仕方ないので別の棚に移動した。
めがねをかけなおし、シャツの裾を改めて伸ばし、先客の隣りに並ぼうとした。息を呑んだ。
──こいつは……!
伊達めがねをしてきて正解だった。
ぴっちりしすぎたスリムジーンズに、同じく小さめの白いTシャツ姿。
食い入るように両手で表紙を支えて見入っている。
しかも、上総と同じく、めがねをかけて変装している。
変装しているとわかるのは、自分よりほんの少し背の低い彼の普段の顔を知っているからだった。隣に立たれても、気付かずにページをめくり、口を半開きにしている。
こういう店では滅多に見かけない「がっつくように見る」タイプの客だった。
──霧島さんの弟だよ、こいつは……!
現生徒会副会長でかつ、秀才の誉れ高い美少年。
実姉の霧島ゆいとは瓜二つ、制服を着ている時は実にりりしい。
──霧島さんがアリスだとしたら、この弟は誰だろう?
イメージするならば、欧米の上流階級子息が集う学校ドラマに出てきそうな、気品のある王子様だろうか。青大附属でならそれも簡単にイメージできる。
がしかし。この場所で、キリオ……と、難波更科コンビは呼び習わしていた……は掃溜めに鶴状態。いや、鶴には見えないくらい、写真集にのめりこんでいる姿は滑稽だった。
──さっさと姿を消すことにしよう。気づかれないうちに。
上総はそっと背を向けようとした。ふと、霧島の横顔をちらりと目に留めた瞬間、鼻の穴付近にちらつく赤いものを見た。
──なんだ、あれは?
口紅でないことだけは確かだった。霧島は気付かずにひたすらページをめくっている。端正な顔立ちがどことなく間抜けに見えるのは口が開いて鼻の下が伸びているからだろう。そのえくぼに近いところに、またつつっと鼻血のようなものが下りてきた。いわゆる興奮して鼻血を噴いたという風には見えない。むしろ、青っ洟に色をつけたようなもの。自然にこぼれたようなもの。
──チョコレートを食べ過ぎたんでなければ、やはり、そうか。
男子の本能がどこで疼いているかは、ジーンズのシルエットを見ればだいたいわかる。やはりそのようだ。完全に「テントを張った」状態と化している。
ひとりの世界にこもってどうやら霧島は、背の高いハイヒール、およびスーツ姿のOLに妄想を膨らませているらしかった。こういう場合は知らん振りをするに限る。限るのだが。
「ああ、あ」
いきなり霧島がかすかな声を挙げた。鼻をすすり、初めて違和感に気づいたらしい。ぱたっと本を平台に取り落とし、手の甲で血をこすり、改めて見入った。
「血……」
小さく呟いた。手の甲を見つめ、いきなり怖気づいたらしい。たかが鼻血の一滴二滴で動揺する奴には見えないのだが、今上総の目の前で霧島はがたがた震えている。足元が見た目でもわかるほど揺れている。
考える間もなく、上総はポケットからハンカチを取り出していた。
霧島の目の前にそれを差し出し、握らせた。
「捨てていい。早く拭け」
初めて霧島は上総の顔を見上げた。黒ぶち伊達めがねに最初戸惑っていたようだった。それでもすぐに、めがねの奥にいるのがかつての評議委員長・立村だということに気付いたらしい。
「あ、あ」
短く、何かを発するだけ。いつか生徒会関係の出来事で見かけたような、生意気すぎる態度はおろか、甲高い声で人を軽蔑する言葉も出てこなかった。完全に硬直しているらしい。血を見たのがそんなに怖かったのだろうか。
次に上総は、霧島が手から落としたキャリアOL主演の写真集を拾い上げた。ちらとめくると、皮肉にもモデルさんは上総の好みそのものだった。まあ、真っ赤なスーツ姿というとどうしても母を思い出すのでそそるものは、正直ない。だがそれ以外の写真もそれなりに入っている。もしかしたら霧島は、上総と女性好みが似ているのかもしれない。
「外に出よう」
霧島の耳元に囁き、素早く腕を引いた。強引だったが霧島は逆らわなかった。硬直したまま上総に従った。反抗しなかったのが何故なのか、それが不思議だった。何も言えないままだった。
レジに立ち寄り、黙って写真集を差し出した。
「千円です」
ぶっきらぼうに店員が紙袋に包んでくれた。すぐに支払った。後ろで呆然としたまま、ハンカチを握り締めている霧島の背を押し、先に外へ出した。階段を昇りつつ、途中でふたたび立ち止まる霧島の腕を上総は引いた。そのまま、霧島は素直に従った。
──なんでこんなことをしたんだろう。
結局、自分の買いたい本は買えなかった。
よりによってなぜ、軽蔑されている自分が、青大附中副会長によけいなおせっかいをしてしまったのか、自分でも説明がつかなかった。
第一、こういうエロ本が並んだ古本屋を知っていること自体、あとでばれたらろくでもないことになるとわかっているのにだ。しかも、後輩とはいえ懐かれているわけではない。かえって嫌われているはずだ。なのに、なんで。
──身体が動いてしまった、それだけだ。
戸惑っているのは上総も一緒だった。霧島といえば、姉のゆいを罵倒するとともに、男尊女卑思想の猛々しさが目に余る奴ときいていた。プライドが高く神経質で、姉を心より憎んでいる。難波や更科からも彼の言動については頭の痛い事を聞いていた。とはいえ、外見の整っていることと、賢いこと、いわゆる「王子様」雰囲気であることなどもあり、学校内での評判はよい。
しかしなぜ、こんなところで、ひとり、パニックに陥ってしまったのだろう。
たかが鼻血くらいで、なぜ。
──あのまま放置しておけば一番良かったとは思うけどさ。
なぜか、そうできなかった。上総の中でスイッチが入ってしまった。
やはりまずいだろう。いくら青大附中がオープンな学校とはいえ、青少年に悪影響を及ぼすとされている写真集を手にしているのを見られるのは。上総からしたら、ああいう場所で違和感なく振舞えるのは本条先輩ひとりだけだと思う。
──さて、どうするか。
階段を昇りきり、霧島を改めて観察した。
上総の記憶する霧島副会長というのは、やたら甲高い声で相手を攻撃し、姉を罵倒している姿しか思い浮かばない。しかも自信ありげにだ。自分自身の中学二年時代を思い返しても、あそこまで自信まんまんに振舞うことはできなかったと思う。いや、今でも似たようなものだが。
しかし、その一方で「張子の虎」に似たものを感じたりもする。
姉のゆいが、青大附高への進学を拒絶された時の変貌を同学年として見つめてきた上総には、霧島弟にも同じ傾向があるように思えてならなかった。たった今、エロ本一冊で鼻血流した程度でこんなに動揺している姿を見ると、なおのことだ。
──おそらく、プライドはずたずただろうな。知らん振りして去ろうか。
素早く霧島弟の心情を感じ取ってみた。上総に与えられた数少ない能力のひとつだ。
見るからにしょぼくれている姿に、自信に満ちた生徒会副会長の面影を見出すことはできない。できないのだが、朝が来て学校に向かう頃には復活しているに違いない。いわば上総は霧島の隠された一面を発見したに過ぎない。もし何か脅迫するようなことがあれば話は別だが、それ以上何かをするつもりもない。野に下りた上総には、霧島弟と直接接点を持つ必要も全くない。
上総は伊達めがねを外さず、本の入った紙袋を差し出した。
「勝手に処分していい」
一言だけ告げた。すっかりびくついていた霧島が、身体をこわばらせて首を振った。
「俺と趣味が近かったから買っただけだが、こういうタイプのモデルは好みじゃない」
また霧島は口を半開きにして何かを訴えようとした。まるで別人を見ているようだった。制服を着ていない霧島がこんなに変わるとは、上総も想像していなかった。
「あ、あの」
「何か」
「持って、帰れない、帰れないんです」
改めて上総は霧島の顔を見つめなおした。王子様めいたその顔が、完全に崩れている風にも見えた。もちろん造作が変わったわけではないのだが、どことなくたるんでいる。
持って帰れない。
──そういうことか。
すぐに察した。特に女性の家族には見られたくない代物だろう。わかる、わかる。
「隠す場所はないのか」
「……はい」
想像はついた。そういうことなら仕方あるまい。
「それなら、明日の放課後、表紙をうまくごまかした形で渡すよ」
「ごまかす?」
言われた意味がわからないようだった。鼻をかきながら霧島が問うた。
「うちにある本の表表紙で、ちょうど大きさが合いそうなのがあるから、それをかけておけば当座はしのげるだろう。放課後に青大附中へ持っていく」
ひくり、霧島が身体を震わせて俯いた。なぜこんなにか弱くなるのだろう。
「あの、僕が、取りにいきます」
やはりとんがった声だった。そこから搾り出される言葉の弱さ。
「先輩の教室、わかります。英語科、A組」
そこまで口にした後、霧島が突っ立ったまましゃくりあげ始めたのを、上総はなすすべもなく見つめていた。人通りの多い駅前とはいえ、書店の色合いゆえに誰もいない。おそらく上総しかこの、崩れ果てた霧島を見かけることはないだろう。
──中学二年か。
ちょうどこの時期だった。思い出しふと、はにかみを覚えた。
──同じ時期だったな。
母にいわゆるその手の本を見られないよう父より忠告を受け、本条先輩に慌てて預かってもらうよう頼んだことがあった。当然本条先輩だからさんざんからかわれたけれど、今思えば上総のかたくなな性格を慮って言ってくれたのだとわかる。同期の評議連中から距離をおき、いわゆる猥談を嫌悪する振りをして、実は興味津々だったことを隠していた自分だった。二年経ち、上総の中で沸き立つ激しい欲望のようなものともなんとか折り合いをつけられるようになり、友だちともさらりと交わし合えるようになった。
そこまでたどり着くまでの時間が、二年だった。
──二年前の俺も、本条先輩からしたら、あいつのように見えたんだろうな。
なにか、許せた。
「お互い見られたくないところを見られただけだ、俺も口外するつもりはない。お前も言うなよ、霧島」
上総はそれだけ言い残し背を向けた。駅前の自転車置き場へ歩いていった。蛇の激しいうねりもいつのまにか落ち着いていた。もし上総が夜にエロ本を仕入れに出かけたことがばれたとしても、女子たちから軽蔑されるのが関の山。まあ杉本がどういうかは別としても男子はみな腹のうち分かり合っているから、人間関係が崩壊することもないだろう。気にせねばならない肩書もない。野に下りた以上、何も気にすることはなかった。